きみの記憶に囚われて⑤




五 誘惑




『父さんに今日は出掛けちゃダメだって言われました だから行けません』

大樹は唇を噛んで続けた。

『夏じゅう遊んでたと思っててピアノも捨てられそうです コンクールの結果も一番じゃなかったから才能認めてくんなかった 俺ピアノは完全に諦めなきゃいけないかもしれません どうしたらいいですか』

先輩に聞いたところでどうにもならないとはわかっていた。だがこの真っ暗闇の中にひとりでいるのは耐えられなかった。
大樹はベッドに座り込み、イヤホンを耳に挿した。安野の演奏を流しながら膝をかかえる。画面の中では安野が大樹のために幻想即興曲を弾いている。あの幸せが永遠になくなるとしたら。
何度目かのループ再生が始まったとき、画面の上に通知が出た。安野からだった。

『ピアノなんかやめればいい ぼくの部屋に来い』

外したイヤホンが手から落ちて、床へ転がっていく。
味方してくれないの。なんで。

『いやだってそんなことしたらピアノを捨てられちゃいます 死んだ母さんのピアノなんです』

大樹は必死に指を動かした。

『ぼくのピアノとどちらを選ぶ』

大樹は混乱した。

『どういう意味ですか』
『別に音楽の道に進まなくてもいいだろう ぼくを追いかけたいだけならこの部屋で弾けばいい』

大樹ははっと目を見開いた。

『遊びでいい きっと君はその方が上手くなる』 

考えたこともなかった。
薄暗くて小さな安野の部屋が大樹の心に映る。将来の心配をすべて放り投げ、家族や世間の目も忘れて、あそこで先輩と自分のためだけに弾く?

(それって)

心臓がどくどくと早打ちする。頬がかっと熱くなる。

『あの日の演奏が君の真実なら、それが君の幸せだ』

そんなことを望んでいいんだろうか。

『どうする?』

スマートフォンを握りしめたまま、大樹は勢いよく部屋を飛び出した。父親の慌てた声がする。

「おい、大樹」

知らない。聴こえない。
本当に必要なものはここにはない。

『今電車です』

東京へ向かいながら、大樹はそう送った。ねえ先輩、俺は先輩の方がいい。

『待っている』

大樹は端末をぎゅっと胸に寄せた。
駅から走って、大樹は楽園についた。息を整え、震える指でインターホンを押す。
扉がゆっくりと開いた。憧れの人がじっと大樹を見下ろしている。
安野は何も言わないまま、ゆっくりと手を差し伸べた。
大樹はあの訳のわからない安野のことを思い出して、ふたたび怖くなった。だがそこにあるのは、大樹が憧れ続けた大きな手だ。
大樹が手を伸ばすと、一気に身体が引き込まれた。驚いている大樹の頬にぬくもりが触れていた。
何が起きたのか理解が追い付かなかった。
抱き留められているのだと理解した瞬間、涙が溢れてきた。安心したのか、失ったものが悲しいのか、大樹にはよくわからなかった。
ドアが閉まった。安野は表情の乏しい顔をして、大樹の髪を撫でた。

「来たことを後悔しているか」

大樹は首を横に振った。安野は小さく笑った。

「ならいい」

安野は手を引いて、大樹をピアノの椅子に座らせた。

「少し昔話をしていいか」

大樹はごしごしと目をこすって頷いた。なんの話だろうな。今の先輩はすごく優しいのに、やっぱりどこか変だ。優しいから変なのか。

「ぼくにはライバルがいた」

大樹の胸がざわついた。

「彼は天才だった。同じ師匠について、同じ教育を受けたのに、ぼくには彼の音が真似できなかった。ぼくより若く、ぼくより小さな手をしていたくせに、簡単にぼくの努力を追い抜いた」

安野はピアノをじっと見つめている。大樹は苦しくなった。
先輩の心を、俺じゃない誰かが占領している。

「先輩が追いかけてた理想の音って、その人のことなんですか」
「そうだ」
「待って。今は聞きたくねえ、そんな話」

全部失う覚悟でここに来たのに。どうして先輩はそんな話を始めるんだろう。
さっきまでの優しい先輩はなんだったんだ。

「ぼくはその人に嫉妬した。彼には生きる資格があって、ぼくにはないという感覚がぼくを呪った。それを埋め合わせたくて、ぼくは彼に欲情した」
「やめて」

大樹は耳を塞いだ。俺じゃない誰かが好きだった話なんて、今はしないでくれ。
だが安野の静かな声は構わず続いた。

「彼の全部がほしかったんだ。才能だけじゃなく、肉体まで全部ぼくが奪ってしまいたかった。あの夜、それは不思議なぐらいあっけなく叶った。酒のせいだったのかな。それとも不出来な同輩への憐憫だったのか。自分の未来を知って、自棄になっていたのか。今でもぼくにはわからない」

安野はいつも以上に大人の顔をしている。
大樹はぽかんとして、ゆっくりと手を耳から離した。酒? 

「万能感はほんのいっときのものだった。すぐに彼はピアノを辞めて家業を継ぎ、家の決めたように結婚していった。ぼくと彼の間には何もなかったことになった。友情らしきものは続いたが、三十になる前に彼は流行り病で亡くなった」
「先輩?」

なんの話なんだろう、これ。大樹は混乱した。

「ぼくには癒えない傷ばかりを残して、彼は行ってしまった。彼との一夜は別の呪いでしかなかった。喪失の痛みを忘れたくてたまらなかったのに、結局生涯、あの男以上に愛せる相手は見つからなかった。あれを過去のものにできたなら、少しは溜飲も下がったかもしれない」
「えっと、それはいったい」

どうしよう、先輩が変になっちゃった。ストレス?

「いくら努力をしても、記憶の中に残ったあの音は再現できなかった。あの肉体と魂でなければならなかったんだ。彼の遺志を継ぐ大義名分すらないくせに、ぼくはピアニストとして生きながらえた。偽物だという自己定義のまま」

安野は目を覆った。

「死んでも死にきれなかったよ。でも君は忘れてしまった。そんな執着、君にはなかったもんな。結局ぼくだけが今でも苦しみの中だ」
「俺?」
「思い出せないならそれでいい。君にとってはあの才能もたいした意味はなかったんだ。ならここで今、ぼくが刈りとっても構わないだろう。世界に聞かせたくない。独占したい。君はここであの音を少しずつ取り戻していけばいい。いや、それだってしなくても構わない。君が本物だと証明されなければぼくは偽物にならないで済む」
「俺の――前世?」

大樹は困惑した。まったく身に覚えがない。
冗談でしょ。そう笑い飛ばしたいのに、安野はひどく思いつめた顔をしていた。

(変な夢でも見たとか? それを過去だと思い込んでる、みたいな)

真実はわからない。だが安野は実際に苦しんでいる。そして原因は自分のようだった。
大樹はどうしたらいいのかわからなくなった。
謝る?何を?本当のことかもわからないのに? 

(でも、よかった。よその誰かじゃなくて)

そうほっとしてしまう自分がいた。目の前で先輩がほかの誰かに執着するさまを見るのは耐えられそうになかった。

「ぼくのためだけに弾けばいい。世間や君のご家族みたいな、何も理解しない人たちに聞かせてやる意味がどこにある。ぼくならわかる」

安野は大樹の顔を覗きこんだ。数週間前と同じ至近距離に、同じ怖さの瞳があった。
大樹はたじろいだ。

「今みたいに原石のままでもわかる。斎賀大樹、君は彼だ」

何かが喉に詰まって、大樹は息苦しくなる。

(また誰かの代わり)

だが憧れの人はそれを願っている。
ふたつの瞳はじっと大樹の答えを待っている。
先輩、目を覚まして。そんなのあるわけない。
そう言いたかった。だが安野と過ごした、短いが濃密な幸せの記憶が大樹を引き留めた。

(俺なんかに目を止めてくれたのは、先輩がおかしかったから……?)

先輩が目を覚ましたら、俺への興味はどうなるんだ。
恐怖が大樹を襲った。
見捨てられる。先輩に。永遠に。

「前世でも」

気づけば大樹の口が動いていた。

「なんだ?」
「俺は先輩のことが好きだったんです」

安野の瞳が揺れた。

「君、記憶が」
「前世の俺だって先輩のことすげえって思って憧れてたんです、本当です、だから」

うそが軽々と口をついて出た。

(そうだ、だって、先輩のためだ。苦しんでる先輩を喜ばせないと)

大樹は自分に言い聞かせた。

「君は――そんな、君は」
「先輩が幸せなら、世間なんていらないんです。最初から」

安野は大樹を立たせると、強く抱きしめた。
大樹の身体を震えるような喜びが走った。

(これでいいんだ)

俺はこれが幸せだ。
たとえ前世の俺の代わりでも。(3/8)



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