きみの記憶に囚われて④




三 有限の楽園



表面的には静かな、代わり映えのしない日常に戻ったころ、大樹へあてた封筒が届いた。
裏を見ると、送り主は安野望とある。封筒の重みとじゃらりとした音が中身を物語っていた。
大樹はごくりと唾を飲み、おそるおそる封を切った。中にはたしかに見間違えようもなく、鍵が入っている。

『失くしたら弁償だから気を付けて保管すること』

書付を読みながら、大樹は夢を見ているような気持ちになった。

(うそ、安野先輩、本気だった)

てっきり口約束かと思っていた。先輩後輩とはいえ、そこまで長くいっしょにいた相手でもないのに。
大樹はひとしきり枕を抱いて身体を転がすと、跳ね起きて感謝と応援のメッセージを三十行にわたって入力した。好きな人から鍵が送られてきた状況で、話がまとまるわけがなかった。

『明日から出発する 近所迷惑にならない範囲で自由に使っていい』

安野からはそう返事があった。
週末になると、封筒の住所を頼りに、大樹は胸を高鳴らせて東京郊外へ向かった。ピアノ以上に、憧れの先輩の家にあがれることがうれしくて仕方なかった。
アパートの鍵をそろそろと開け、中を覗き込む。知らない人が見たら泥棒だと思うかもしれない。

「お邪魔しまーす……うわ」

狭くはない部屋だが、グランドピアノが強烈な圧迫感を放っている。留学に持って行ってしまったのか、それとも最初からなのか、ほかにはほとんど物がない。事務室にありそうな素っ気ないブラインドがぴったりと閉まって、ピアノを陽射しから守っている。
ひとりで音と向き合うための部屋だ、と大樹は思った。安野が二年半の間、寡黙に技術を研ぎ澄ましてきた姿が、ピアノの椅子にぼんやり浮かんだ気がした。
大樹は後ろ手で鍵を閉め、ピアノに近寄った。

(これが先輩のふだん使ってるピアノ)

年季の入って黄ばんだ鍵盤をためしに打つと、正確に調律された澄んだ音が鳴った。大樹は小さく「おお」とつぶやいて椅子に腰かけた。中古でもよく手入れされている。

(これであなたも俺も先輩になれちゃう?なれねえか)

にやにやしながら椅子の高さを低くし、浮かれた気分で鍵盤に指を走らせる。家からも先生の厳しい指導からもカメラのレンズからも解放されて、驚くほど自由だ。

(幸せってこういうやつだな、うん)

ぐらん、ぐらんと身体を揺らしながら、大樹はうっとりと考える。先輩本人はいないけれど、椅子にもピアノにも、先輩の音色と体温が染みついている気がした。

「やば、こんな時間!?」

これまた飾り気のない壁時計を大樹は二度見した。ついたのは午前中だったのに、もうすっかり夕方だ。昼食をとっていないのに空腹も感じていなかった。
大樹はいそいで瑞乃に連絡を入れた。

『先輩の家に泊まることになったんで夕飯はいりません』

(自由に使っていいって言ってたし、いい、よな、ダメかな)

安野からは泊まっていいとまでは言われていない。だがピアノが抗いがたい魅力を放って、大樹を引き留めている。自宅に帰るよりよっぽどここで暮らしたい。

(あの、ゴミは持ち帰るんで許して)

大樹は近くのコンビニを検索すると、夕飯を確保しに部屋を飛び出した。
夜になるとはしごでロフトへ上がった。床にマットレスを引いてあるだけの簡単なベッドが置いてある。すいません、使わせてもらいます。大樹はどきどきしながら横になった。先輩のピアノを上から眺めるとさらに鼓動が大きくなった。
今度ブランケットでも持ってこようかな、さすがにそれは住む気満々でまずいか。

夏休みになると大樹は安野の家に入り浸るようになった。安野と連絡がとれたときに『別に泊まってもかまわない』とのお墨付きがもらえたので、堂々とブランケットも持ち込んだ。
もうすぐコンクールがあるからと説明すると、瑞乃は応援してくれた。父親にはピアノ目当てだということは隠してあるから、ただ友だちの家を遊び歩いていると思われているようだった。
何もない部屋で、先輩のふだん使うピアノとふたりきりでいる。コンクールで勝ち抜くことも、動画で収益を得ることも、安野と同じ大学へ進む夢すら色あせて、ひたすら音の中を泳いだ。ここにカメラを持ち込むなんてとんでもないと思った。先輩のピアノを世界に見せたくなかった。
楽しんで弾くという感覚がようやくわかった気がした。
夏のコンクールでは本選へ勝ち残り、まずまずの成績を残した。音楽高校行ってないわりに結構いけるじゃん、俺。大樹は少し自慢になった。

(これも先輩のおかげってね)

大樹はピアノを愛おしく撫でる。

(今年は演奏聞いてもらえなかったけどなー。なんせ海外だもんなー)

大樹が結果を報告してお礼のメッセージを送っても、安野は『結果より音に集中しろ』とそっけない返事をしてきただけだった。安野らしい。
大樹自身にとっても、結果はそれほど重要ではなかった。先輩ではない誰かが自分の演奏を評価し、中の上ほどの成績をつけた、それだけ。この部屋に帰れることの方がずっと幸せだった。
夏はもうすぐ終わりだった。
八月中旬に安野が帰国を知らせてきた。

『じゃあ空港まで鍵返しに行きますよ俺』
『その必要はない 部屋で待ってろ 君の練習を見てやる』

画面に現れた返事を見て、大樹は奇声をあげた。

『いいんですかやった!お疲れじゃないです?大丈夫です?』
『聞いてるだけで疲れるほど今は下手じゃないだろう』

これ、褒められてるよな。成長してるって言われてるよな。大樹は頬を赤くした。
帰国の日がやってくる。大樹はそわそわと部屋で待った。外で小さな物音がするたびに椅子から立ち上がっては、違ったー、と座り直している。
ようやく鍵が回る音がした。大樹は椅子から転がり落ちそうになりながら玄関へ走った。

「おかえりなさい! どうでした海外、疲れたでしょ、えっと飯いります?」
「食べてきたからいい。それより練習を聞かせたいんだろう」
「あ、さっそく?いいんですか?」

スーツケースを置き、安野が入ってくる。本人とふたりきりなんて、さらに完璧な楽園になっちゃったな、うんうん。大樹は椅子に座り直した。

「じゃあ、この前のコンクールで弾いたやつとか」
「君が一番好きな曲を弾きなさい。何を選ぶか興味がある」

好きな曲。じゃあ、あれ以外ねえな。
大樹が姿勢を整えると、安野はピアノの横に立った。好きという感情を教えてくれた人が、すぐ隣にいる。
『回想』を弾き始める。大樹が今感じているままの、ひたすら甘く幸福な音を紡ぎ出していく。

「どうでした?」

弾き終わると、大樹は安野の顔をそうっと覗き込んだ。安野は長いため息をついた。それまで息を殺していたかのようだった。

「砂糖を五杯入れた紅茶みたいだ。口の中が痛くなるほど甘い」
「あっはは、褒められてねえ!」

大樹は額に手を当てておどけた。どんなに辛口でも先輩の評はうれしかった。

「いや。ぼくは好きだ」

大樹は真っ赤になった。今この人、好きって言った。

「こんな幸せが過去にしかないとしたら、残酷だと思った」
「困ったなー、褒められちゃった」

大樹が頭を掻いて照れていると、安野はきれいな目を伏せた。

「ぼくが君にしたことの意味を突きつけられているみたいだ」
「先輩?」
「ぼくはぼくのために君を不幸にした。君が今弾いたような、こんな混じりけのない幸せの中に、君を置いておくべきだった」

大樹は困惑した。昔の俺は別に幸せじゃなかった。

「えっと、種明かしすると俺は昔のことなんか考えてなくて……今すっげ幸せってことだけ考えて弾いてました。浅くてすいません」

大樹はぺこりと頭を下げた。

「ぼくといると、君はあんな気持ちになるのか」
「や、えっと」

まっすぐに見据えられて、大樹はまた赤くなった。
どうしよう、好きだってバレたかも。『回想』だって先輩が弾いてた曲だし、うわ、俺わかりやすすぎた。
パニックになった大樹の肩に、安野はふいに手を添えた。大樹を椅子から立たせると、吐息のかかる距離で、食い入るように大樹の目を覗きこんでくる。
急に大樹は少し怖いと思った。どうしちゃったんだ、先輩。

「それは忘れたからなのか。それとも本当は覚えているのか。あの夜のことも」
「はい?」

大樹はぽかんとした。何を言い始めたんだろう、先輩は。
あの夜?先輩と夜にいっしょだったことって、あったっけ。

「覚えているなら答えてくれ。あの日、君はぼくをどう思っていた?ただの憐みじゃなかったのか?」

肩にかかった大きな手に力が籠った。

「すいません、えっと、なんのこと」

安野は我に返ったようだった。ゆっくりと手が離れる。

「すまない、忘れてくれ」

安野はそれきり黙ってしまった。

「あれです、ほら、やっぱお疲れだったんですよ! 俺、帰りますね。鍵は靴箱の上に置いておきます。お邪魔しました!」

いたたまれなくなって、大樹はリュックを掴んで部屋を飛び出した。
砂糖を五杯入れたような大樹の幸福は、こうして過去になってしまった。


夏が終わった。よく灼けた生徒たちに混ざって、大樹も教室に向かう。扉を引く自分の手が妙に白く見える。先輩の部屋にひと夏閉じこもりっぱなしだったもんな、俺。
授業が始まる。先生が黒板に書きつける音を聞きながら、大樹は教科書を必死にめくっている。

(どこ、え、わからん)

宿題は夏休みの終わりに慌ててやっつけたものの、勉強らしい勉強はしていない。成績が落ちたら父さんに何か言われる、ピアノを取り上げられる、音楽教室辞めて塾行けって言われる、どうしよう。
大樹を待っていた現実はそれだけではなかった。
動画投稿をしないうちに登録者が目に見えて減っていた。新しく投稿しても再生数が振るわない。安野が出てくれた回だけが突出して収益をあげているが、大樹単体はさっぱりだ。
なんでだよ、上手くなってるはずだぞ、あの安野先輩だって好きって言ってくれたぞ。大樹はパソコンの画面を睨んで口をへの字にした。

(先輩のあれ、なんだったんだろうな)

ラップトップを閉じて冷たい世間から目を背けると、すぐに大樹は安野のことを考え始める。本当は覚えている?何を?あの夜ってなんだ?考えてもさっぱりわからないままだった。
スマートフォンに通知が来る。なんだろ、とぼんやり覗くと、当の安野からだった。大樹はとくに意味もなく姿勢をただした。

『ブランケットを忘れているのに気づいたんだが どうする』

あ、しまった。

(もー、先輩が変なこと言うから)

なんのことだったか、猛烈に聞いてみたい。だがあのやりとりを蒸し返す勇気が大樹にはない。あの話になる前に発覚しかけた、先輩への恋心まで蒸し返されそうである。
安野に触れられたい気持ちはもちろんある。だが肉体以上に彼の音が好きだった。気持ちを悟られ、安野の演奏を近くで聞けなくなるぐらいなら、今のままでいるのがいちばんよかった。

『土曜にまた行きます そしたら演奏聞かしてくれますか この前は俺ばっか弾いちゃって』

思いっきり下心をこめて、大樹はそう送った。

『すまないが土日はレッスンが入っている 大学受験があるから』

大樹はがっかりした。

『そしたらブランケットだけ取りに行きますね うわ残念聞きたかったのに』

返事まで少し間があった。

『たぶん夕方少しなら時間を作れる 君がそれでよければ』

大樹は文字通り舞い上がった。
土曜の昼、食事を終えた大樹は念入りにぼさぼさの頭を梳かした。印象がモップからチアリーディングのポンポンになったところで、父親が部屋を覗いてきた。

「出掛けるのか」
「うん。友だちんとこ。遅くなるかも」
「遊びすぎじゃないか。この夏じゅう遊び歩いていただろう、お前。勉強もしないで」

大樹はうっと罪悪感に飲まれた。たしかに最近は勉強がきつくなっている。

「そんな調子ならピアノはもういいな。熱心でもなくなったみたいだし」

大樹は慌てた。それは困る。先輩との唯一の絆が。

「そんなことねえって。父さんがいないとき弾いてる。えっと、勉強もしてるって。今日はほんと約束あるから勘弁して。遅れちゃう」
「ピアノを捨てられたくないなら断りなさい」
「そんな」
「大樹。これは脅しじゃない」

大樹は開きかけた口を閉じた。
先輩との約束が。それでもピアノには代えられない。
大樹はか細く、わかったとつぶやいた。

「それと、土日は塾に行きなさい。暇だから悪い友だちとつるむんだ」
「待って。勉強はなんとかするから、だから」

大樹は青くなった。土日がつぶれたら、いつ先輩の家に行けばいいんだ。いやそれより、俺の貴重な動画撮影時間が。

「塾なしでまともな大学に行けるとでも思っているのか」
「俺一年生だし、まだ先じゃん」

今の収益では音大への進学資金にはほど遠いことを思い出しながら、大樹はなだめた。

「遅かれ早かれ塾には行くんだ。今からなら充分間に合う」

大樹は俯いた。

「ピアノ、続けさせてくれよ。コンクールの結果、悪くなかっただろ。全国だぞ。学校にだってちゃんと横断幕出してもらってるし」

父親は疲れた顔をした。

「一番ではなかっただろ。将来に何の意味があるんだ。ちょっと職場で自慢するぐらいしか使い道がない。そんなことに血道をあげるな」
「ピアノで生きていくのは。死んだ母さんみたいにピアノの先生とか」

父親は唇を結んで声を潜めた。

「あの人の話は今は関係ないはずだ」
「父さん」
「第一あの人は俺の収入をあてにできたが、お前は違う。現実を見てくれ」
「死んだ母さんのこと、そんな風に思ってたの?」

父親は返事をしないまま部屋を出て行った。
大樹はのろのろとスマートフォンに手を伸ばした。先輩に謝らないと。(2/21)

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