きみの記憶に囚われて①
寡黙な先輩×表面上は陽気な後輩。ピアノと前世をめぐる青春ものです。
一 はじまり
大きな手が鍵盤を撫でる。甘さをいっぱいに孕んだ音が肌を震わせた。くすぐるような装飾音に寄り添って左手が沈む。この寡黙な男のどこにこんな繊細な感情が隠されているのだろう。
きれいな眼差しがほんの一呼吸宙を見つめて、ふたたび鍵盤に向かう。
放課後の音楽室で、大樹(たいじゅ)は椅子の上で膝を抱えて聴き入っている。心臓が強く脈打つ。胸の奥がぎゅっと苦しくなる。傷に水がしみるあの感じ。こんなの、先輩の音でしかならねえ。
「また君か。順番を待っているわけでもないのに」
安野はピアノをしまいながらつぶやいた。あんなに感傷的な音を奏でていたとは思えない、抑揚の少ない声だ。
将来は音大を目指しているのだという先輩は、音楽の先生に頼んで放課後にピアノを貸してもらうことがあった。アパートにはグランドピアノを置けないからだ。ふだんは吹奏楽部が部屋を使っているから、先輩がここに来るのは週に一度、数十分程度。
「いやあ、単に居心地がいいだけで。……あと、こんなふうに弾けたら、もっとピアノに興味が持てたのかなって」
大樹にとってはただ義務で続けているだけだった。
「そうか」
安野はほんの少し表情を緩めた。
「今はあまり弾けないのか」
「今は?」
大樹は首をかしげた。
「なんでもない」
「やっぱ練習しかないっすよねー。先輩は飽きませんか」
大樹は上履きを足先で揺らした。安野は無表情のまま、楽譜を手に立ち上がった。
「飽きる方が幸せだよ」
安野はそのまま教室をあとにした。
(先輩も練習が苦しいとかか?)
あんなに弾けるのに苦しいということがあるんだろうか。
(同じ曲、弾いてみようかな。俺には早いか?)
大樹はひょいと椅子から降りた。ピアノを弾くのが楽しみだなんて、俺じゃねえみたい。
本屋に寄って、先輩が弾いていたリストの楽譜を買う。家に戻って古いピアノの蓋を開く。
『目を閉じてると母さんが生きてるみたいだ』
一瞬だけ、いつもの息苦しさが戻ってきた。父さんがいないときぐらい自由にさせてくれ。大樹は親の声を追い払い、譜読みを始めた。耳の奥で先輩の音が鳴っている。
「斎賀(さいが)くん」
ある日、音楽教室の先生がレッスンの終わりに大樹を呼び止めた。
「ジュニアコンクールの申し込み、どうする?」
「あー、ここの教室のですよね。いつものやつ」
大樹の通う音楽教室はチェーン展開していて、独自の小規模なピアノコンクールを開いていた。
「違う、違う。あれは小学生までだったでしょ。音連主催の方。実績になるし、うちの教室から何人か出したいの。地区予選を通過すると全国に行けるんだけど、まあそこまで行かなくても、参加するだけしてみたら」
大樹は気が重くなった。プレッシャーがかかるし、嫌だ。だがふと大樹の脳裏に先輩の横顔がよぎった。
あのひとも同じコンクールに出るんだろうか。
「課題曲ってどんな感じですか」
「一年生はこれ」
自分の課題曲を確認するより先に、上級の課題曲にいそいで視線を滑らせた。あ、あった。十二の練習曲より 第九番 Op.1-9『回想』。先輩が練習していた曲だ。
大樹の肩から重石がぽろっと下に落ちた気がした。
(これ、ひょっとして、ひょっとしちゃう?)
先輩も同じコンクールに出るかもしれない。
「えっと、お父さんに相談してみます」
すっかり浮かれた気分で大樹は答えた。
家に帰るとピアノの前に座る。課題曲を練習するつもりが、気づけば『回想』の楽譜を開いていた。大樹にはまだまだ早いのだが、憧れは強かった。
「ただいま。珍しいな」
きりのいいところで声がして、大樹はびくりとした。父親が帰ってきたことにすら気づかなかった。大樹は玄関を振り返った。
「おっ、おかえり」
「全然気づかないから、ここでずっと聴いてたんだ。やっぱりあのひとの息子だな」
弾いていた曲が急に色褪せそうになって、大樹はいそいで片付けた。誰かの代わりとして褒められるのはいつも寂しい。
ふたりでカップ麺を啜りながら、大樹はコンクールについて話した。
「へえ。だから張り切ってんだ」
「そういうわけでもねえけど」
「お前が本気になってくれるとは思わなかった。あのひとも喜ぶ」
父親はぽつりとつぶやいた。
「おーいー、プレッシャー増やすのやめて」
湿っぽい空気を吹き飛ばすように、大樹はおどけた。いつものことだ。亡くなった妻のことを思い出すと、父親はどこまでも暗くなってしまう。
大樹を産んですぐ、母親は亡くなった。母親はピアノの先生だった。
「あのひとも歩いた道だ。頑張りなさい」
父親は悲しそうに微笑んだ。結婚前、母親がコンクールで入賞したときの賞状がうしろの壁にかかっている。
週が明け、安野先輩の練習日がめぐってくる。先輩の音を耳で追いながら、大樹は楽譜を開いた。ここ難しいんだよな。うんうん、この解釈、やっぱ最高だな。
大樹の気配を察したのか、曲の終わりに先輩は振り返った。大樹は手を振った。
「あ、お気になさらずー」
「君もこの曲を?」
「先輩の演奏に憧れちゃって。まだまだ全然指が回んないんですけど」
「地道な練習が足りないんだろう」
大樹はあはは、と苦笑した。
「仰るとおり」
先輩は短くため息をついた。
「それで済むんだから、やっぱり幸せだ」
「そんなにピアノが嫌いなんですか? そんな風に聞こえないけど」
「好きとか嫌いとかの次元じゃない。依存症に近い」
先輩は暗くつぶやいた。
「正しい音がいつもぼくの頭で鳴ってる。ぼくはそれを再現できない。ぼくはぼくだから。それが歯がゆい」
「先輩の音は正しいでしょ?」
大樹はきょとんとして言った。
「俺、大好きですよ」
「君は」
安野は何か衝動的に口を開き、また閉じた。
「いや。なんでもない。ぼくが口出しをすることじゃない」
「そうだ、俺のへたくそなの、聴きます? そしたらきっと自分がどんだけ正しいかわかりますって」
安野はわずかに笑って椅子を譲った。
「怖いもの見たさだ」
大樹は手を揉んで温め、弾き始めた。
「うん、へただ」
つっかえつっかえ、なんとか最後まで弾きおおせると、安野は珍しく微笑んでいた。
「実力に合ってないから曲になってない。そのわりに表現が大げさすぎる」
「でしょー」
大樹はまるで褒められたかのように得意げな顔をしてみせた。実際、先輩の笑顔を引き出せたのだから、大成功だった。
「とにかく指が弱い。トレーニングは毎日するといい」
「はーい」
先生に指導されるとうんざりするのに、先輩に言われるとどうして素直にやる気になるんだろう。
「そうだ、先輩も音連のコンクール、出るんですか? これ、課題曲ですよね」
「君も? それは審査員が気の毒だ」
「たしかに」
大樹は笑って、くるりと椅子を降りた。
「出来心みたいなもんですからね。俺、別にコンクールに出たかったんじゃなくて、先輩の演奏が聴きたかっただけなんですよ」
「ぼくは予選には出ないよ。去年賞をとったから今年も免除だ」
「うっそ」
大樹は額にぱんと手を当てた。その可能性は考えていなかった。
「じゃあ頑張って本選に上がんねえと聴けない!?」
「……今の君では相当な努力が必要だと思うが」
安野はぼそりと言った。
家に戻ると、大樹は言われたとおりフィンガートレーニングの教科書を開いた。指くぐり五十回、オクターブ連打。筋トレとしか言いようのない機械的な運動を繰り返す。
(あれ、思ったよりつらくねえな)
嫌いだったのに、なんでだろ。大樹は首をひねる。
単調な練習のあと、『回想』の楽譜を開いてようやくわかった。
(そうか、安野先輩に聴いてもらえたからだ)
母の代わりを演じる義務としてではなく、自分自身が望んで弾いた曲を、憧れの先輩は聴いてくれた。へただと笑ってくれた。大樹がどうしたらいいかを教えてくれた。
(あれ)
気づくと膝に雫が落ちていた。
自分の目から落ちたものだとしばらくしてから気づいて、大樹は可笑しくなる。変なの。
大樹がピアノにのめりこむようになったのはこの日からだった。ひとりで弾いていても、安野先輩に聴かせることばかり考える。あのひんやりした瞳がこちらを向いて、わずかに細くなるのがまた見たい。少しでもあのひとに近づきたい。
「少しはうまくなったか」
次の週、先輩は楽譜を広げながら訊いた。
「たぶん! あ、聴きます? でも邪魔しちゃ悪いしなあ」
そう言いながら、大樹はすでにピアノに向かって歩き出している。
「ぼくなら構わない。聴かせたくてうずうずしているのだろう」
「バレてるー!」
「いい衝動だから大事にするといい」
安野は椅子を譲ってそばに立った。
「へへ、聴かせたい相手は先輩だけですけどね」
大樹が弾き終わると先輩は頷いた。
「多少ましになっている」
「でしょ。見ててください、来週はもっとよくなってきますから」
大樹は得意になって言い、立ち上がった。
「君が本番で弾くのはこれじゃないだろう」
「でも俺、今これしかやりたくないんで」
大樹はピアノにもたれ、うっとりと言った。
「つまらないのだろう。だが悪いのは曲じゃない。常に弾き方だ」
安野は空いた椅子に座り直すと、指を鍵盤に置いた。
刻むような、確固とした和音が響く。同じテーマが繊細なやさしさで繰り返される。明るくシンプルな音なのに、奥行きが全然違う。大樹は息をひそめて聴いた。マズルカ ヘ長調 Op.68-3。大樹の課題曲だ。
あまりに短い曲だった。まだ聴いていたいと強く思った。
「昔はたしかに簡単すぎてつまらないと思った。正解の音が頭に響く前だったからだ」
安野は静かに言った。
「すげー……」
「ショパンの遺作だ。その重みを忘れてはいけない」
安野はそれだけ言って自分の練習を始めた。
(そっか。だから聴き終わったとき、こんなに寂しいのか)
虚ろになった胸に、『回想』の甘い旋律が注ぎ込まれていく。
先輩が帰ってしまうと、大樹は走って家へ戻った。忘れてしまう前に、あの寂しさを再現してみたかった。あれなら俺も知っている。父さんが母さんを俺に重ねるとき、俺はあのぐらい空っぽになる。
ツェルニーを大急ぎで終え、課題曲の楽譜を開く。先輩の弾き方を真似してみたが、
「違うなー」
やはり再現できない。技術の方は追いついているはずなのに、芝居がかりすぎたり、バランスが悪かったり。
「うーん?」
(正しい音にならないってこんな感じなんだろうな)
こんな歯がゆい思いを四六時中しているから難しい顔になるのかもしれない。中学三年生にしては大人びた安野の憂い顔を思い出す。
(俺もあんな顔になんのかな。いや無理かー)
父親を励まそうとへらへら笑っているうちに、大樹はそんな顔になってしまった。今さらちょっとピアノで悩んだところで、この下がり眉が憂いを帯びるとも思えない。
何もかも先輩そっくりになれたらいいのに。俺の要素なんて全部いらねえ。苦しい気持ちになってピアノを叩いたら、うまい具合に力が抜けたのか、案外いい音になった。
あ、こういうこと。大樹は少しわかった気がした。
(俺だからダメなんだ)
ぼくがぼくだから正しい音が再現できない。先輩も同じようなことを言っていたっけ。先輩ですらそうなんだ。
涙になる前の、ひどい痛みが胸を締め付けた。
知ってた。俺のままじゃ愛されない。親にも、音楽の神様みたいなものにも。
明るすぎた幼い音が変わっていく。
(本選に行きてえ)
公民館の舞台に上がると、大樹はにこにことお辞儀をする。
(行きてえ)
きりきりとした欲求は胃の奥に隠した。観客席のどこか、そう、右隅のあたり。あそこに安野先輩がいることにしよう。
大樹はピアノの前に座ると、ふっと息を吐いて弾き始めた。
俺はいらない。安野先輩になりたい。
指の下から、朝から何度となく聴いたマズルカのメロディが鳴る。ほかの演奏者と比べれば決して悪くない、と思う。だが先輩の音とはほど遠い。歯がゆさと空虚さが音に乗る。
自由曲は先生に勧められた現代曲にした。ラテン風の小曲だ。先輩ならどう弾くんだろう。こちらは比べる模範がなかったから、先輩になれない苦さはなかった。だが正解もわからない。練習中も暗闇を手探りしているようだった。頼りにできるのは想像だけ。
音楽室で静かに背中を向ける先輩のうしろ姿を頭に描く。大きな手が鋭く跳ねる、その動きに連動させて大樹は鍵盤を叩く。合ってるかな。何もかも大間違いな気がする。
演奏が終わって、大樹は客席に戻った。
「すごくよかった。とくに二曲目が楽しそうだった」
父親は小声でねぎらった。的外れな褒め言葉だった。楽しいもんか、すごく緊張したし苦しかった。大樹は本音を飲み込んだままありがとうと笑って、舞台の方を向いた。父親に負担をかけない癖だった。
午後の部が終わると、会場ロビーに人々が集まる。子どもたちが伸びあがって、正面の掲示ボードを見ている。大樹も教室の先生とともに人混みをかき分け、入賞者の番号を見に行った。七八二番。
「あっ……たぁ」
見間違えかと思ったが、たしかにあった。大樹はほっとして笑った。先生も驚いている。
父親に報告に行こうと、ロビーを離れたところで声がかかった。
「斎賀」
大樹は立ち尽くした。
「先輩! なんで」
がやがやとした公民館で、彼の周りだけ沈んだように静かに見えた。安野は私服のシャツ姿でたたずんでいる。大樹は駆け寄った。
「教室の後輩が予選に出たから、見学に」
「なんだー。てっきり俺の演奏を聴きにきてくれたのかと」
大樹はがっくりと肩を落とした。
「聴いたよ。ひどくはなかった」
「ほんとに?」
大樹はぱっと顔を上げた。
報われた。俺を嫌いになった甲斐があった。じんわりと涙が目に溜まった。
「先輩、先輩、俺予選通ったんですよ。先輩の演奏、聴きに行けるんですよ、やったぁ」
ぐるりと先輩の周りを回って、ふざけてじゃれつく。このぐらいさせろ。
先輩は困ったような顔をしたが、やがてぎこちなく大樹の頭を撫でた。思わぬ反応に、大樹は思わずかっと耳を熱くする。
あの甘い音を奏でる指が、鍵盤の代わりに髪を梳いている。そう思うと心臓が鳴って仕方なかった。俺、男なのに。
「それぐらいで喜べる無邪気さを、君は大事にしろ」
「安野さーん」
安野の後輩とおぼしき一団がやってくる。
「じゃあ」
大樹はひとりきりになって、ぼうっと安野の背中を見送った。
(離れたくねえ)
大樹はぎゅっと拳を握った。衝動が身体を駆け巡っていた。
(先輩の行くとこに、行きてえ。どこまでも)
そのためならなんでもできる。もっと自分を嫌いになれる。
本選は東京で行われた。付け焼刃だった大樹は当然入賞を逃したが、別に構わなかった。先輩の演奏を聴くにはまた来年も予選を勝ち抜く必要があるが、それだけだ。
先輩の演奏はいつに増して素晴らしかった。狭い部屋に閉じ込められていた音がゆったりと翼を広げ、ホールいっぱいに響き渡る。
音に胸を焦がしながら、大樹は小さく嫉妬した。音楽室で独り占めしていたあの甘く切ない音が、審査員や観客たちに降り注いでいる。全部この日のためで、俺のためじゃねえ。頭ではわかっていても気持ちがついていかなかった。
静かなたたずまいのまま、先輩は舞台の上で賞状を受け取っている。憂いを帯びた眼差しはここではない遠くを見つめているように見えた。(7/11)
次の水曜、大樹は授業中もそわそわとしていた。先生の単調な声が耳を素通りしていく。
コンクールが終わったから、もう先輩は音楽室に来てくれないかもしれない。そろそろ高校入試が始まるから、時間もなくなってしまうだろうし。
(うそ、先輩の卒業まであと半年ないのか)
大樹は急に怖くなる。安野先輩と過ごす時間が一切なくなったら、俺はどうなるんだろう。
放課後、おそるおそる音楽室のある四階に向かう。階段を上っていると安野の音が耳に届いた。大樹はほっと息をついた。
よかった。まだいた。
なるべく静かに音楽室の引き戸を開けると、見慣れた背中がそこにあった。
先輩はバッハを練習していた。二本しかない手から四つの旋律が生まれ、絡み合う。一声一声がそれぞれの言葉を語りながら、ひとつの呼吸をともにしている。古風で敬虔な、澄んだ音だった。
大樹は引き戸に頭を預け、うっとりと聴き入った。
「そんなところで立っていなくてもいいのに。かえって気が散るよ」
弾き終わると先輩はぼそりとつぶやいた。大樹はあわてて部屋に入った。
「いやあ、あんまりきれいだったから邪魔しちゃ悪い気がして……先輩、またコンクールですか?」
「いや、入試用だ」
「入試」
ずきん。大樹はまた胸に痛みを感じた。
「ああ。東京の音楽高校に行こうと思ってる」
「それ、どこですか」
大樹は前のめりになって訊いた。衝動が彼を突き動かしていた。どこまでも追いかけないと。遠く離れた場所だったらなおさら。
「君には難しいと思う」
「それでもです」
安野は高校の名前を口にした。有名音楽大学の付属高校だった。
「……目指すなら早めに手を打った方がいい」
先輩はそれだけ言って、別の曲を弾き始めた。
大樹は家に戻ると、すぐに安野の言っていた音楽高校の入試案内を検索した。
(うわ、課題曲のレベル高。聴音……? 楽典の勉強なんてしたことねぇぞ)
君には難しいと思う、と言われた通りだった。大樹は頭を抱えた。
(でもここ行けねえと、先輩に二度と会えなくなるかも)
大樹はその晩、夕食を用意しながら父親に切り出した。
「あのさぁ、俺、音楽教室変えていいかなぁ。もうちょい厳しいとこに行きたくて」
父親はなぜか困ったように微笑んだ。
「どうしたんだ、今になって」
「でさ、東京の音楽高校を目指したいんだ。先輩が行くから」
父親の笑顔が少しこわばった。
「将来の選択肢がだいぶ狭くなるな。母さんも高校は普通科だった気が……あれ、どうだったかな」
それが俺とどう関係あるんだ。母さんと同じ人生を歩ませたいだけじゃねえのか。理性で考えれば父親の言うことはもっともだとわかるのに、どうしようもなく理不尽な怒りが胸に渦巻く。
「俺にピアノを習わせたがったの、父さんだろ」
「それはそうなんだが」
父親は何か小さくつぶやいた。もういいんだよ、と聴こえたような気がしたが聞き違いだろうか。
「とにかくお教室を移って、しばらく考えたらどうだ。そっちは賛成だから」
父親はなだめるように言った。
「……うん、ありがとう」
大樹はぐっと言葉を飲み込んで、皿をテーブルに運んだ。今日はこれで我慢しねえと。
(簡単だ。母さん以上の才能があるって証明すりゃいいんだ。そうすりゃたぶん父さんも納得する)
簡単なはずがないことは大樹にもよくわかっていた。
大樹は次の日から練習量を増やした。弾く時間があまり遅いと近所から文句が来るから、部活を辞めて帰宅時間を前倒しにした。どうせ茶道部に入ったのはお菓子が目当てで、特段作法に興味があったわけではなかった。
次の水曜、先輩はシューマンの楽譜を広げながらつぶやいた。
「そういえば、うちの音楽教室に来たらしいな。先生から聞いた」
通う曜日が違うから、大樹が安野と行き会ったことはなかった。
「えへへ。俺は先輩になりたいんで」
「やめておけ。みすみす幸せを捨てるな」
「大丈夫っす。俺、見たとこよりは幸せじゃないですから」
にこにこと答えると、安野はため息をついた。
「なおさらその悩みに集中した方がいいと思うが」
大樹は笑い顔のまま俯いた。
「なんでかわかんねえけど、この時間だけ、幸せなんです。俺が俺に戻れる感じ。それももうすぐなくなっちゃいますね、はは」
「君が、君に」
ぽたりと雫が大樹の膝に落ちた。
「ずっと死んだ母さんの代わりにピアノやらされてて、あんま好きじゃなかったんです。でも先輩に出会って、初めて好きだと思えて」
大樹は肩を震わせた。
安野は椅子から立ち上がるとハンカチを差し出した。大樹はゆっくりと安野を見上げた。
「なら、ついてくればいい。ぼくのために苦しむというなら」
優しさとも憐憫ともつかない眼差しで、安野は大樹を見下ろしている。もともと表情が乏しいからどちらか余計にわからない。
大樹はハンカチを受け取らなかった。かわりにぐり、と、猫が甘えるときの仕草で顔を安野の手のひらに埋めた。持ったままのハンカチに大樹の涙がしみていく。
安野はびくりとしたが、手はそのままにしている。
「いくらでも。いくらでも……」
秋の陽が濡れた大樹の頬を照らした。大樹は眩しさにはっと我に返った。
「すいません、俺、調子乗りました!」
「斬新な拭き方だな」
安野は困ったように笑って、大樹の頬を指先で拭った。熱くなった頬がさらに熱くなった。
安野は椅子に戻るとふっと息をつき、譜面を閉じてそらで弾きはじめた。寂しい魂を抱きしめるような調べが溢れだす。リスト『慰め 第三番』。
「君は案外、こういうのが好きだろ」
あ、ダメだ。
一度目の奥に引っ込んでくれていた涙が一気に流れ出た。
「先輩、っう、わざと、ですか、ひぐ、俺のこと、ひっ、泣かそうと、っ、して、ぇうっ」
椅子の上で抱えた大樹の膝が涙でびしゃびしゃになっていく。
「さあな」
先輩は涼しい顔で笑った。
「っ、ぐふっ、いじわる、うっ」
柔らかな音色に大樹の汚いすすり泣きが重なっている。ああクソ、一音だって聴き洩らしたくねえのに。(7/18)

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