復讐者は雄(アルファ)に戻れない(試し読み版)2




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重い音を響かせ、扉が閉まった。ふたりきりになった部屋で、オメガの甘い匂いが空気を湿らせている。
ルカスは唇を噛んだ。

(この部屋でダリル様はオメガを)

犬歯が食い込んで、唇に血がにじんだのにも気づかないでいる。

「ルカス……」

何を言っていいかわからない様子で、ダリルは口をつぐんだ。
ルカスは手のひらを拡げ、見つめた。

「私はこの手で貧しい獣人たちを……同胞を傷つけました」

まだ戦闘の感触は生々しく残っている。

「マクウィン、そしてフリオンに謀られ、ひとり瀕死の重傷を負いました。それでも」

ルカスはダリルに視線を向け、ゆっくりと立ち上がった。
ダリルの顔に浮かんでいるのは怯えだろうか。
獣の興奮がルカスを駆り立てた。

「それでも私は幸せでした。あなた様を愛していたから。あなた様のためなら私は何でもできた」
「来るな」

震える手でダリルの肩を掴み、立たせる。額がつきそうな至近距離で、ルカスはダリルの瞳を覗き込んだ。

「こんな報いを受けるぐらいなら、あのまま林で死んでいればよかったんだ」
「ルカス、やめろ」

愛し続けた男が今は憎くてたまらなかった。
いちばんぶざまな姿でこの人を傷つけたい。理性などいらない。獣でかまわない。
咬みつくように、ルカスはダリルの唇を奪った。首筋の金環に手をかけるとダリルは怯えた様子で身をよじる。
その反応はルカスをひどく昂らせた。かまわず金環をむしり取った、次の瞬間だった。

「……!!」

どくりと心臓が強く波打つ。ルカスは目を見開いて固まった。
オメガの匂いがダリルの首筋から一気に噴き出す。怯えと甘えが入り混じった香りは、ルカスから思考力を奪っていく。

「どう、して」

驚いてこぼれたルカスのつぶやきは、すでに意味ある問いかけではなかった。アルファの本能が、身体の奥底から暴力的に突きあがってくる。
ダリルのか細い声がかろうじて耳に届いたのは、そのときだった。

「たすけて、くれ」

ダリルは目を見開き、身体を震わせている。
ルカスは呆然とダリルを見つめた。

「なんだ、これ……ルカ、ス、立って、られない」

しゃくりあげるようにダリルの息があがっていく。瞳が潤む。すがるようにダリルの手がルカスの胸に沿った。

「熱い……さび、しい……こわい」

信じられなかった。ルカスの目の前で、ダリルはか弱いオメガになっていく。

「オメガなんかに、なりたく、ない、のに」

ルカスは何も理解しないまま、ダリルの身体を強く抱き寄せた。
真っ黒な憎しみが、ルカスの中でアルファの庇護欲にすり替わっていく。

「ルカ、ス……たすけて」

ダリルはルカスのシャツを強く握りしめ、顔を胸に埋める。やわらかな栗色の髪が顎に擦りつく。不安そうなオメガの香りがルカスの脳天を痺れさせる。
ルカスは身震いした。
まるで小さな子どものように、ダリルが助けを求めている。自分はこの人に、アルファとして必要とされている。
ルカスの口元に笑みが広がっていく。

「ええ。……ええ、今、『助けて』あげます」

憎しみではなく、善意という正しさを得た衝動が、ルカスの喉元を突き上げる。
ルカスを止めるものはもうなかった。自分がしたくてたまらないことが、この人のためになる。
ルカスはダリルの顎をとると、首筋に口づける。骨や筋を傷つけないように慎重に牙を肌に沈めると、ダリルの身体が小さく強張った。
逃がさないように、ルカスはダリルの身体を強く抱きしめる。ダリルの背中が反る。ルカスはそれを追いかけ、所有の証を深々と刻み込んでいく。

「ぁ……あ……」

オーガズムを感じているとしか思えない甘い声をあげ、ダリルは痙攣する。どろりと濃いオメガの香りが、鉄さびの匂いに混じってルカスの口中へ流れ込む。
ルカスはうっとりと目を細め、ダリルの血を啜った。

「あ、ぁ……っ」

細い悲鳴が不自然に途切れる。ダリルの身体から力が抜けていく。
オメガの香りが落ち着いて、満ち足りたものに変わる。そこには先ほどまでの絶望や不安はなかった。
ルカスは牙を引き抜いた。首に開いた穴から処女のように血が流れている。
ルカスは震える指先でそれを拭った。ダリルが自分のオメガになった証だった。もう誰も自分と彼との間に入ることはできない。

(私の、もの)

ルカスは目を閉じて、暴力的なアルファの衝動を殺した。床に落ちた金環をゆっくりと拾う。腕に抱いたダリルの首に、傷を隠すようにそれを嵌めなおす。
ダリルは正体のない顔をして、されるがままになっている。

「……今は、これだけにしましょう」

父親のようにやさしく微笑んでみせるのは、ひどく苦しかった。
ほんとうはダリルを押し倒して、思うままにしてしまいたかった。アルファの本能が、目の前の雌を逃がすなとルカスに命令している。服を引き剥け。犯せ。それはお前のオメガだ。
だがルカスは今、アルファの本能などよりずっと大きな、神の声にも似た使命を得た。
アルファとしてダリルを外敵から守ること。ずっとルカスが心のどこかで望んでいた役割を、ルカスは手に入れた。
性欲よりも深いところで、ルカスは陶酔するような幸福を感じている。

(獣になりたくない)

オメガになりたくないと言ったダリルの声は悲痛だった。必要以上にダリルを傷つけたくなかった。
身体の奥底まで自分のものにするのは、今でなくてもいい。
時間ならいくらでもある。

「ルカ、ス……?」

不思議そうな表情をしてダリルはルカスを見上げる。その顔からはいつもの知性が抜け落ちて、ひどく幼く見えた。
ルカスはこみあげるものを飲み下した。

「いけません、ダリル様。そんなあどけない目で見ては……堪えがたくなってしまうでしょう」

ダリルをそっと椅子に座らせ、ルカスは手の先に口づける。マリオネットのようにルカスにすべてをゆだねているダリルが、いとおしくてたまらなかった。

「着替えを持ってこさせます」

部屋を去ろうとするルカスの服を、ダリルの手が掴んだ。

「行くな」

ルカスは息を飲んだ。

「咬むだけ、咬んでおいて……行く、な」
「……あなた様を傷つけたくありませんので」

ルカスは迷いながら答えた。

「今のあなた様はまだ、私を引き留める意味をわかっておられない。オメガがアルファとふたりきりになるということの意味を」

気を抜けば今にも襲ってしまいそうなのが、この人にはわからないのだろうか。

「あなた様が私を……ご自身の変化を受け入れられるまで、私はいつまでも待つつもりでございます」

ダリルは顔をゆがめている。

「心の底まで、オメガになってほしいんだな」

ルカスは困惑した。何を言われているのだろう。

「オメガの俺、なんて、俺じゃ、ない。お前は身体さえ、手に入れば、いいんだろ」

突然責められて、ルカスは混乱する。こんな感情的なことを言う人だっただろうか。

「心外でございます。あなた様への愛は精神的なもの……性別など……」

ダリルの声がヒステリックに高く上擦っていく。

「うそだ……! 俺は復讐者だ。それができなくなった俺など、俺ではない……!」

なんだ、そういうことか。ルカスは微笑んだ。

「微力ながら、私がお助けいたします。あなた様は何も案ずることはありません」

無力になることを恐れているダリルがいとおしくて、たまらない気持ちになる。

「俺が復讐しなくてはならないんだ……!」

立っていられなくなったのか、ずるずるとダリルは床に崩れ落ちた。ルカスは手を差し伸べた。

「ええ、ともに戦いましょう。ですから、今はお休みになってください。お体に負担がかかっておられるようです」

今、この人はこんなにもか弱い。

「寝室にお連れしましょう」

ダリルの身体を抱き上げ、ルカスは立ち上がった。

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