きみの記憶に囚われて③




三 髪型



大樹は我を忘れて聴き入った。ショパンの難曲、エチュード第二十四番『大洋』だ。猛烈な勢いでアルペジオを奏でながら、手が鍵盤を左右に駆ける。波のなかから低いメロディーが立ち上がり、大きな鉄の船を思わせる。物静かな男が巻き起こす嵐に、大樹はただただ呑まれている。
最後の和音が消え、ぱらぱらと拍手があがった。うまいねぇ、と野球帽のおじさんが親戚のような顔をして褒めている。大樹は数人の観客をかき分け、安野に駆け寄った。

「先輩……!地元に帰ってたんですね、演奏すごかった、なんで、なんでこんなとこで」

安野はふっと笑った。

「懐かしい顔が見たくなった。ここにはよく来るようだから、昔のように弾いていれば会えるかと」

大樹はきょとんとした。

「俺ホイホイってことですか」
「ぼくの音楽をホウ酸団子扱いするな」

とてつもなく美味なホウ酸団子だろうな、と考えかけ、大樹は首を振った。

「俺もずっと会いたかった、ほんとは追いかけるつもりだったんです、それが」

安野は遮った。

「返信を読んだから知っている。それより、カメラを回したらいい。投稿すれば何かの足しになるかもしれない」
「それって……俺のチャンネルのためにわざわざ帰ってきてくれたんですか!?マジ!?えっ、いいの」
「早くしろ。ずっと占拠していたら不味い」

大樹は大慌てで機材をセットした。安野はその間短いフレーズを反復練習している。

「えっと、いつでも大丈夫です」

安野は少し考えた。

「もう少し有名な曲がいいな、うん。回していい」

大樹はボタンを押した。こんなチャンス、一生に一度あるかないかだ。ちゃんと撮れてくれ。
安野が弾き始めたのはショパンの幻想即興曲だった。
誰もが知っている曲を披露するのは案外緊張感がある。一音一音の解釈をほかの演奏家と比べられる覚悟が必要だ。
安野の幻想即興曲には静けさと、息の詰まるような緻密さがあった。ピッチは正確でどこまでも美しく張り詰めている。表現として完成された焦燥感がある。甘美で繊細な中盤のメロディは夢のように消え、再び冒頭の緊張が戻ってくる。最後のフレーズは救いのように優しく沈んだ。
いつの間にか観客が増えていた。目を伏せ、音に聴き入るかたちで演奏を終えた安野を拍手が包んでいる。

「……途中で赤ん坊の泣き声が入ったが、使えるか」

安野がぼそりとつぶやくと、大樹はようやく我に返った。

「いや全然気づかなかったです、こういうとこなんで仕方ないっていうか……わあ、でももったいねえー音源クオリティだったのに」

大樹は頭をぐしゃぐしゃにした。

「使えるならいいんだ。君のチャンネルだ、君も弾くだろう」

安野は椅子を立った。

「え、やだ、先輩のあと弾くの罰ゲームじゃないですか」
「昔みたいに教えてもいいと思ったんだが」
「弾きます」

大樹はころっと態度を変え、椅子に座った。終わりか、とつぶやきながら聴衆がぽろぽろと立ち去っていく。あ、行かないで。

「どうせなら同じ曲がいい。弾けるか」
「罰ゲーム!」

笑いながら、大樹はぶんと頭を振って弾き始めた。有名なだけに大樹も練習したことのある曲だ。恥をかくには決まっているが、先輩に教えてもらえる喜びがそれを何百倍も上回っていた。
ああ、全然似てねえな。大樹はかなしく考える。似せようとしても自分の匂いが出る。甘美な夢ではなくジャグリングをしているピエロが見える。一生懸命すぎて少し滑稽で、せわしない音だ。
弾き終えると大樹はがくりとうなだれた。

「あー、ダメ。先輩みたいになれねえ」

小さな子どもがひとり、ぱちぱちと拍手をしてくれている。大樹はありがとう、と苦笑して手を振った。

「ぼくに似せようとしてたのか」

安野は困惑している。

「わかんなかったんですね。ちくしょー、やっぱ手の大きさかなぁ」

大樹は手を開いて閉じた。

「力みすぎていて硬い方が問題だろう。何を考えながら弾いていた?」
「一個も似てねえええ!」

安野はにこりともしなかった。

「ぼくの海賊版になったって仕方ないだろう。ぼくだって理想の音は鳴らせていない」
「理想の音なんてどうでもいい、俺は先輩になりたい」
「どうでもいいなら君のままでいい」

大樹ははっと顔を上げた。大樹がほしかった言葉に、安野の言葉はひどく似ていた。
だが安野は抑揚の少ない声で続けた。

「最初からそう言っている。理想の音を追い、自分を否定し続ける人生は苦しい。家族に反対されても続ける意味はなんだ」

大樹を試しているようだった。突き放すことが大樹の救いになると本気で思っている目だ。

「先輩のそばに行きたいんです」

大樹は素直に言った。

「先輩はピアノしか見えないでしょ。だから同じ世界に行かないと」
「君のそれはなんだ」

恋です、と衝動的に答えかけて、大樹は口をつぐんだ。
それを言って先輩に理解されるのか。その手で触れられたいという生々しい願いを、先輩はどう受け取るのか。

『気持ち悪い』

そう拒絶される瞬間を想像して、大樹は恐ろしくなる。ダメだ、生きていけない。
気づけば指が走っていた。ぐっと飲み込んだ感情がそこから溢れたようだった。
安野の視線がわずかに変わった。
大樹は自分でも驚いていた。何かに身体を乗っ取られている。指が重力から自由になる。まるで話すように自然に指が回る。
俺ね、先輩と同じ高校に行けないことになったとき、顔を真っ赤に腫らして泣いたんです。頑張ったって意味なかったって。でも先輩は俺を忘れてなかった。
ねえ先輩、またこうやっていっしょに弾きたい。今、夢見てるみたいなんだ――
そっと指を沈めて離すと、周りから小さな拍手があがった。いつの間にか聴衆が数人増えていた。大樹は我に返ると、くしゃくしゃの頭を掻きながら会釈をした。

「どうでした……?」

大樹はおそるおそる安野に向き直った。安野はしばらく微動だにしなかった。

「わかっているだろう。今のはよかった」

大樹は頬を染め、目を見開いた。鳥肌が立っていた。
初めてちゃんと褒められた。この日のために生まれてきたんじゃないかと本気で思った。
安野は短くため息をついた。

「警告したのにな」
「先輩?」
「君も同じ業に囚われた」

ゆっくりと安野は微笑んだ。

「もう逃げられないな」

大樹はぎょっとした。

「家族にも逃がしてもらえそうだったのに、わざわざ君はもう一度選び直してしまった」
「先輩」
「自分を疑い、自分以外のすべてを憎み続ける道を。いつかはぼくさえも君は」

なぜか夢見るように安野はつぶやいた。

「やだな、俺が先輩を憎むわけないじゃないですか」

大樹はあわてておどけた。

「大丈夫です。もう絶対敵にはならないんで。何があったって俺は先輩のファンだし、先輩の音だけが正解なんで」

だから俺が同じ世界に行くことを許して。

「それよりあの、連絡先交換していいですか」

安野は黙ってスマートフォンを出した。

「わ、やったぁ」

大樹が端末を抱きしめて喜ぶと、安野はいつもの澄ました表情に戻った。

「来月から海外に短期留学する。その間は連絡がつかないと思うが」
「海外……すげー」
「もう一回りは実力を伸ばしてこないとな。君にとって追いかけるに値する存在でいられるように」
「応援してます」

安野は呆れた目をした。

「フェアじゃないとは思わないのか。ぼくだけが充分に環境に恵まれていることが」
「それは先輩のせいじゃないんで。それで恨んだらさすがに八つ当たりっすよ」

安野は長いため息をついた。

「君は純情だな。……ぼくの家に中古のグランドピアノがある。進学のときに祝いで買った。あれでよければ留守中使っていい。ここからはかなり遠いが、休日なら」
「えっ、いいの」
「今度合鍵を送る。多少は公平にしてやりたい」

去り際に大きな手が大樹の髪を軽く撫でていった。

大樹はぽかんと口を開けた。三年前、予選大会での淡い記憶が一気に身体に戻ってくる。
そのあとどうやって家へ帰ったのか、よく覚えていない。あとで見直したら回しっぱなしだったビデオカメラが、「風呂入りたくねえ」とひとりつぶやく大樹を映し出していた。
いつもは数分の動画ばかり投稿している。編集をどうするか迷ったが、結局もったいなくなってほとんど弄らなかった。『中学の先輩と再会しました』という報告のようなタイトルと多少の字幕をつけた、地味な投稿だった。
いつもより反応が伸びていることに大樹が気づいたのは数日後だった。

「先輩うますぎん?」「最後で変な声出た」「先輩はほとんど動かなくて草」「先輩が指導した前と後で音が全然違う」

(先輩、人気だなー)

コメントにいいねを返しながら、大樹は誇らしく思う。「揺れる人覚醒してるじゃん」というコメントを見つけると大樹は思わず照れた。あ、わかります?
実は音楽教室でも褒められたばかりだった。普通科高校に入ってから伸び悩んで、同じコースの生徒たちと進度に差ができていたのだが、ここ数日はぐんと差が縮まった実感があった。何もかも調子いい。浮かれた気分が指をさらに軽くした。
安野の影響は思いもしないところにもあった。その日はいつものように父親の帰りが遅く、先に大樹と瑞乃で食事を済ませていた。

「そうだ。大樹くんの動画、観たよ」

皿を水切り籠に重ね、瑞乃は切り出した。大樹は固まった。
瑞乃の方からピアノの話をするのは初めてだ。何を言われるんだろう。もうピアノはやめて?
髪が逆立つかと思うほど戦慄している大樹の隣で、瑞乃は微笑んでいる。

「あの先輩の影響だったんだね、ピアノが好きなの」
「え、あ、えっと、そうなんですよ」

濡れた手を拭きながら大樹は愛想笑いする。

「あんな風に弾ける人見たことねえって憧れちゃって」

瑞乃さんの気に障ることを言ってしまいませんように。大樹は内心で一生懸命祈った。

「私、ずっと勘違いしてた。亡くなったお母さんのことが忘れられなくて弾いてるんだとばっかり」

この様子は大丈夫そう。大樹はほっとした。

「俺、死んだほうの母さんはよく知らないんですよ。亡くなったのは物心がつく前だったので」

自分の命と引き換えに大樹を産んでくれた人。だから感謝しなさいと何度も何度も父に言われてきた。寝る前に仏壇に手を合わせなさい、ありがとうと唱えなさい。 亡き母に感謝するたびに、自分さえ生まれなければよかったのかなという痛みがちらりと大樹の胸を走っていた。

「ピアノはずっとあんま好きじゃなくて……ほら俺、じっとしてるの苦手じゃないですか。安野先輩がいなかったらとっくにやめてたと思いますね」
「ピアノはお父さんに言われて始めたんだ?」
「はいはい、もちろん」
「そう」

瑞乃が置いたカトラリーが冷たい音を立てた。

「あんなに東京の音楽高校にこだわってたから、大樹くんが自発的に始めたんだと思ってた」
「先輩の進学先だったんすよねー。マジで行きたかった」

大樹は冗談めかして言った。

「ならどうして進学に反対したのかな、あのひと」

瑞乃は少し上の空で訊いた。

「母さんに気を使ったんだと思いますよ。母さんはピアノが嫌いなのに、俺だけピアノー、ピアノーって騒ぎ続けてるの、ね?空気読めよって感じじゃないですか」
「ほんとに好きなのは私じゃないのにね」
「母さん?」

瑞乃は固い表情をしている。

「もっと早く大樹くんと話すべきだった。亡くなったお母さんのことどう思ってるのか……私のことをどう思ってるのか、訊くのが怖かった。ごめんね」

瑞乃は蚊の鳴くような声で言った。大樹は困って頭を掻いた。

「あ、いや……俺もなるべく話題を避けてたんで、母さんのせいじゃないっていうか」
「ピアノ、嫌いじゃないよ。見るとつらくなるだけ。私は一生、由佳さんの代わりだって」

瑞乃はピアノをぼんやりと眺めた。

「あの人に買ってもらうお洋服、みんな由佳さんの好みなの。由佳さんと違う私になりたくて、髪を伸ばそうかなって言ったんだけど、そのままが絶対いいって……ごめん、大樹くんにする話じゃないのはわかってるんだけど」
「あからさまっすね」

レンジフードを拭きながら、大樹は顔をしかめた。誰かの代わりにされる痛みは大樹もよく知っている。

「もっと母さんのことは大事にしてるんだと……俺の父さんがすいません」
「謝らないで、大樹くんは何も悪いことしてないんだから」

瑞乃は苦笑した。

「私の方こそ、誤解しててごめんね。動画の概要欄、見たよ。音大に行きたいんだよね。次は味方するから」

大樹は驚いて手を止めた。

「あなたがあなたらしく生きられるように」

エプロンをほどく瑞乃は、瞳に静かな怒りを灯している。大樹は我に返ると、ぱんと両手を合わせた。

「ありがとうございます……!俺も母さんのイメチェンには全力で応援します!」
「何それ」

瑞乃は表情を緩め、笑った。
その日から、大樹は瑞乃に気を遣ってピアノを止めることがなくなった。
好きなだけ弾けるってこんなに楽しかったんだ。練習量が増えると自信が音に現れてくる。あと少しうまくなったら、先輩に近づける。そうしたら自分が好きになれそうな気がする。

「ただいま」
「おかえりなさい」

瑞乃の声に、大樹はピアノに向かったまま答える。瑞乃が悲しむ気配はもうない。

「大樹くん、終わったらでいいからちょっと見てくれる?」

代わりに、瑞乃は気恥ずかしそうに言った。ん、今日はどうしたんだろ。大樹が手を止めて振り返ると、思わずにっと笑顔になる。

「あっ、パーマかけたんですね、似合ってます」

几帳面に揃っていた長めのショートヘアはふんわりと巻いて、由佳のおもかげを優しく拒絶している。

「よかった。……お父さんには相談してないの。気に入ってくれるといいけど」

瑞乃は申し訳なさそうに言った。

「絶対大丈夫でしょ。これでなんか言ったら父さんが悪い」

その夜、大樹の父はたしかに何も言わなかった。
青ざめた顔をして妻の姿を見ただけで、黙ってテーブルにつく。瑞乃の姿を気に入っていないことは明らかだった。
瑞乃の目に浮かんでいたほんのりとした輝きは痛みに変わった。
やっぱり私は由佳さんの代わり。瑞乃の考えていることがわかってしまって、大樹は気の毒になる。
なんとかしねえと。そう思いながらも、いったいどう話せばいいのかわからない。父親が髪型を悪く言ったのならかばうこともできるが、かたくなに押し黙っているだけだ。
結局重苦しい雰囲気の食卓で、大樹ひとりが気を使ってへらへらしている。

「モップを逆さに持つでしょ、こうやってぶんぶん振ると俺になるんだって。実演してもらったけどたしかに俺だった。今度『俺』ってタイトルつけて動画でやってみようかな」

余計な一言だったのかもしれない。

「まだそんなことをしているのか。将来ピアノで食っていくわけでもないんだ、現実を見なさい」

父親は疲れた声で言った。

「え、いや、ピアノで食っていけたらそれがいいなって」

大樹は口ごもった。正直そこまで遠い未来のことは考えていなかったが、安野を追いかけるということはそうなるはずだ。

「大学は音大行きたいし」
「お前はまだそんな夢みたいなことを」
「あの、行かせてあげて」

瑞乃はおずおずと口を開いた。

「私も応援してるの。大樹くん才能あると思う」

父親は瑞乃と大樹とを交互に見て、箸を置いた。

「才能なんてあるもんか。この子は中学までピアノが嫌いだったんだ」

瑞乃は眉をひそめた。

「そんな言い方、大樹くんが」
「瑞乃、どういう風の吹き回しだ。大樹の肩ばかり持って。ピアノは苦手だっただろう」

父親は疑うような眼差しで、緩く巻いた髪を見た。瑞乃は弱々しく答えた。

「そうじゃないの」

父親はため息をついて酒のグラスを手に取った。

「とにかく今日は疲れてるんだよ。この話は終わりだ」

うわあ、最悪な方向に行った。大樹はしょんぼりと肩を落とした。俺が話題を間違えたせいだ。

「こんな気持ちになるなら、髪型なんて変えなければよかった」

父親が風呂に入っている間、瑞乃は部屋を片付けながらぽつりと言った。

「浮気でも疑われてるみたい。私は私になりたかっただけなのに」
「俺は父さんなんか気にしなくてもいいと思うけど……瑞乃さん、父さんのこと好きなんですもんね」
「そうよ、好き」

安野の顔がよぎる。あのひとに同じ拒絶の表情をされたら。想像するだけで大樹は恐ろしくなる。
瑞乃は話を変えるように、無理な笑みを浮かべた。

「大樹くんこそ、災難だったね。力になれなくてごめん。私が言ってもダメみたい」
「そんなこと」
「私じゃ、ダメみたい」

瑞乃はしばらくして髪をストレートに戻した。大樹は何も言えなかった。(2/11)


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