続・愛しの距離ナシ君②
二 再発
夢と現実の真ん中あたりでゆらゆらと浮き沈みしていた意識が浮上する。
目をこすると、俺は重い身体をなんとか起こした。
節々が痛い。ヘタレ男には愛を確かめ合う行為も体力的に厳しいものがある。
幸せで息が詰まっているのか酸欠で死にかけているのか、毎回自信がない。どっちでもあるのかもしれない。
カーテンの下からは闇が見え隠れしている。まだ深夜だ。
杉沢が寝ているうちに風呂に入らねえと。
汗くさくて汚れた身体で杉沢と朝を迎えるのは困る。
幻滅されたくない。杉沢が俺を好きでいるのは何かの間違いなのだから、少しでも長持ちさせなくては。
散らかったスウェットを掴み、そろりそろりとベッドを抜け出そうとして、
「よーくん、どこ行くの」
杉沢の腕が巻き付いてくる。
俺は仰天した。
「うそだろ、す、杉沢が寝てねぇ」
俺と暮らし始めてからの杉沢は、不眠が解消しすぎて過眠になっていた。
セックスのあとシャワーを浴びるとき、杉沢は決まって熟睡していたのに。
「具合悪い、とか? 大丈夫か……?」
「えへへ、捕まえた」
杉沢の頭が裸の背中につく。
ベッドから半分身体を乗り出して、俺が先に行くのを阻止している。
「いや、汚いから。シャワー浴びてくるだけだから、な?」
「いっしょに入ろっか?」
俺は慌てた。
「ごめんあの俺くたくたで死んじゃう明日も平日だしせっかくだけどほんと……ごめん……」
早口でまくしたて、杉沢の腕をかいくぐる。暗い部屋を手探りで出ると、風呂場によろよろと逃げ込む。
頭上の癖っ毛にシャワーの湯を浴びせて半分ほどにボリュームダウンさせながら、俺は長いため息をついた。
ああ、この体力のなさが恨めしい。もしかして断っちゃいけない場面だったんじゃないか。
いっしょに風呂に入るからといって、色っぽい展開になるとは限らない。
もしあれが杉沢の真剣なSOSだったらどうするんだ。常日頃から冗談と真剣の境目がほとんどない男じゃないか。
服を着て部屋に戻ると、案の定杉沢がすねている。
「よーくんに嫌われちゃった」
「嫌ってねえから」
ベッドに戻ったらすべすべとした背中とぶつかった。
「シャワー空いたから、入ったら? 服だけでも着なよ……」
「やーだ」
裸の杉沢が寝返りをうち、布団でくるむように俺に抱きついた。
俺の肉体が健全だったならまたしたくなってしまったかもしれないが、現実には頬を熱くする程度のエネルギーしか残っていなかった。
「ねー、寝かしつけて」
「眠れないのか」
「みたい」
俺は困惑しながら、おずおずと杉沢の頭を撫でた。
癖のない髪がかすかな音を立て、指をなめらかにすり抜けていく。
「いいね、これ」
「杉沢、ほんとに大丈夫か? なんかあったとか」
杉沢はしばらく何も答えなかった。
不安がゆっくりと育っていく。
セックスの前も杉沢は苦しそうにしていた。どうしよう、きっと何かあったんだ――
「杉沢?」
俺は恐る恐る顔を伺った。
俺に抱きつく杉沢の力が強くなる。
「聞かない方がいいよ、ほんと」
やっぱり何かあった。
聞かない方がいいことってなんだろう。俺が力になれないことなんだろうか。
「大丈夫だから。ちゃんと受け止めるから」
「暗い話だよ、大丈夫?」
俺が頷くと、杉沢は目を伏せたまま、悲しそうに笑った。
「お母さんがねー、ちょっと危ないみたいでさ。そんだけ」
ビンタされたような衝撃が走った。
「それだけって……重大じゃん」
二年にわたる昏睡状態に終わりが来るかもしれない。その意味が重くみぞおちに沈み込む。
『俺が心配だから現世に片足だけ残してんの? ふふ、いいね。そういうことにしとこっか』
そう言ってへらっと笑った杉沢がよぎる。
後悔が胸倉を掴んで乱暴に揺さぶってくる。
『もしかしたらお母さん、杉沢を心配してくれてるのかも』
そんな無責任なことをなんであんなに軽々しく言ってしまったんだろう。
杉沢のお母さんがもし亡くなってしまったら、もう杉沢を心配してくれていないことの証明になってしまう。
論理的には逆は真ではないが、これは論理の話ではなく感情の話だ。
どうしよう、どうすればいい、俺は。
「杉沢」
謝ろうとした俺を杉沢は遮った。
「よーくんは心配しないで。ね、今だけ忘れさせて?」
俺ははっと口をつぐんで、杉沢を撫でることに専念した。
自分の罪悪感に杉沢を付き合わせるわけにはいかない。
謝って自分が楽になりたいなんて勝手だ。
長いため息のあと、杉沢の呼吸音が規則正しくなっていく。
(俺はこいつに何をしてやれるんだろう)
友だちよりもずっと近い距離になったのに、この歯がゆさは変わらない。
この薄い身体に埋まった不安に俺の手は届かない。
考えているうちに眠ってしまったらしかった。
ミントの匂いのする、何かやわらかいものが唇に吸い付く。
(ん、なんだこれ)
目を開けると杉沢の顔が至近距離にある。
俺はぎょっとした。
「おはよー、よーくん」
キスで起こされたらしかった。汚い白雪姫である。
いや、それよりも。
「杉沢……の方が早起き!?」
天変地異だ。俺は飛び起きた。
はずみで杉沢のおでこに頭突きをしたが、おたがいに非力なせいかたいした衝撃はなかった。
「そういう朝があってもよくね?」
杉沢はにこにこしている。
よく見るといつの間にか服を着ている。
「いいけど……よくねえ。大丈夫かほんと」
「平気平気。コーヒー作ってあげる。よーくんは寝てて」
いつもと真逆である。
「いや、そんなんいいから! いつもみたいに寝ててくれ、心配だから!」
杉沢は俺を無視してゆらりとベッドから起き、キッチンに立った。
ちちちちとコンロに火をつける軽やかな音がする。杉沢の電気ケトルはこの前壊れてしまって、今は俺が引っ越しのときに持ってきたやかんが老体に鞭を打って代役を務めているのである。
薄い背中は少し横へ移動して、水切り籠の皿をせっせと拭きはじめる。
いつものように立ったまま半分寝ている杉沢がどこにもいない。
正真正銘の真人間である。
「いいってば。それ絶対具合悪いって」
俺は慌てて手伝いに行った。
「大丈夫だって。いつもさー、よーくんのことお母さん代わりにして甘えてんなって思って。反省?」
「そんなことねえだろ……俺だってバイトのある日はお前に甘えっぱなのに」
杉沢がひとりで家事をしているのを見ると心がざわざわする。
お母さんが倒れてから、ずっとお父さんのために料理を作っていたという杉沢の寂しい姿が見えるからだ。
誰かが杉沢を自由にしてやらないといけないんじゃないか。
そう思うのに俺は甘えてばかりいる。
「じゃあお互い様でいいじゃん。はーい、余計な心配しない」
じょぼじょぼという音とともにインスタントコーヒーの焦げ臭いにおいが広がる。
「でも朝ぐらいは」
「手を動かしてると気がまぎれるから」
杉沢はぽつりと小声で言った。
声にも言葉にもならない叫びが胸の奥で暴れる。
俺はぷるぷると唇を小刻みに振動させると、杉沢の背中に抱きついた。
こいつときたら。まったく、こいつときたら――
「よーくんどうしたの」
「愛情表現……」
「やったー」
くるりと身体が回り、いつの間にか正面の杉沢と抱き合っている。
「うれし」
なんでこいつはこんなので喜んでくれるんだろう。
なんで俺はこんなことしかできないんだろう。
杉沢の不眠は少しずつ悪化していった。
「セックスしたらさー、疲れて寝れるかも」
毎晩冗談めかしてそう笑うものだから、俺も体力がないだのという甘えたことは言えなくなってきた。
「相変わらず押しに弱いね。そんなんだから俺に付け込まれちゃうんだよ?」
杉沢はいたずらっぽく言って俺をベッドに横たえる。
「付け込んでなんて」
(ほんとに、いつ飽きるんだろう)
瞬きが惜しいほど幸せなのに、同時に胸が痛くてたまらない。
杉沢が正気に戻ったら俺はきっと終わりだ。だからこの依存を治してやろうともしない。
回数を重ねるたびに自分のメッキが剥がれていく気がしてならない。
幻想が解ける。価値がなくなる。俺の肉体なんてもとからマイナスなのに、これ以上価値が減ったらどうなる。
(飽きるのが今日じゃありませんように。明日でもありませんように)
すべてが終わると杉沢がふらりと立ち上がり、ゴムを捨てるのがぼんやりと見える。終わったあと特有の、表情の抜けた横顔だ。俺はわけもなく不安になる。
俺への愛情が一回ぶん終わって、またゴミ箱行きになった。酸欠のまま、脳みそがまたネガティブワードを生成しはじめる。
今だけはやめろ。幸せを汚すな。俺は言葉を追い出すように目を閉じた。
どれくらい経っただろう。はっと目を覚ますと、杉沢が俺の背中を撫でている。頭の下に何やらごろごろとした感触がある。
もしやこれ、杉沢の腕か。
正体に気づいた俺はいそいで身体を起こした。
愛する杉沢の腕が俺なんかの重みで痺れるのはよくない。
「ん? 腕枕、嫌い?」
「嫌いとかじゃない、けど、その」
「寝ちゃってたね。疲れさせちゃってごめんね?」
時計の針が黄緑に光っている。あれから三時間ほど経っている。
「お前、は……?」
俺は恐る恐る訊いた。
「よーくんのこと眺めてた。全然飽きないねー」
「寝てねえのかよ」
こんなのっぺりとした寝顔を三時間も見つめ続けて眠気が襲ってこないとは、相当重症のようだ。
「まずいだろ、それ……また睡眠外来行かなきゃ」
「うん。明日行ってみる。でもさ」
杉沢も身体を起こした。
「寂しくなかったよ。よーくんと出会う前よりずっと。楽しい夜更かし」
「ポジティブに言い換えすんな……もうお前のお父さんにも顔向けできねえ」
俺は顔を覆った。杉沢の不眠が俺のおかげで治ったと、あんなに喜んでいたのに。どうして俺は期待を裏切ってしまうんだろう。俺だからか。
「大丈夫だって。一時的なやつだと思うよ。よーくんのおかげで軽くて済んでる気がする」
「気のせいすぎる」
次の朝も、杉沢は昔の気だるい空気をまとっている。
「おはよ、よーくん。コーヒーあるよ」
コーヒーを作る係はすっかり杉沢になってしまった。自分のコーヒーカップを片手に、杉沢はシンクに寄りかかっている。
「ありがとう」
寝ぼけた頭で俺はカップを受け取った。
眠りが足りていないときの杉沢は消えそうな雰囲気が増して、ついでにどろっとした色気も出る。
うっかり見惚れている自分に気づいて、我に返る。
どういう神経だ。杉沢が苦しんでいるのに何を考えてるんだ俺は。
想像の中で自分のみぞおちにパンチを入れながら、インスタントコーヒーを煽る。
杉沢が弱れば弱るほど、俺を見捨てられなくなるんじゃないかとほっとしている自分がどこかにいる、そんな気がする。それが怖い。
なにせ杉沢が俺を好きになってくれた理由が、『自分と同じで家庭が暗かったから』だ。
杉沢はもともと俺と違って明るい人間だ。
杉沢がすっかり治ってしまえば杉沢との共通点はなくなる。俺を好きでいる理由もなくなる。
三人彼氏、暑苦しい部屋、リストラ、ひとりぼっちに戻る俺……
(ストップ)
俺は連想ゲームのしっぽを慌ててちょん切った。
なんで俺の脳みそは苦しみを錬成する場面だとよく働くんだろう。人前で喋るときはかちこちに硬直するくせに。
それも、全部俺のことばかりだ。
杉沢のことをいちばんに考えたい、つらい現実から守りたい。そう願う表の俺に隠れて、爆発ヘアの悪魔が俺の恐怖を煽っては杉沢の依存を喜んでいる。
(効果切れの安眠グッズのくせにな)
悪魔を黙らせるべく、別の不安をぶつけてみた。
結果は不安が倍になっただけだった。バカである。
その隣で、杉沢は何も言わずにぼんやりと宙を眺めている。
今どんな気持ちでコーヒーを飲んでいるんだろう、と別の苦しさがやってきて、俺の個人的な不安と交代する。
お母さんのことを考えているんだろうか。
そのつらさに、俺は本当に何もしてやれないんだろうか。
「杉沢、絶対幸せになってくれ」
マグカップに向かって俺はつぶやいた。
「もう幸せだって。よーくんがいるから」
本当は不安で仕方がないくせに、杉沢はうそくさく笑って、俺の肩に頭を預けてくる。冷たそうな朝の光がレースのカーテン越しに、窓からフローリングの床へとにじんで広がっている。
(幸せってなんだろうな)
杉沢の重みと体温を感じている今、確かに俺だけは幸せだ。
ずっとかちこちに干上がっていた心に、インスタントコーヒーと杉沢が隅々までしみ込んでいく。この少し粉っぽい味だって俺は一生忘れないだろう。
だが同時に、杉沢にとっての本当の幸せは、こんな俺と付き合い続けることではない気もしてしまう。
俺がいなくても眠れて、元気でいられる杉沢こそが正しい杉沢だ。
そしてそれを寂しいと感じるのはエゴだ。
「ん? よーくん、なんか難しく考えてる?」
杉沢は見透かしたように言った。俺はどきりとした。
「心配かけて、ごめんね?」
杉沢は真面目な顔になって俺の肩を抱き寄せた。
「謝らないでくれ……頼むから」
「ん。わかった。だからそばにいて。どこにも行かないで」
「どこにも行きたいわけないだろ」
俺はぼそりとつぶやいた。
ふたつのコーヒーカップが湯気を揺らしている。
講義の空きコマに杉沢は病院へ行った。俺はカフェテリアで勉強をしながら、そわそわと帰りを待つ……つもりだった。
『よーくんの顔が見えねえ 寂しい』
『病院ついた』
『待合室空いてるけど前の患者さん長』
『ねーしりとりする?』
ことあるごとに実況中継されているので寂しくもなんともない。
おかげで教科書の内容がさっぱり頭に入ってこない。それはいつもだが。
『子どもか』
『だって病院嫌い』
軽い気持ちでなだめていた俺は、画面に浮かんだメッセージを見て返事に詰まった。
何気ない顔をした『病院嫌い』という言葉に、杉沢の抱える重い事情がちらついた。
明るさを装ってはいるが、きっとお母さんのせいだ。
『今からでも付き添おうか』
俺は衝動的に送った。
『大丈夫 ちょっとよーくんに甘えたくなっただけ』
『でも』
『甘やかしすぎ お願いだから俺に気なんて使わないで 楽しくしてて』
いつぞやのペンギンがサンバの格好をして踊っているスタンプが流れてくる。
俺はうっと目頭をつまんだ。
『杉沢 それ逆効果』
『わざとかも』
『おい』
『うそうそ 呼ばれたから行くね』
当然そこで実況中継が止まった。
逆に勉強が手につかない。それもいつもだが。
杉沢中毒かもしれない。この程度の不在で不安になっているようでは困るのである。
なにせ俺はいつか杉沢に振られる覚悟を常に固めている必要がある人間だ。
振られたらこんな寂しさでは済まない。
(ほんとにそうなったら、事前に覚悟なんか決めてたって無駄だよな……どうしよう)
ひとりだと想像が悪い方に悪い方に転がっていく。
ついいつものように真っ暗になっていると、
「志麻」
誰かが背後から声をかけてきた。
人見知りの俺は小さく飛び上がった。
が、うしろにいたのが団藤だとわかると安心して椅子に尻が戻った。これが知らない人だったら宙に浮きっぱなしだっただろう。リニアモーターモヤシである。
「この世の終わりみてえな顔してどうしたんだ」
俺は杉沢の不眠再発について話した。
団藤は頭を掻いた。
「あー、朔から聞いてるわ、それ」
「ごめん団藤、俺力不足だった……」
「謝るな。お前がダメなら誰でもダメだ」
団藤はぶっきらぼうな表情を崩さずなぐさめてくる。相変わらずいいやつである。
「お前はもうちょっとしゃきっとしろ。うそでも自信を持て」
「無理……」
「朔のためでもか?」
「うっ」
俺は言葉に詰まった。それからうなだれた。
「俺だって変わらないととは思ってるんだけど、どうしたらいいか……」
「筋トレ」
「えっ」
突然現れた筋肉に俺はたじろいだ。
だが団藤はにこりともしない。
「サボってんだろ」
「えっと、その、はい」
「案外そういうのが響くんだよ。自分で決めたことだろ」
「ごめん……」
俺は輪をかけて小さくなった。
団藤は面倒くさそうな顔をした。
「あー、違う、俺は別に怒ってねえ。お前の親父が捕まってほっとしてた気持ちもわかるしな。ただそういうとこぐだぐだにしてるとメンタルに来る。これは実体験」
「うっ、はい……」
俺は蚊の鳴くような声で答えた。
団藤はため息をついた。
「今の俺、うぜえだろ」
「いや、そんなことは……親身になってくれててありがたいというか」
俺は早口で言った。もしかしてそんな顔をしていただろうか。
どうしよう、団藤ごめん。許して。
無意識に漏れた表情で父親を苛立たせ、殴られた記憶が思わずよみがえった。背中を冷たいものが走っている。
どうしてトラウマはちゃんと過去になってくれないんだろう。団藤は父親とは違って優しいと、頭ではわかっているのに。
「いいんだよ、うざくて」
団藤の声で我に返った。
「団藤うぜええええって叫びながら鍛えてみろ」
俺は拍子抜けした。ついでに背中を這っていた冷たい何かがどこかに吹っ飛んだ。
「何それ、やだよ」
「じゃあ、自分うぜええええでもいい。フラストレーションならなんだっていい。ぐだぐだ考えてるよりよっぽどいいぞ。俺も」
団藤は視線を床に落とし、ぼそりとつぶやいた。
「最近筋肉痛ひどくてさ」
ただの鍛えすぎ、というわけではないのは、団藤の浮かない表情でわかった。
「田中君の、こと?」
団藤は不愛想な顔に戻った。
「お前には関係ねえよ。人の心配してるぐらいなら朔の心配してやれ」
「……わかってる。ありがとう、団藤」
俺は手元のスマートフォンをじっと見つめた。杉沢から連絡はまだない。
診療中だったら邪魔をしてはいけないからと、しばらく俺からの連絡は控えていた。だが時間が経つにつれ、じわじわと言葉にならない不安が募ってくる。
どうしたんだろう。診療前の杉沢なら、あんなに何度も連絡をしてきていたのに。
『どうだった?』
さすがにこらえきれなくなってメッセージを送った。が、俺が大学を出るまで既読がつくことはなかった。
診察で何かあったんじゃないか。それとも家族のことか。
このまま永遠に戻ってこなかったらどうしよう。
現実的な心配とバカげた恐怖がゆっくりと交じり合って、どちらがどちらかわからなくなる。
電車のつり革につかまって、俺は返信の有無を確かめ続ける。何も変わりはなかった。
(こんなことなら、どこの病院か訊いておくべきだった)
普段が普段だけに、何かがあったとしか思えなかった。
すがるように端末を握りしめ、電車を降りて駅を出る。
(電話……でも、まだ病院だったら迷惑だよな)
一歩一歩がもどかしい。
(何時間か連絡がつかないだけで、こんなに不安になるものなのか)
気づけば暗くなった大通りを走りだしていた。通行人が何人かぎょっとしてこちらを振り向いた。自分でも驚いていた。
衝動に駆られて走るのは初めてだった。団藤の影響かもしれない。
(杉沢)
家に戻れば杉沢が待っていてくれているというわけでもない。どこにも走る理由はない。
杉沢が連絡を寄越さないのも、本当はなんでもない理由なのかもしれない。
そう自分に言い聞かせても、俺は止まれなかった。
じっとしていたら大きなものに飲み込まれてしまいそうだった。
耳が切れそうに冷たい空気の中、俺はもがくように走った。息が切れることで、うまく呼吸できないのをごまかせた。
(杉沢)
何があった。
連絡をしてくれないのはなぜだ。いつものように頼ってくれないのはどうしてだ。
病気がよっぽどひどいのか。それとも何か別のことか。
苦しんでいるなら助けを呼んでくれ。
俺にできることはないのか。何一つないのか。
(それとも急に俺が要らなくなったのか)
不安の正体が言葉になって、うしろから襲ってくる。
どうしようもなく杉沢が好きだ。こんなときに俺は当たり前のことを再確認して、ますます苦しくなる。
ところで、慣れない衝動に耐えられるほどの体力はないのが俺である。
「はっ……けほ、は、かはっ」
俺は必死に肺を動かし、咳き込んだ。これでは突然よたよたと走り出したかと思うと数百メートルで死にそうにばてた不審人物である。俺には団藤のような青春らしい青春は向かない。
みじめだった。
ひとりだったときには、もっと力がほしいなどという大それたことを願うことはなかった。俺は無力で当然、父親の暴力に怯えて震えることしかできないのが当たり前だった。そもそも願いなんて贅沢品を持つ余裕がなかった気もする。
杉沢と出会ってからの俺は、ないものねだりばかりだ。
俺には見合わないものを望んで、ほしがって、失うのを怖がって、今のままでは杉沢を守れないと苦しんでいる。
俺ではダメなのはわかっているのに、それでも杉沢を手放したくない。
(団藤みたいだったらよかったのに)
どんなときでも杉沢を支えてきた、あんな頼もしさは俺にはない。
だが団藤に今さら杉沢を渡す気にもなれない。
団藤は俺に対してもあんなにいい友だちで、優しくしてくれる。人のものを盗るような奴じゃない。それは理性ではわかっている。
すべては俺の自信のなさが見せる、百パーセントつなぎなし手ごねの幻影である。
それでも、まだ団藤と杉沢との近さを不安に思って、やきもちを妬いている自分がどこかにいる。
もしかして俺と杉沢が別れるのを待っているんじゃないか。早く田中君と付き合って安心させてくれないだろうか。追い払っても追い払っても、根拠のない疑いが頭の中で膨れ上がる。俺は内面まで醜い。
(だって、だって)
顔ににじんだ塩味の汁を袖口で拭う。汗だ、汗。でなければもっとみじめになってしまう。
(杉沢は……俺のだ……)
連絡が来ていてほしい。祈るようにスマートフォンを見た。
そのとき、手の中の端末が振動を始めた。
杉沢からだろうか。
思わずどきりとしたが、すぐに肩を落とした。番号の上に『団藤駿』と表示されている。
俺はのろのろと機械を耳にあてた。
「団藤、どうしたんだ」
少し不安定な電波の向こうで、団藤の声がした。
「朔の母親が亡くなったそうだ」
俺は目を見開いた。
大通りの騒音が遠のいていく。
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