ざまみろ、お前は俺が好き 2




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俺の井戸は、飛行機で数時間の距離にある。
畑の中央にたたずむ、防風林のある平屋。実家が何一つ変わっていないことに、なぜか俺は少し感動した。東京に来てまだ一年も経っていないのに、ずいぶん長いこと留守にしていた気がする。

「お帰り、秀」

母さんが俺を出迎える。近所の人が数人、わざわざ俺の顔を見に玄関口で待っている。
『東京の難関大学に行った秀ちゃん』。
小さな井戸の中で、俺はふたたび龍に戻った。

それが物珍しかったのはほんの数日だった。

(つまんねえ)

俺はぽんと専門書を机に放った。畳の上にごろりと横になり、天井を見つめる。
東京の刺激がない。俺より学力が優れた人間がいない。
こんなに静かなのに、本を読んでも張り合いがなくて、すぐに飽きてしまう。

(鳥見ってやっぱ、面白かったんだな)

あいつに負けることがどれほど自分の熱量につながっていたか、痛感させられる。この恵まれた環境では努力する必要がない。
次第に生活が自堕落になっていく。
まるで小学生のように課題の山を放り出して、俺はインターネットの世界に浸かった。ふだんは砂糖より甘い母さんからも、少しは真面目に勉強したらと苦言が出る程だった。

鳥見から連絡が来たのはそんなときだった。
メッセージは唐突だった。

『君さえいなければ平和になると思っていた。いなくても神経に障るのはなぜなんだ』

俺は思わずにやりと笑った。
なんだ、こいつも俺の不在に耐えられなかったのか。よしよし。

『寂しかったのか?』

そう返すと、画面の向こうで鳥見がぴりぴりするのがわかる。第六感で。

『黙ってくれ。明日の午後三時、○○市内、アイアンコーヒー。どうせ暇なんだろ』

俺は少し驚いた。東京からわざわざ来るのか。あの無駄使いの嫌いな鳥見が。

(俺のこと、大好きじゃん)

愉快な奴。俺もなんだか鳥見に会いたくなってしまった。
顔を合わせればまたコンプレックスでぐちゃぐちゃになるだろうが、その苦しさを含めて、鳥見と言う存在の刺激がほしい。

『俺が東京に戻ってもいいけど?』

どうせ田舎には飽きてしまったからと思って、俺はそう返した。
返信に少し間があった。

『近所にいるんだ』

意外だった。

『え、もう? なんで』

また間が開く。

『何事も経験かと思って、それで短期で仕事を入れた。語学も生きるし』

(なんだ、俺に会いにわざわざ飛行機か新幹線で飛んでくるんじゃないのか)

仕事のついでか。俺は不思議にがっかりしていた。
よく考えてみれば、鳥見に限って、そんな特別扱いをするわけがない。やることに一切の無駄がないのが鳥見の特徴だ。

『どこで働いてんの』

鳥見はリゾートホテルの名前を出した。不承不承答えているのが丸わかりのタイミングだった。

『ああ、うちの県だと高級ホテルだ。へー、よかったな』
『職場には来るなよ』
『わかってる。寮なんだろ』

また何秒か返信に時間がかかった。

『やっぱり君、くそうざい』

そんなに恥ずかしがることはないのに。


アイアンコーヒーは観光客向けのおしゃれな喫茶店で、各種グルメサイトでも評価が高い。鳥見らしい選択だな、と思いながら、ガラスのドアを開ける。

「遅い。それに君はまたそんな服を着て」

鳥見の不機嫌な顔が俺を迎えた。
なつかしさに胸のあたりが生温かくなる。そうそう。鳥見はこうでなくては。

「どこがおかしいんだよ」

俺は反抗的な態度で自分を見下ろした。中学高校と愛用し続けたジャンパーに、同じだけ年季の入ったスウェットとジーンズ。どこからどう見ても俺らしいスタイルだ。

「写真を撮るのに困るじゃないか。いいからその汚い上着を脱いで」

俺は口を尖らせた。

「汚いとはなんだ。父さんからのプレゼントだぞ」

鳥見は立ち上がり、自分の小じゃれたジャケットを脱いだ。俺の肩からジャンパーが撤去され、代わりに鳥見のジャケットがかかる。
悔しいが、黒い上質のウールはさっきまで着ていたナイロンよりも温かい。

(鳥見の体温が高いだけだろ)

そう思った瞬間、ぞわっとした謎の感覚が俺の身体を包んだ。
正体のわからない、少し恐ろしい感覚だった。ジャケットの熱と淡い香水の匂いが、俺の呼吸や神経を勝手に支配するような感じ。
俺はあわてて感覚を追いやった。

(いったい何だったんだ、今のは)

深く考えてはいけないと、俺の中の何かが告げている。

「多少はましか」

鳥見の声で我に返った。
鳥見は心底嫌そうに、色あせた俺のジャンパーをつまんでいる。

「しかし君、腕が短いな。袖が余りすぎ」
「うるさいわ」
「机の下に手を下ろしておいて。そう」

俺が着席すると、鳥見はスマートフォンを斜め上にかかげて写真を撮った。

「見せろ」
「ん」

しばらく操作してから、鳥見はスマートフォンを寄越してきた。有名な画像投稿アプリだ。

『東京の友人と再会』

などという小癪なハッシュタグがついている。
その友人である俺は画面の隅に追いやられ、顔すら映っていない。鳥見自身と紺のマグカップ、深緑の皿に乗ったサンドイッチ、そして顔のないモブの写真だ。

(あれ、やっぱり俺、こいつにとってはいらねえ存在?)

鳥見らしさ溢れる写真は、俺に現実を突き付けてくる。
こいつが俺と会いたかったのは、リゾートバイトで切れかかった東京とのつながりをつなぎなおしたかっただけだ。東京の知人の存在を、あのアプリでアピールしておきたかった。
俺はなぜか傷つきながら、スマートフォンを返した。

「これだけしか映らないなら、あのジャンパーでもよかっただろ」

鳥見は俺をちらりと見て、また画面に目を落とした。

「こんな汚いの、もう着ないでくれ。どう見ても消費期限切れだ。ぼくのそれ、あげるから」

俺はきょとんとした。

「こんな高そうなのに、いらないのか」
「あんな格好でぼくの周りをうろつかれたくないんだ」

なんとなく言い訳じみた雰囲気で、鳥見は言った。

「これだって俺には袖が長いけど」

鳥見はため息をついた。モブである俺の服装などという、些細かつどうでもいい話を長引かせることに苛立っているらしい。

「まくるなり、直すなり、好きにしてくれよ。ぼくはもっと有益な話がしたい」
「有益?」

鳥見はスノッブに肩をすくめた。

「職場には、ぼくの話についてこれる相手がいないからね。さすがに退屈したんだ」

俺は思わずにんまりと笑った。

「それは同感。田舎ってつまんねー」

俺にもちゃんと価値があると、遠回しに鳥見は認めていた。少なくとも職場の人より退屈ではないと。
鳥見もようやく口元を緩めた。俺たちの意見が一致した、数少ない瞬間だった。

「鳥見さ、水曜がオフなの?」

運ばれてきたエスプレッソを一口啜って、俺は訊いた。苦くて酸っぱいが、癖になる。東京みたいな味だ。

「まあ、基本的には」
「じゃあさ、来週も会わねえ? 地元だし、案内してやるよ」
「興味ないな。めぼしい史跡はもう見て回ったから」

がっかりした気持ちが顔に出ないようにするので必死だった。鳥見はさらりと続けた。

「君と話さえできればいい」

喜びが顔に出ないようにするので必死だった。

「じゃあ来週もここ?」
「それでいいよ」

干からびた身体に水がしみわたって、ぷるぷるになる錯覚をした。
退屈だった俺の毎日はまた、鳥見という強めの刺激で彩られる。

「で、青田は当然、課題は済んでるね?」

俺はうげっと鳴き声をあげた。



「秀、お友達に会いに行くときはいつもそのジャケットだね。新しく買ったの? ちょっとサイズが合ってないみたいだけどぉ」

ゆったりとした訛りで母さんは聞く。上京してすぐ、俺が失くしてしまったもの。今でも喋ろうと思えば喋れるのだろうが、

(鳥見と同じ言語が喋りたい)

「帰ってきたら、簡単に肩んとこ、詰めてあげようか?」
「え、いいよ、これはこれで」
「でも袖、ずるずるよ?」
「……こういうおしゃれなんだよ」

なんとなく鳥見のジャケットを母親に触られるのが嫌だった。気恥ずかしいような、いたたまれないような変な感じだ。

(母さんにエロ本を掘り出されたときみたいな)

そう何気なく考えて、俺はぎょっとした。なぜそんな比喩が急に出てきたんだろう。

「それにしても、いい友だちねぇ。秀のやる気を出してくれて。帰ってきた秀、別人みたいに張り切っちゃってたもんねぇ」
「よしてよ」

俺は苦笑した。否定はできない。

「家に呼ぶときは言ってね。おいしいもん、たんと作って待ってるから」

俺はぱちくりと瞬きした。鳥見を家に呼ぶという選択肢を、今まで考えたこともなかった。
典型的な田舎の家である俺の実家と、東京代表みたいな鳥見とが、あまりに似合わないせいかもしれない。

「えっと、うん、行ってくる」

俺はあいまいに返事をして、玄関を出た。
頭の中には、この一週間で新たにたくわえた知識が詰まっている。手札はこれで足りるだろうか。わくわくするような、少し怖いような気持ちでいる。
いつもと同じ時間、同じ店、同じ席に鳥見はいた。例のジャケットを着てきた俺を一瞥して、鳥見は少し満足そうに見えた。
俺は席に着いて、いつものエスプレッソを頼んだ。さあ、勝負だ。
時間は飛ぶように過ぎた。気づけばすっかり暗くなっている。市内とはいえ、東京よりずっと明度の低い闇だ。

「あれ、もうけっこうな時間だな」

俺は店の時計を見上げた。鳥見もスマートフォンを見た。相変わらず澄ました顔だが、喋り始めるまで一瞬の間があった。

「……ここで食べて帰るよ。君は好きにしてくれ」

さては、寮の夕飯に間に合いそうにないな。そう俺は察した。

「なあ、鳥見。今晩、うちに泊まってくか? 言えば飯、用意してくれるって」

母さんの提案を思い出して、俺は訊いた。なんて気の利く友人だろう。
鳥見は一瞬黙った。

「……これも経験かな」
「鳥見?」

三杯目のおかわりを飲み干し、鳥見は立ち上がった。口元にだけ微笑を浮かべて、俺の目をじっと見つめている。

「行こうか。誘いに乗ってあげるよ」
「そこはありがとうだろ」

なんだか妙な言い回しだなと思いながら、俺は明細を掴んで立ち上がった。


電車を乗り継ぎ、無人駅のバス停で本数の少ないバスを待つ。鳥見は少し寒そうにしながら、冬の星空を写真に撮っている。

「それもあれに載せるのか」

鳥見は小さく笑う。

「ためしに撮ってみただけだ。これじゃ暗すぎる」

そんなもんなんだ。俺がスマートフォンに目を戻すと、フラッシュが光った。
俺は顔を上げた。

「何で俺のこと撮った」
「さあね」

珍しいな、と俺は思った。鳥見が中心に収まっていない、俺だけの写真を撮るなんて。

「遅いな。凍えそうだ。星はさすがにきれいだけど」

スマートフォンをポケットにしまいながら、鳥見は空を見る。
俺も空を見上げた。鳥見のお墨付き通り、手に届きそうに大きな星がごろごろしている。この井戸から見る空は東京よりずっときれいだったことを、俺はようやく思い出していた。

「ねえ、青田……」
「あ、バス来た」

丸い明かりがふたつ、道を照らしている。俺は立ち上がった。

「あ、今何か言おうとした?」
「別に」

鳥見もポケットに手を突っ込み、立ち上がった。
古ぼけた小さなバスが俺たちを乗せ、バス停を離れる。
鳥見は議論を吹っ掛けることもなく、曇った窓を拭いて外を眺めている。景色が珍しいのかもしれない。
石でも轢いたか、車体が揺れる。はずみで鳥見の膝が俺の膝に触れる。小さな違和感が身体を駆け抜ける。
鳥見のジャケットを初めて着たときの、あの妙な感覚だ。脈拍も呼吸も俺の意思に従わなくなる。静けさが俺を追いつめていく。
なんだこれは。

(なんか喋ってくれたらいいのに)

ジーンズの上で、俺は拳を握りしめる。手のひらに汗がにじんでいる。
バスが着いた。ホウレン草が半透明のマルチングの下で眠る横を、黙って歩く。
鳥見は立ち止まると、俺の実家を無表情に眺めた。

「どうしたんだ」
「ぼくは君をあまり知らなかった」

鳥見はぼそりと言った。

「たしかにここでは君は稀有だ。ぼくがこの環境で育ったとして、埋もれてない自信がない。悔しいな」

ああ、井戸の中なら俺はちゃんと龍に見えるわけだ。俺は思わず笑った。

「俺を認めるなんて、お前らしくねえ」

鳥見はため息をついた。

「人が感傷的になってるときぐらい、配慮してくれよ」

ドアを開けるとオレンジの光が畑を明るくした。あきれる鳥見をうながして、家にあげる。

「あらまあ、ほんとうに東京のお友だちだよ、かっこいいねぇ、洒落てるねぇ」と母さんがしきりに感動しながら、どんどん鳥見の皿に夕飯を盛る。父さんは朝が早いからと先に寝てしまっていたので、作りすぎた食事を消化できるのは俺たち若者しかいない。鳥見は礼儀正しく微笑んで田舎料理を口に運んでいる。
蛙の腹がぽんぽんに膨れ上がったところで、俺たちは母さんの給餌攻撃から解放された。
鳥見は皿洗いを手伝った。

「よく気が付くね。ほんとにいいお友だちだ」

気づいたころには母さんはすっかり鳥見のファンになっている。外づらのいい奴め。
俺が最後に湯を使った。風呂を磨き、タオルを首にかけて部屋に戻ると、なぜか鳥見が俺の部屋にいる。

「おい、お前の部屋はここじゃ……んむ」

まるで手練れの強盗のような見事な手さばきで、鳥見は俺の口をふさいだ。何が起きているんだ。
鳥見はそのままドアを閉めた。かちゃりと鍵の音が響く。

「あいにく、何もせず帰る気はないんだ」

鳥見は手を俺の口から離して、静かに言った。

「えっ……何、これってそういう」

ざわり、ぞわり。バスの中で感じたあの奇妙な感覚が、今は大きな波のように押し寄せていた。

「待ってくれ。俺は」

鳥見は俺を遮った。

「そんなつもりじゃなかったとは言わせないよ。友だちから始めてもいいと言ったのは君だ」

たしかに言ったけど。俺は逃げ場がなくなっていくのを感じる。

「君の実家のありかを突き止め、近くで働いてまで、ぼくは君を追いかけた」

うそ。俺は息を飲んだ。

「仕事のついでに俺に会いに来たわけじゃなかったのか」
「今さらだよ」

鳥見は俺のタオルをするりと抜き取った。ざわつきと動悸が激しくなる。どうしよう、どうすればいい。

「週にたった一度の休みをすべて、ぼくは君と会うために使った。君はちゃんと毎週会いに来た。ぼくにもらったジャケットを着て」
「あの、あれってもしかして……デート……」
「君が俗なネーミングを好むならね」

鳥見は冷たく言った。

「そして君はぼくを家に誘った。そういう意味だと思われても仕方ないだろ?」

そう畳みかけられると俺に分が悪い気がしてくる。

「君が何も知らなかったなら、ただの友情で済まさなくてはならないね。でも君は違う。ぼくがどういう男か、君は知ってた」
「だってお前、あれから俺のこと口説かなかったし! もう忘れたんだって思って」

俺の必死の反論に、鳥見は顔色ひとつ変えない。

「口説いただろ?」
「いつ」
「この家の外で」
「いや、あれかよ」

わかんねえよ。

「言葉がほしいのか?」

俺の肩をベッドに向かって押してくる。目の色がおかしい。

「なら、あげるよ」

俺はマットレスに尻もちをついた。

「好きだ。愛してる。君のことしか考えてない。あれから、ずっと」

(うそだろ)

俺は混乱しながら思った。

(これ、ほんとうの鳥見だ)

言葉を重ねるたび、鳥見が子どもじみていく。ほしいものが手に入らない子どもの顔だ。

「お願いだ、青田」

鳥見の手が俺の頬を撫でた。なんだかすがるようだった。

「ぼくがここまで言うのは、君だけだ。ぼくをこれ以上みじめにしないでくれ」

鳥見の膝でマットレスが軋む。身体じゅうの神経が逆立ち、血がざわざわと巡る。
あの得体のしれない、身体が何かに支配されるような感覚が俺を圧倒する。手足に力が入らない。

「お、れは」

至近距離で、鳥見は思いつめた顔をしている。

「お前をどう思ってるか、わかんねえ……」

口から本音が勝手に溢れだす。

「お前を見てると、劣等感でぐちゃぐちゃになる。けど、お前といっしょじゃないと、死んでるみたいで」

鳥見は目を見開いた。それからゆっくりと笑みを作って、俺をうながした。

「だから?」

俺はその表情を嫌というほど知っている。勝ちを確信している顔。

「だ、から」

だから、なんだ?

「だから……そうだ……」

この未知の感覚から、どうせ逃げられないのなら。

「ためして、みたい」

恐ろしくても、その中身を覗いてみたい。

「たしかめてみたい……実験……」

そう言い終わらないうちに、鳥見の顔がすっと近づいた。
きれいだなと見惚れた次の瞬間、鳥見の唇が俺の唇を吸った。


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