苦手なやつを酔わせてみたら俺のこと好きすぎた(全年齢版)

ちょっとした出来心だった。
堅物残念イケメン×騒々しくてちょろい丸顔。大学生同士のラブコメです。
堅物残念イケメン×騒々しくてちょろい丸顔。大学生同士のラブコメです。
「ええ、あの人も来るの」
大学のトイレに俺の声が反響する。
「声でかいよ……」
友人があたりを見回すので、俺も声を落とした。
「だって由良(ゆら)さん、いつもゼミの飲み会来ないのに、なんで今日だけ」
「今までの断り文句がウソじゃなかっただけじゃね? 多田(ただ)も別にそこまで嫌わなくても」
「嫌いってか苦手なんだよなぁ、何考えてっかわかんなくて。なんか睨まれてる気がするし」
蛇口をきゅっと閉め、俺はぼやいた。
「お前が騒々しすぎるんだろ」
「るっせ」
西門近くの集合場所にのろのろと行くと、由良さんはすでに来ていた。
「うっす……」
気まずく会釈すると、黙ったまま無表情で頷く。
(こっわ)
これがこの男の挨拶らしい。いかにも冗談の通じなさそうな鋭利な顔つきだ。俺が同じ表情をしても三秒で崩壊しそうである。
同じ三年生なのに、由良さんにだけは敬称の「さん」を付けないといけない気がする。少し年上にも見えるが浪人をしたのだろうか。いや、雰囲気の影響か。
「ごめんごめん、では行きましょう」
教授が遅れてやってきて、俺たちを引き連れ駅前へ移動する。いつもは賑やかな移動になるが、教授と由良さんという、気づまりな人物ふたりに前後を挟まれているおかげでさっぱり話が弾まない。無理やりおどけてしらけるのも嫌なので、俺もポケットに手を突っ込んであさってを見ながら歩いた。夕焼けがきれい。
大きな居酒屋に着いて、まずはお決まりの乾杯。由良さんはちょんとジョッキに口をつけてすぐテーブルに置いた。
「おや、お酒、苦手?」
先生が訊いた。
「いえ、でもすぐ顔が赤くなるので……」
「誰も気にしませんよ。割り勘でしょ、呑んだ方がいいっすよー」
アルコールで滑りのよくなった俺の口から、つい余計な一言が出る。
由良さんは俯いてしばらくジョッキを見つめていた。それからぐっと煽った。長い首についた立派な喉仏が上下に動いている。
「おー」
こんと音を立て、空のジョッキが机に下りた。由良さんは小さなため息をついた。ふだん微動だにしない頬には、たしかに赤みが差していた。多少人間らしい顔になって俺はほっとする。
「ちゃんと呑めんじゃん」
俺はぼそっと言った。なぜ呑む気になったのかは知らない。負けず嫌いなんだろうか。
「もっと呑む?」
そう言って瓶を差し出したのは出来心だった。
そして一時間後。
(なにこれ)
由良さんは勝手に席を移動して隣に座っている。否、俺に抱きついている。
「多田くん……やっと敬語、やめてくれた……」
酔っ払いは俺の肩に顔を埋め、ぐずぐずと泣き出した。
「やめてくれたよぉ……」
いや、ほんとになにこれ。
先生も友人たちも、俺と由良さんを困惑した表情で見つめている。おかしいのは俺ではないです。由良さんです。
「多田……お前、酔わせた責任、とってやれ……」
「送ってあげなさい……」
友人たちだけなら全力で言い逃れを試みただろうが、先生に言われてしまうとつらい。
「由良さん、家、どこ」
「さん……? ぼくにだけ、さん……?」
「……由良?」
「ん」
仕方なく呼ぶと、由良さんはくすくすと笑った。女の子だったら脈ありも脈あり、このまま食べてくださいと言っているような態度だが、残念ながら俺に抱きついているのは強面の男である。通った鼻筋、きりりとした目はよく見れば美形のたぐいだがこの酔い方では台無しだ。女子たちも顔を見合わせている。本当にもったいない。
「だから、家は?」
「聞いてどうする?」
男はすりすりと俺の首を撫でだした。ひえ。
「どうするって、連れて帰るに決まってるでしょうが!」
「えへへ、やった」
「やったじゃねえ、早く言え!」
「えーっとねぇ、吉祥寺」
「え!? 俺もだよ、クソ」
ようやく聞き出した情報により、いよいよ俺に逃げ場はなくなった。
ふあんと音を立て、俺と由良さんを乗せた電車はすっ飛んでいく。由良さんは俺の肩にもたれ、俺の手を握っては揺すり、ときおり笑い声を漏らしている。
(これが彼女なら最高なのになあ、もう)
俺はふたたび肩を落とした。ごく平均的なパーツを持つ丸顔と、「なんか不誠実そう」という極めて遺憾な偏見を背負って生まれてきた俺はいまだ童貞である。
己の境遇を悲しみながら男を見る。洗髪料とビールの匂い。身体の重み。酔っ払いの少し湿ったぬくもり。頬に伏せた妙に長い睫毛。見ているとしだいに息苦しくなってくるのはなぜだろう。
(あれ)
ほんのりと何かに目覚めかけたところで、乗客の白い視線で我にかえった。
(助けて。な、なんか間違いそう)
由良さんの頭を押し返しながら、俺はひとり焦っていた。
電車が無事に駅に着くと、俺はほっとした。あと少しでこいつと離れられる。改札まで由良さんを引きずっていく。
「家、どっち」
ふらふら、にやにやしながら由良さんは東口を指さした。酔っ払いのあやふやな指に従って、夜の住宅街に入っていく。
「こっち? ほんとだな? 適当に言ってねえな?」
「んー? ふふ」
「ふふ、じゃねえ」
指し示された方角は妙に俺の部屋に近い。こんなに近所に住んでいたのか。知らなかった。
由良さんは小さなアパートの前で止まった。黒い鉄のドアが目の前にある。一階の部屋だ。
「ほら、ちゃんと立て。ここ?」
「たぶん?」
由良さんはこてんと小首を傾げた。
「たぶんじゃ困るだろ! 鍵出せ、鍵。合うか試してやる」
由良さんはおとなしくリュックを漁った。出てきた鍵をひったくって鍵穴に挿す。かちゃんと音を立てて鍵は回った。
「なんだ、合ってんじゃねえか。おどかすな。これで俺の任務は終わりだな、もう呑むなお前は」
そう言った瞬間、シーリングライトで照らされていた手元が暗くなった。うしろから大きな影が落ちていた。
「え」
由良さんの手が鍵ごと俺の手を包んでいる。もう片方の手はドアについている。これではまるで俺の逃げ場をなくしているみたいだ。うろたえていると、熱い息が耳元にかかった。
「ねえ。夢なら、いいよね」
ぞくりとするような低い声で、由良さんは言った。何が起きている。どくどくと心臓の音がうるさいのは、この状況に恐怖を抱いているからだ。きっとそうだ。
「多田くん、好き……」
俺の手にドアノブを握らせ、回す。よろめくように部屋に入っていた。
「おい」
尻もちをついた俺に、由良さんは覆いかぶさる。薄い唇が寄ってきた。
大変だ。俺は細い顎を押しのけ、顔をそむけた。が、由良さんはかなり力が強い。手を掴まれ、床に押さえつけられてしまった。
「おい……!」
絶体絶命。焦って叫んだ次の瞬間、とろんと由良さんのまぶたが下がった。にへ、と締まりのない笑顔を浮かべると、由良さんは俺の胸に突っ伏した。
「くかー……」
由良さんの寝息が聞こえてくる。
「……え?」
うそ。この状況で、寝たの。
由良さんは気持ちよさそうに眠っている。どかそうにもびくともしない。
焦りが引いてくると、身体の密着具合がいっそう気になってくる。ふだんの欲求不満がよっぽど祟ったか、他人の体温と重みを感じているうちに、だんだんと下腹部の方へ熱がたまっていく。
(ありえねえ……)
俺は呻いた。この異様な状況で、俺だけが性的に興奮している。それも、男に。
「んん……」
由良さんは呻くと手足を俺の身体に絡め、ふたたび深い眠りに落ちた。あの、この抱き枕、生きてるんですけど。
動くと余計身体の反応が悪化しそうで、無理やり抜け出そうにも抜け出せない。床の硬さと男の匂いに眠れないまま、時間だけが過ぎていく。ワンルームの部屋でベッドがすぐ近くにあるのが恨めしい。
開けっ放しのカーテンは朝の気配を隠さない。窓の外が明るくなってくると、由良さんはようやく身じろぎを始めた。
「ゆ、由良、さん……?」
決心して声をかけると由良さんは飛び起きた。
「え……多田、くん、なんで……」
身体が離れて、俺はほっとした。
「何も覚えて、ない……?」
由良さんの顔がさあっと蒼白になっていく。深い眉間のしわ。目は泳いでいる。
失敗を冗談で流すことができない人の目だ。いつもの由良さんに戻ったのだとわかった。
「……ぼくは、何を……ああ、ぼくは」
ひどく深刻そうに頭を抱えてしまった。
「ええっと、そんな悩むほどのこと、は……」
昨日の醜態を思い出して、それ以上言えなくなる。知られざる恥ずかしい一面を晒してしまった人に、悩むほどのことがないとはちょっと言えない。
「とにかく、どんまい、な」
押し倒されてなんで俺が気を使っているんだろう。
「ぼく、何かしたんだろう」
「はは、は……」
俺のことを好きだと言い、キスしようとしていました。
そう言ってもいいのだが、由良さんがさらにシリアスのどん底に落ちていきそうで、つい俺は迷った。
由良さんは正座して、拳を膝の上で握った。
「……責任、とらせてくれ」
「は?」
「金でも、なんでも……」
由良さんの声がどんどん小さくなっていく。さすがに俺もかちんと来た。
「金!? 何、金で解決したいの!? なんかすげえ侮辱だぞ、それ」
「だが、ほかにどう責任をとれば」
由良さんは竦んで、迷いながら言った。
「ぼくなんかと付き合うつもりは、ないだろう」
思いもよらぬ提案に、俺は固まって口をぱくぱくさせた。
「つ……つき、あう」
何言ってんだ、ないに決まってるだろ。そう言いたいのに言葉が喉の奥に詰まって出てこない。
ドアの前で追い詰められたとき、床に押し倒されたとき――こいつとしたいと思わなかった、と言えばうそになる。
「……多田くん?」
呼びかけられて、俺ははっと我に返った。由良さんが怪訝な顔をして俺をじっと見つめている。
みるみる丸顔が発熱していく。由良さんから見たらきっと日の丸みたいになっているだろう。
(ひょっとして今の俺、脈ありにしか見えないんじゃ……)
「わああああ!!」
あまりの恥ずかしさに、俺は床を転げまわった。
「多田くん」
「わああああ!!!」
「それは否定なのか肯定なのか」
「わかんねえ」
由良さんは困惑した顔をしている。
「自分のことなのにわからないのか」
「お前だって自分のことがわかってたら、あんなんなってなかっただろ」
俺はつい言い返した。由良さんの沈痛度が上がった。
「いつもは酒量を控えていたから、限界がわからなかった。人前で理性をなくすのが怖くて」
「で、それが現実になっちゃった、と……」
履いたままだったスニーカーとともに、余計な一言を玄関に向けて放った。振り返ると由良さんの暗さがますます増していた。
「あー、わかったわかった、そんな顔すんな。呑ませた俺のせいだ。な?」
これ以上暗くなれば由良さんがブラックホールと化してしまう。俺はあいまいになだめた。同時に何気なく胡坐をかいた。尻が床についたその瞬間、
「っ……!」
ぐきっと腰に痛みが走った。たぶん一晩床で寝たせいだ。
「あたた、ケツいてー」
ぎっくり腰のおばあちゃんみたいに腰をさすっていると、由良さんは唇を噛んだ。
「腰が痛む……そうか……服を着直しただけで、やはりぼくは君を襲って」
「え、何か言ってる? よく聞こえねえ」
ぶつぶつと何か言っていた由良さんは暗く頭を下げた。
「本当にすまない……覚えてないことも含めて」
「だーかーら、ある程度は俺のせいだから気にすんなって」
あまり謝られても困るだけだ。
「怒ってないのか」
「しつこいなあ」
「そうか……」
顔を上げた由良さんの口元に、なぜか小さな笑みが浮かんだ。それから妙な猫なで声を出した。
「何か食べるか。朝食らしいものはないが」
その声音は俺をドアに追いつめたときとそっくりだった。背筋がぞくりとした。
「な、なんでもいいです」
眉間のしわがふたたび深くなった。あ、敬語、使っちゃった。
由良さんは立ち上がり、冷蔵庫を開けた。中は銀色一色だ。ゼリー飲料のパウチがほぼ隙間なく、レンガのように積まれている。
「うわすっげえ量」
「炊事は苦手で」
「だからってもうちょっとこう……まあ、いらん世話だな」
なんとなく由良さんには逆らいづらい。おとなしくパウチを受け取り、じゅっと吸う。人工的なフルーツ味がぷるんと喉を通って、はい、食事終了。
「これじゃ会話にならねえだろ」
「君は食事のときに歓談が必要なのか」
「特にこういうときはな」
「……それなら」
由良さんはまた俺の前に腰を下ろした。
「さっきの続きを話そうか。怒っていないということは、君はぼくを憎からず思っている、と考えていいだろうか」
まっすぐに見据えられ、顔がまた熱くなる。やっぱり脈ありにしか見えていなかったか。
「だ、だから、わかんねえってば。……今のところ、酔うと変になるやつってことしかお前のこと知らねえからな? や、謝んなくていいけどさぁ」
由良さんの顔がまた悲痛になりかけたので、俺はあわてて言った。
「群馬県立××高校出身。君と同じ学部で、同じゼミ生。……ぐらいしか……」
「どう考えたってもっとあるだろ」
今度は困り果てたような顔をしている。自分のことを喋るのが本当に苦手なようだ。仕方ない、こちらから聞いてやるか。
「えっと、ゲイなの?」
「……まあ」
「そうか、わかった。男なら俺じゃなくてもいいとかだ」
俺が膝を打つと、由良さんは無表情になる。
「ぼくはそんな不誠実な男じゃないよ」
「へえ、じゃあ俺のこと、どこで好きになった? このきりっとしたハンサムフェイス?」
冗談のつもりだったが由良さんは真剣な目で答えた。
「顔には限らないが……そうだな、一目惚れだ」
「うそだぁ」
よせばいいのに、思わず俺はころんと胡坐の尻を転がした。腰がとても痛い。何やってんだ俺。
「どこでどう一目惚れしたってんだ」
腰をさすりながら聞いた。
「ぎゅ、牛丼屋で」
「牛丼屋」
「すごく、うまそうに食ってて」
「それで?」
「……それだけ」
俺は噴き出した。由良さんは呑んだように真っ赤になっている。
「お前、うそ下手だなぁ」
「ぼくは真剣だよ」
「はいはい、そうですねー」
(どうせ、酔った勢いでつい適当な男を口説いちゃったんだろ)
そうはっきり言えない程度には、たしかにこの男は真面目なのだろう。しかし、牛丼屋。
(もうちょっと気の利いたうそをつけっての)
丸顔の貧乏学生がスウェットでドンブリ飯をかきこんでいる姿の、いったいどこに惚れる要素があるというんだ。それに、そんなエピソードを聞かされた相手が心を動かされると思うか。
「だいたいお前のことはわかったわ。しらふで変な奴だ」
「それはぼくが嫌いという意味か」
「そうでもねえけどな」
くすくす笑いながら、俺は答えた。
「なら」
由良さんの手が伸びてくる。酔いが抜けた、ひんやりとした手が俺の手の甲に重なった。不意を突かれ、俺は息を飲む。
「こうなった以上、ちゃんとした関係になった方がいい。そう思わないか」
冗談の通じない人特有のすごみで距離を縮めてくる。ふたつの黒は微動だにしない。瞬きさえしない。俺はごくりと唾を飲んだ。
(やっぱこの人、怖い)
俺を丸裸にするような思いつめた瞳。この目に見据えられて、うそをつける人っているんだろうか。
じりじりと近づいてくる。逃げ場がない。
「う……うん……」
思わず答えると、圧力がふっと緩んだ。かわりに由良さんはぎゅっと俺の手を握った。
「大事にする」
俺は呆然としていた。
(どうも、俺と由良さんは付き合ったらしい、な……)
由良さんは静かに微笑んでいる。どう見ても撤回不可な雰囲気だ。
(ええええええええええ)
酔っぱらって失敗した次の朝で、まだ本調子ではなかったのだろう。あとから思えばこの日の由良さんがいちばん甘口だった。もとに戻った由良さんは、うちのおばあちゃんが愛するげんこつ煎餅ぐらいしょっぱかった。
まず、由良さんは俺という恋人の存在をひた隠しにした。
「君の世間体が悪くなる。大学では前と同じようにしていてくれ。いっしょに住むのもよした方がいい」
「はあ」
俺は童貞である。これまで他人の自慢やのろけに、内心悔し泣きしながら耐え忍んできた。付き合った相手が同性、それも由良さんなのはだいぶ想定外だったものの、恋人という存在を自慢したい気持ちは強い。俺だってマウントを取りたい。
だが由良さんは同じ気持ちではないらしい。俺という存在は恥か。そうか。
それに愛情表現が、ない。
これがいちばん堪えた。そうはいっても恋人ができたのだ、俺だって甘い言葉のひとつももらってみたい。だが由良さんは日に三度ほど、他人行儀で堅苦しいメッセージを送ってくるだけだ。
『次の週末、食事は何を用意すればいい』
『ゼリー以外ならなんでも』
『わかった』
以上である。もうちょっと会話を続ける努力をしてほしい。いや、無口なのは仕方ないかもしれないが、せめて「りょ」とか「り」とか砕けた文体にならないだろうか。
週末のデートだってまったく話が盛り上がらないまま、公園の池のまわりを一周するというものだった。俺も無理におどけようとしたが、途中でやめた。のれんに腕押し、ぬかに釘、由良さんに冗談。
結局手のひとつも握らず、キスのひとつもないまま家に帰って、由良さんが用意したちょっと値段の張りそうな弁当を食べた。それでデートは終了となった。
そう離れていない家まで、夜道をとぼとぼと歩く。
(けじめで付き合ってるだけだからだよな、これ)
がっかりしている自分が悲しい。これでは俺の方がよほど由良さんのことを考えている。
(こうなったらまた酔わすかぁ……)
あのべったり甘えん坊な由良さんが恋しい。もしかしたら俺は酔っている方の人格に恋しているのか。
もういいや、そういうことで。俺は半分やけくそになって月を見上げる。今夜の三日月は由良さんみたいに鋭い。あの月もきっと冗談が通じないだろう。
そして迎えた次のデート。缶チューハイとおつまみがいっぱいに詰まった袋を両手に提げ、由良さんの家を訪れた。
「……ぼくは呑まないよ。また君に何かしたら」
「大丈夫だって。この前だって大したことはしてねえから。ほら、うまいよー」
ビニール袋をゆさゆさ振ると、由良さんは小さくため息をついた。
「君はもう少し自分を大事にしてくれよ」
「由良さん、俺とそういうこと、したくないの」
思わず訊いてしまった。呑んでいないのに、由良さんはうっすら赤くなった。
「それは」
言葉に詰まっている。よし、もう一押し。
「なあ、呑もうぜ」
上目遣いしてやると、由良さんはきゅっと唇を引き結び、小さく頷いた。やはり負けず嫌いなのかもしれない。
そこからのピッチは速かった。ものの三十分で由良さんは俺に手足を絡め始めた。
「多田くんだぁ」
うまく行った。思わずしまりのない笑顔になる。酔った由良さんはやはりかわいい。深刻そうないつもの顔より、こっちの方がずっといい――
「ほっぺ、ぷくぷくだ。おいしそう」
由良さんの尖った鼻が俺の頬にすり寄った。床の上、由良さんの脚が俺のまわりを包囲している。横から肩を抱かれていたはずが、いつの間にかうしろをとられている。
「ほんとはねぇ、こういうこと、したかった。ふふふ、すごーくしたかった」
あれ、これ、まずいのでは。
「好き。好き」
「ひゃあ」
頬にも耳にも首のうしろにも、無差別にキスが降ってくる。
「こういうの、嫌?」
嫌ではないから困るのである。現に身体は反応してしまっている。
「真っ赤。かぁわいい」
振り向いた隙にちゅっと唇を吸われた。俺の初キスは酔っ払いによりあっさり奪われてしまった。
「お口あーんは? そう」
ぽかんとしていると、アルコールをたっぷり含んだ舌が口の中にはいってくる。
(わ、わ)
慌てているうちにどんどん熱が身体に回ってきて、手遅れになって、
その後のことはよく覚えていない。
はっと気づくとふかふかしたものの上にいる。ベッドだ。俺の身体を包んでいるのは由良さんのパジャマのようだった。
「起きたか」
沈痛な顔が俺を見下ろしている。酔っぱらった由良さんはもう店じまいらしかった。あきらかに「すまない」の「す」を言う雰囲気で由良さんの口が尖った。俺はあわてて遮った。
「謝んな」
「だが」
「その! すげえ! よかったから! ……言わせんなそんなこと!」
やけくそになって叫んだ。由良さんは赤くなっている。どうしていいかわからない様子だ。
「君に気を遣わせて……何やってるんだろうな、ぼくは。ダメだ、もう酒は二度と呑まない」
「なんで!?」
思わず声がひっくり返った。そんな。俺のことを好きな由良さんとはもう二度と会えないというのか。
「決まってるだろう……呑むと人間が変わるんだぞ、ぼくは」
暗い男は顔を片手で覆っている。
それを見ているうちに急激に腹が立ってきた。
「やっぱ、呑んでねえお前は俺のこと好きでもなんでもないんだな」
吐き捨てると、由良さんは顔を上げた。
「なんでそうなる」
「だってそうだろ! しらふだと冷てえわ俺と付き合ったこと後悔ばっかしてるわ! いっしょにいても楽しそうでもなんでもねえ!」
「待ってくれ」
「正直に言えよ! 酒が入ってねえときは俺のことどうでもいいんだろ!?」
「そんなことはない!!」
ワンルーム全体、いや、建物までもがびりびりと震えた気がした。
しらふの由良さんが初めて大声を出した。あまりのすごみに俺は思わず肩をすくめた。怒られるのは大の苦手だ。
由良さんはやがて途方に暮れたように俯いた。
「酒が入ってなくても、君が好きに決まっている。……どうしていいかわからなくなるだけだ」
「どうしてって……ふつうに楽しそうにしてればいいだけだろ」
また怒鳴られたら嫌だと、やや怯えながら俺は言った。
「だってあまりに順序が違う……もっと大事にするつもりだったんだ。こんな……酒の勢いと性欲に任せて。最初のときなんて覚えてすらいない」
「そんなの忘れた方がいいんじゃね? 恥なんだろ、お前にとっては」
由良さんは唇を震わせた。
「……忘れないといけないのか。なかったことにしたいのか、君は」
「いや、まあ、俺は別に……」
たしかに猛烈に恥ずかしいことになっていた気はする。だが由良さんの記憶を根こそぎ消去したいと願うには、俺はもう由良さんに惚れすぎている。
「聞くけど、由良さんはなかったことにはしたくない?」
由良さんは真顔で頷いた。俺は迷い始めた。
「これも確認だけど、あのうそくせえ一目惚れの話……ほんとだったとか言わない……よな?」
「うそをつけるほど器用な人間じゃない」
俺はもぞもぞと胡坐に座りなおした。
「じゃ、じゃあなんでもっと早く話しかけてこなかった?」
由良さんはしばらく黙った。
「君みたいになれないんだ。自然に話しかける方法がわからなかった……君はいつも誰かとつるんでいたし、遠くから眺めるぐらいしか」
あれは俺を睨んでいたのではなく、眺めていたらしい。気づかなかった。
由良さんは短くため息をついた。
「こんなことになった今だってうまく話せてはいないな。すまない」
ようやく鈍い俺にもひらめきが下りてきた。
「あー、ひょっとして由良さん、重度のコミュ障……いや、なんでもねえ」
由良さんが傷ついた顔をしたので、俺はいそいで言った。
「まあそれならそれでいいけどさ、酒入ってねえときももうちょい愛情表現頑張ってくんねえ? 俺バカだし、伝わんないから」
「努力する」
「じゃあ言って。『愛してる』リピートアフターミー」
由良さんはこれ以上なく深刻な顔で繰り返した。
「愛してる」
「うーんちょっと硬いなぁ。これは今夜も呑まさないとダメそうだなぁ」
少し面白くなってきて、俺は笑った。
「そんな」
「人格は一個の方がお前も都合がいいだろ。酔ってるときと酔ってねえときの真ん中ぐらい狙って。ほら、もっぺん言ってみ」
由良さんは深刻な表情のまま、突然俺の顔に顔を寄せた。ぎし、とベッドが悲鳴をあげる。温かい息が口元にかかる。冗談の通じない瞳が一ミクロンも揺らがず、俺の目をとらえた。
「愛してる」
俺はひゅっと息を飲んだ。どっどっどっと心臓が猛稼働する。頬が熱い。俺の丸顔に水を垂らしたら一瞬で蒸発していたことだろう。
――本気の由良さんはやはり大変、怖かった。
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