きみの記憶に囚われて②




二 守れなかった約束




 大樹はビデオカメラを止め、パソコンへ向かって録画を確認する。下がり眉の男がやじろべえのようにぐらん、ぐらんと大きく頭を揺らし、『回想』を弾いている。

(先輩に届きますように)

 編集作業を終えると、大樹は祈るように動画をアップロードした。

(先輩はこんなの観ないだろうけどなー……)

『揺れすぎで草』

 ノリで弾いたストリートピアノの動画が勝手に誰かに拡散され、ほんの短い間話題になったのは数か月前のことだった。こういう人形あるよね、というコメントもあった。癖のある髪を伸ばしっぱなしにしているせいもあり、たしかに動画の自分はパペットのように見えた。

(自分で人生決めらんなかったから、人形だよ)

 音楽高校にさらりと推薦合格して、先輩は卒業していった。大樹には忘れられない思い出だけが残った。
 先輩を追いかけようと、記憶の音だけを頼りに必死で弾いた。正しい音が頭の中で鳴っていて、自分はそれを模倣できない。先輩が言っていた悔しさは、そのまま大樹が感じるようになった。大樹にとっての理想は安野の音だけだった。三年生になったとき、地区コンクールで最優秀賞をとった。先輩に少し近づけたような錯覚がしてうれしかった。
 これなら同じ高校に行ける。東京まで追いかけられる。だが夢は夢のまま、叶うことはなかった。
 中学二年のとき父親は恋人を家に連れてきた。写真で見た大樹の母親に似た、ショートカットの女性だった。リビングの隅に置かれた古いピアノを見て、彼女はつらそうに目を伏せた。
 父親は急に大樹がピアノにのめりこむのを嫌がるようになった。

『さんざんお前にピアノをやらせておいて、言えた義理じゃないのはわかってる。でも、もう次に進ませてくれよ。でないと瑞乃さんが悲しむんだ』

 父の気にする女はもう大樹の母親ではなくなっていた。あの、今までさんざん代わりをやらされてきた俺はなんだったんでしょうか。大樹は置き去りにされた気分だった。
 結果を出せばわかってもらえる。最後まで希望を捨てきれずにいた音楽高校への進学は、反対されたまま時間切れとなった。中学生では逆らうすべもなかった。あまり頑固にしているとピアノを捨てられてしまうのではないかという恐怖もあった。
 父親の希望通り、高校は地元の普通科へ進学した。音楽教室の先生は惜しがってくれたが、父親は聴く耳を持たなかった。
 追いかけると約束したのに、できなかった。苦さが今も大樹の胸を渦巻いている。

(せめて連絡さえできたらよかったんだけど)

 中学時代は家庭の方針で、大樹も先輩もスマートフォンを持たせてもらう前だった。クラスでは珍しい方だったが、大樹の方は父親ひとりではネットのトラブルまで面倒を見切れないという理由だった。先輩は言葉を濁していたからはっきりとはわからないが、家庭が厳しいようではあった。
 約束を破った後輩のことなんて、きっともう忘れてんだろうな。大樹はため息をつく。

(でもこうやって弾いてりゃ、また行き会うこともあるだろ、うん)

 ピアノを諦めたわけではない。新しい妻を母さんと呼ぶのと引き換えに、音楽教室は続けさせてもらっていた。それに、希望はまだ残っていた。コンクールでなら先輩と再会できる。
 年齢も参加レベルも違うから、去年おととしは言葉を交わせもしなかった。だが舞台上の安野を客席から見つめるだけでも幸せだった。
 中学のころより背の高くなった彼はスーツもタキシードもよく似合っていた。指先から溢れる音は聴くたびに熟して、美しさを増した。
 待て、理想がまた遠くなった、これじゃ再現できねえ。我に返れば焦りもするが、これなら一生ついていけるという喜びがそれを上回った。全国まで勝ち抜いて出場者になれば、自分の音を同じホールに響かせることもできた。先輩が聴いている保証なんて、本当はどこにもなかったが。
 練習時間の短さは歯がゆい。できれば大学ではピアノを専攻したかった。動画を投稿し始めたのはそのための資金稼ぎでもある。

(そんなにうまくはいかねえけどなー)

 他人が無断投稿した例の動画の、十分の一程度しか再生されていない。なんでだよ、俺は俺だろ。ほら、今日も揺れてるぞ。
 考えていても再生数は増えない。大樹はため息とともにマウスをクリックして、安野の演奏する動画を再生した。コンクールの公式が投稿したものだ。もう何度観たかわからない。
   少し宙を見つめてから、先輩は弾き始める。この仕草は中学のときと同じだ。ヘッドホンから音が流れ、大樹の身体に忍び入ってくる。大樹は鳥肌を立てた。
 安野と過ごしたあの放課後が大樹のすべてを作った。あれが恋だったとようやく理解したのは先輩が卒業したあとのことだった。
 そっと唾を飲むと、音をなぞって、鍵盤の上で指を動かす。そろそろ近所から苦情がきそうな時間帯だから打鍵することはできない。

(手がでけえのうらやましい)

 大樹の指が届くのは九度程度だ。今の安野はおそらく十一度以上は開くだろう。だから和音でもパッセージでもすべて無理がない。大樹の場合、音を近づけるには手首の柔軟さや瞬発力、しなやかさで補う必要があった。いつしか身体を大げさに揺らす癖ができたのは、指先だけでなく全身で弾くためだった。見たところ先輩のスタイルとは遠くなるが仕方がない。

「ただいま」

 瑞乃が仕事を終え、家に帰ってくる。やべ。大樹はピアノの蓋を閉じ、出しっぱなしだった録画機器を慌てて片づけた。

「おかえりなさい、散らかっててすいません。ごはんは用意してあるんでぇ」
「そんなに気を遣わないで。家族なんだから」

 瑞乃は困ったように笑った。瑞乃が嫌いなのはぐちゃぐちゃのコードや録音装置ではなくピアノの方だと、大樹にはよくわかっている。
 瑞乃と暮らすようになってからの大樹はいつも気を張り詰めている。瑞乃本人ははっきり文句を言う人ではないが、そのせいで父親が先回りして気を遣うところがある。ひとつでも間違えると詰む。
 成績が落ちるとピアノを続けられなくなるだろうからと、授業には必死に食いついている。七月の期末テストまで気は抜けない。学校が終わると、大樹はいつもすぐに帰りのバスに乗った。部活は最初から入っていない。友だちもいらない。
 帰ったら練習漬けだから、ぼんやりできるのはこの時間ぐらいだった。つり革に掴まって揺られていると、ふいにポケットの真新しいスマートフォンが震えた。またいつものクソつまんねえコメントかな。大樹はため息交じりに通知を開いた。
 アイコンを見て息が止まる。
 望。安野先輩と同じ名前の人だった。
 まさかな、と思いながら、いそいでコメントに目を走らせる。

『安野望 たった今 身体を揺らすなら音のためにしろ』

 あの抑揚の少ない声が耳元で聞こえた気がした。
 ぼたぼたと涙が落ちて画面が濡れた。大樹はあわてて液晶を拭った。

「観て、くれてた……」

 俺のこと、忘れてなかった。
 周りの客が怪訝な顔をする中、大樹は肩を揺すって泣いた。限界だったのかもしれない。
 返事だ、返事。大樹はしゃくりあげながら、もどかしく画面に指を走らせる。追いかけられなかった事情、ピアノを続けたい気持ち、現実、先輩への変わらない憧れ。言いたいことは山ほどあった。送信してふと我に返ると、たった十五文字のコメントの下に、感情ばかりでまとまらない文が三十行も並んでいた。何やってんだ、俺。大樹は泣き笑いした。
 真っ赤な顔のまま家につき、ピアノの前に座る。先輩のアドバイスをもらってからフィンガートレーニングを欠かしたことはない。どうせ三十行もあったのだから、せっかくならそれも書けばよかった。
 終わると課題曲の練習に移る。本当に向いているのは手の大きさを必要としない古典なのかもしれない。そうわかっていても、大樹はロマン派以降の作品にこだわっていた。安野が得意だったから。古典は女子生徒との競合になりやすく、埋もれるから。そして大樹自身の感情をぶつけやすかったからだ。
 このエチュードを作ったショパンも、手の大きさは九度ぐらいだったはず。だから大丈夫。大樹は振り子のように腕をあげ、脱力の重みで和音を鳴らした。今日はいい音だ。これなら先輩にも、ちょっとは褒めてもらえるかもな。
 こわばった心がふたたび息を吹き返したようだった。喜びと切なさが大樹の胸をいっぱいにしていた。このままたくさん、時間が許すかぎり弾けたらいいのに。
 週末になるとふたたび大樹はどんよりと憂鬱になる。家族の前では弾きにくい。たまに学校の音楽室を借りられるときもあるが、騒音に厳しい住民が近所にいるらしく、あまり頻繁には許可が下りない。スタジオを借りるお金もないから、家族が家で過ごす日は仕方なく外を歩き回った。

(夏休み、どうすんだよ)

 毎日夫婦でデートに出てくれないだろうか。夫婦円満の神社で神頼みしてみようか。死んだ母さんが微妙な気持ちになるだろうけど。

(あそこのピアノ、また空いてるといいな)

 あまり期待が持てないまま、地元の公民館へ足が向かう。一階が市民のための憩いスペースとなっていて、誰でも弾けるグランドピアノが置いてあった。以前動画撮影された場所だ。バッグには録画機器を入れてある。またバズれたらな。そんな下心もなくはなかった。
 公民館に近づくとピアノの音がしてきた。誰かが指慣らしをしている。やっぱ土日は混むよな。引き返そうかとも思ったが、かすかな音の違いに大樹の心臓が鳴った。

(まさか)

 広場に入る。タイル張りの建物からくぐもった音が漏れている。この音の厚み、間違いない。大樹は次第に駆け足になる。
 公民館に入る。うねるような調べが大樹を圧倒した。グランドピアノの方を見ると、

(いた)

野球帽をかぶったおじさんがなぜか偉そうに頷いている。キャリーカートに腰かけたおばあさんがうっとりと手を合わせている。中学生がスマートフォンで様子を撮影している。いつもの公民館らしい景色の向こうで、そこだけ別世界のように静謐な雰囲気が漂っている。
安野がピアノを弾いていた。(7/25)


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