続・愛しの距離ナシ君③
三 途中駅と終点 (杉沢視点)
涙は出てこなかった。代わりにひどく息苦しい。
お母さんが亡くなったと聞かされたのは、お母さんが入院していたのと同じ病院の睡眠外来にいるときだった。だから連絡をくれたお父さんより先に、お母さんと病室で対面した。
いつかはこういう日が来るかもしれないとわかっていたのに、いざ直面するとまるで現実感がなかった。
二年間自分をつないでいた管から自由になったお母さんは、ようやく楽になれたんだろうか。俺たち家族を置いて。
薄墨色をした霊安室のドアが重苦しく閉まっている。外の廊下で、葬儀社の人が来るのを待たせてもらっている。
お父さんが隣で号泣している。俺は黙ってその声を聞いている。
(ねえお母さん、見える? お父さん、ちゃんと愛してたみたいだよ)
もう何もかも遅いのに、俺は心の中でつぶやいた。
(お母さんが疑ってたようなことは現実じゃなかったんだ)
お父さんと幻想を比べて、お母さんは幻想を選んでしまった。
いっそお父さんの浮気が現実だったなら、気持ちの整理もついたかもしれない。
(よーくんに会いたい)
ここから今すぐ逃げ出して、あの薄くて硬い身体にすがりたい。か弱いくせに一生懸命生きているぬくもりがほしい。
会いに行かないとよーくんがどこかに消えてしまう。お母さんみたいに。そうに決まってる、そうだ、早く。
(ダメだっての)
立ち上がってしまわないように、自分の膝に爪を立てた。
(こんな状態でお父さんを置いていけない。……それに)
今よーくんに突撃していったら、きっとよーくんを壊してしまう。
ふだんはへらへらとしてごまかしているが、俺の心は病みきっている。お母さんを失ったことで、よーくんへの依存が強くならないわけがなかった。
遺伝という言葉がのしかかる。よーくんを愛しすぎて、俺がお母さんみたいに幻想に囚われたらどうしよう。
いや、もうなってるのかも。
無実のよーくんを疑って不安でたまらなくなるのはその前兆だ。きっとそうだ。
何件かよーくんからメッセージが届いているのは知っていたが、返事をしたら自分が自分でいられなくなりそうだった。
泣き崩れているお父さんを置き去りにして、よーくんのいる家に帰りたくなる。それだけならいい。
よーくんを束縛して、家から出さないで、一生閉じ込めておきたくなる。力づくでも身体をつなげて、俺から物理的に離れられないようにしたくなる。俺を見つめるしかなくなったよーくんはきっととんでもなくかわいい。見たい。
俺と同じレベルまでよーくんを壊したら、きっと俺に依存するしかなくなる。
壊れたよーくんと俺とで、ふたりきりの楽園で暮らせたらどんなに幸せだろう。よーくんを失うことへの不安もきっときれいに消えてくれる。そうもうひとりの俺がささやいている。
とにかく今はダメだ。ふだんだって、油断したらそんな衝動にさらわれそうになるのに。
俺はぼんやりとスマートフォンを親指で撫でた。
(そうだ、代わりに駿に連絡しようか)
駿なら田中君がいるから大丈夫。駿は俺には壊せない。壊したいとも思わない。
よーくんからのメッセージを見ないようにして、いそいで親友のアカウントを開く。
『お母さん死んじゃった お父さん泣きまくってる しばらくよーくんちに戻れないしどうしよ』
重い空気の中、じっと返事を待っている。画面にメッセージが現れると少しほっとした。
『なんて言えばいいかわかんねえ 大変だったな』
『よーくんに代わりに連絡入れてくれない? 今の俺じゃ無理そ』
しばらく間があった。
『それは直のほうがいいんじゃね 心配してるだろあいつも』
たしかによーくんはそういう子だ。胸が痛んだ。
『だから頼んでるんじゃん 俺あの子のこと好きすぎて頭おかしくなってんの 犯罪したくねー』
『あー ならまあ』
この説明で理解してくれるあたり、俺と駿との長い付き合いがよくわかる。俺がふだん駿からいかにメンヘラに見えているかもよくわかる。ほんとのことだから仕方ないけど。
『ありがとう 頼ってごめん』
『気にすんな 親友はこういうときに使うもんだ 話してて楽になるなら付き合うから』
『そろそろ葬儀社の人が来るからいい よーくんに連絡してあげて』
『わかった 何かあったらいつでも呼べ』
『うん』
画面を暗くして長い息をつく。
「大丈夫、お父さん?」
「すまない……朔、すまない」
様子を見る限りいっぱいいっぱいのようだ。
お父さんはこれから、母方のおじいちゃんとおばあちゃんに責められるんだろう。娘を死に追いやった「悪い」夫として。
だから俺がしっかりしていないといけない。俺だけでも味方になってあげないと。
(よーくん……俺頑張れるかな)
喪服の人が廊下の向こうからやってくる。
空いた始発電車に投げ出すように座って、ぼんやりと揺られる。重力に抗う力が残っていない。
怒り心頭のおじいちゃんおばあちゃんと葬儀の日程を擦り合わせるという、地獄のような時間が俺の精神力を鉛筆削りのようにゴリゴリ削いだ。結局孫の俺が電話口に立たないと何も話ができなかった。
まだ窓の外は闇に沈んでいる。
お父さんと別れたのはついさっきだった。
本当は俺もあのまま、お母さんが暮らしていたあの家に朝まで泊るべきだったのかもしれない。ひとりきりでお父さんをあの家に残した俺は、あまりいい息子ではない。
だが俺も限界だった。
(よーくん、怒ってるかな。ずっと無視しちゃったけど)
怖くて画面を見る勇気がまだなかった。もし怒りの言葉が並んでいたら立ち直れない。
(よーくんが本気で怒ったらどうなるんだろ)
虫も殺せないような気弱で優しい子だ。
そんな子が、俺を守ろうとして必死に虐待親と戦った。あのきれいな魂が、すんでのところで奪われそうになったのがいまだに怖かった。
何があってもとられたくない。
(そのよーくんを、この俺が傷つけてたら)
内心呻きながら、俺は天井を仰いだ。
恋人への連絡を駿に頼んでしまった後悔が今になってやってくる。
よーくんの反応を見るのが怖い。だがそれ以上に、今すぐにやり直したい衝動に駆られた。
よーくんをつなぎ留めたい。誤解があったら説明したい。手遅れになる前に。
完全に手遅れとなったお母さんという影がちらついた。すれ違いがどう人を追いつめるか、俺は知っている。
そうだ、今ならもうお父さんを支える息子の役割をしなくていい。よーくんに甘えるただの男に戻っていい。
(もうよーくんを壊す元気もねーもんな)
終わったんだ。少なくとも今夜は。
俺は目を閉じると、覚悟を決めた。
えい、と通知を親指で下ろし、よーくんのメッセージを見る。
『大丈夫? 団藤からお母さんのこと聞いた 俺じゃ力になれなくてごめん ほんとごめんな』
温かいものが胸から溢れて、目頭をつんと圧迫した。
よかった、怒ってなかった。
『よーくん ありがと ずっと話できなくてごめん もう終わったから帰るよ』
俺は鼻をすすって涙をごまかした。
『うん 待ってる 連絡きてほっとした ごめんな杉沢』
驚くほどすぐ返事が来た。ああ、起きて待っててくれたんだ。
ほっとしながらも、文面の最後に少し引っかかった。
『どうして謝るの』
返事が来るまで間があった。
『お母さんのこと無神経なこと言ったかもしれなくて ごめん今する話じゃないな どうしよう』
無神経なことを言われた記憶はなかった。
『なんのことかわかんねえけど よーくんは変なこと言ったことないよ』
『うん ごめん ごめんな』
小さな違和感が育っていた。理由なく謝るよーくんが不安でたまらなくなる。
(やっぱこれ、俺が傷つけたっぽくね……?)
身体を温めていた幸福感が冷えて氷に変わった。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
俺が頼る先を間違えたからだ。
パニックになった俺は弾かれたように身体を起こして、次に停まる駅を確かめた。あと二駅。
(早く帰んないと)
よーくんに――捨てられる。
ブラックホールより真っ暗な未来が目の前をよぎった。
『とにかく謝らないで 駿に連絡頼んだ俺がたぶん間違ってた 俺のこと嫌いにならないで お願い』
『間違ってねえ 杉沢が大変なときに俺は』
こういうとき、言葉はどうしてこんなに無力なんだろう。いつかよーくんが教えてくれた歯がゆさをそのまま実感していた。
途中駅で電車がご丁寧に止まった。誰も入ってこないドアが開いて再び閉じるのを、もどかしく眺める。今からでも急行になんねーかな。
『ごめんねよーくん 俺のこと嫌わないで 見捨てないで 頼むから』
すがるように指を走らせ、目を閉じて送信ボタンを押した。
お願い。お願いだから。
待つこと数秒。俺はこわごわと薄目を開けた。
画面に現れた文字は救いの光に似ていた。
『嫌いになるわけない こんな好きなのに』
俺はよーくんの返事に見惚れた。
(よかった。ほんとに……)
まだよーくんは俺のものだった。
魔法みたいに、不安はどこかへきれいに溶けていった。ほんと、単純な男。
代わりにまったく別の感情が俺を支配する。
これを打ち込んでくれたとき、よーくんはどんなにかわいかっただろう。
(会いてー……)
よーくんをどうにかしたい、ひとつになりたい、よーくんが俺のものだという実感がほしい。
結局どっちにしても電車が遅すぎるのは変わらなかった。
ようやく電車がゆっくりと速度を落として、駅に着いた。
俺はまるで命でも懸かっているかのように、固くスマートフォンを握りしめたままプラットフォームに降りた。
車の少ない大通りを抜け、街灯が頼りの暗い小道に入る。早朝の街は震えるほど寒いはずだが気にもならなかった。
マンションの一階につき、オートロックを開ける。ひどく呑気なエレベーターは天国に続いているのかもしれなかった。
俺の天国はいつもと同じ、単身者用マンションらしい扉で俺を迎えた。鍵をいそいで開け、
「ただいま」
俺は勢いよく部屋に入った。
目の前にはもこもこの頭をした、顔色の悪くてやせっぽちの天使がいた。
「おかえり」
あきらかにごめんと言いかけた口を、よーくんはつぐんだ。それからそっとつぶやいた。
「杉沢、戻ってきてくれて、ありがとう」
よーくんの目元は少し赤かった。泣いていたのをごまかしたんだろうなとすぐにわかった。
俺は一も二もなくよーくんを抱きしめた。
冷たい手を絡め、かすかなよーくんのぬくもりを必死に吸い取る。
「すき、よーくん、すきだよ……ああ、ダメだ、壊しちゃう、わかってんのに」
よーくんは俺の頬に薄い頬を預けた。それでようやく、自分の頬が濡れているのに気づいた。
「よーくんの人生めちゃくちゃにしちゃうって、今の俺じゃ我慢できないって、思って……よーくんからのチャット見たら帰りたくなっちゃうから……」
抱きしめる腕に力を込めた。
「今だってほんとは全部全部思い通りにしたい。ごめんねよーくん、怒っていいよ……俺を止めて……見捨てないで」
「怒るわけねえ……杉沢が思いつめてたって団藤からちゃんと聞いてる」
よーくんが涙声になる。
駿、ちゃんと伝えてくれてたんだ。俺はほっとした。
「俺が団藤みたいにもっと強かったらって、情けなくて……しかもそれをお前に見せて、心配させて、お前がつらい思いしてるときに俺は重荷になって」
ああ、この子の心はこんなにも俺でいっぱいだ。
よーくんが苦しんでいるのに、俺は歓喜で震えた。
「見せていい。よーくんが俺を思ってくれてる心がうれしい。それがどんだけ力になるか」
俺はよーくんの頬を両手で包んだ。俺の親指から指の隙間へ、よーくんの涙が滴った。
「思い通りにしたいならそれでもいい……杉沢のために、なるなら」
天使は泣きじゃくっている。
俺がよーくんをどうしたいかも知らないで。俺は泣きながら笑った。
「うれしいけど、ダメ。ちゃんと止めて……俺に後悔させないで、ね?」
よーくんはよくわかっていない顔で頷いた。なんてかわいいんだろう。
「ね、好きって言って。さっきのすごく効いた」
「好き、好きだ、杉沢……」
「ありがと」
涙が止まらなかった。さっきまでは涙なんて一滴も出なかったのに、甘えられる人のぬくもりがやさしく胸の蓋を溶かしていた。
「ねえ、悲しいよ、よーくん」
「うん」
「どうして時間って戻せないんだろうね」
「うん」
「でも、よーくんと出会う前に戻っちゃうのはいや。勝手だねー……」
笑おうとして失敗した。声がぷつぷつと切れて震える。
「勝手、だね……」
ああ、俺にはよーくんという人ができたからお母さんは死んじゃったのかも。
よーくんの肩に泣き崩れながら、そんな考えがよぎった。
俺が幸せになったからいけないんだろうか。それでも俺は目の前の幸せを手放すことができなくて、必死にすがっている。
よーくんがぎこちなく俺の背中を撫でる。
生まれたときからずっと、ちょうどよーくんが撫でている背中の真ん中に、深くて大きな穴が開いている感じがついて回っていた。これが埋まることはけっしてないと思っていた。
この孤独感は、よーくんに撫でてもらうためにここにあったのかもしれない。よーくんの優しさが俺の魂を直接撫でている気がした。
もう何も言葉が口から出てこなくなって、代わりに俺は号泣した。泣けないでいるよりずっとよかった。ちゃんと息ができる。
どのくらい経っただろう。よーくんはそっとつぶやいた。
「杉沢、ちょっと横になる? 今日は大学休むだろ」
「ん」
一大決心をするように、よーくんは息を吸った。何を言い出すんだろう、と一瞬不安になった。
「俺も休もうか。その、こういうときひとりはつらいかなって」
俺は安心して少し笑った。
そっか、よーくんは講義を休むのが怖いんだっけ。友だちに頼るのが苦手で、休んだ分を取り返せるか不安だから。もう冬休み前で消化試合になっている単元もあるのに。
「いいの?」
よーくんは頷いた。
「ありがと。じゃあ、甘えちゃおうかな。正直ひとりは耐えられねーから」
勇者よーくんを撫でる。
「寝られそうか、杉沢。着替え持ってこようか」
「これでいいよ」
よーくんは俺に布団をかけてくれる。
かわいい。ほしいな。よーくんがそういうつもりではないのはわかっているのに、疲れた男の身体が渇望している。
生きている感じがほしい。その優しさが身体のいちばん醜い場所にもほしい。不謹慎なのはわかっている。だが身体が熱くなるのはどうしようもなかった。
俺のためにいっしょにベッドに入ろうとする恋人のうしろ姿を見たら、もうダメだった。
お母さんが見てるかもしれない、こんなときに何考えてんの、よーくんに嫌われたくない、よーくんを壊したい俺が出てきてひどくしちゃったらどうすんの。
そう言って正しくいようとする俺が負けて、悪い俺だけになる。
そのまま俺はよーくんをベッドに縫い留めた。よーくんはびくりとして固まった。
「ごめんね、よーくん……拒まないで」
俺は懇願した。
「壊さないから……頑張って優しくするから」
乱暴にしたい自分の衝動に向かって言い聞かせた。よーくんは真っ赤になって、小さく頷いた。
いつの間にか目覚めていた街が、遠くでクラクションの音をさせている。
不規則に上げ下げしていたよーくんの胸がゆっくりと落ち着いていく。腕の中で恋人がかすかな寝息をたてはじめる。
壊さなくてよかった。
俺は静かに安堵しながら、よーくんを見つめた。
眠れなくなってよかったのは、こんな無防備なよーくんをしょっちゅう眺められるようになったことだ。
全身すみずみまで俺のものにされて、よーくんは安心して眠っている。
よーくんの中で甘い夢が続いていてくれるように、俺は布団をかけるとこっそりキスをした。
まだ事後の体温はおたがいに高く、暖房もあって暑いぐらいだ。
俺はそっとあくびをした。
そうだ、睡眠薬。処方箋どこやったっけ。お父さんの家かもしれない。
まあ、今はいいか。
俺は長いため息をついた。疲れが頭の芯をどろりと重くする。
久々にしっかりと眠れそうだった。
ああ、何もかも終わったからだ。
悲しみのうしろにほんの少しほっとした気持ちがあるのを、俺は認めたくなかった。
コメント