続・愛しの距離ナシ君④




四 フレンチトーストと約束



 杉沢が寝ている。

(うそ)

 首だけを横に曲げ、俺は目をこすった。
 杉沢が不眠に戻る前の時間軸にタイムワープをしたかと思った。
 何度見ても杉沢が寝ている。俺にしっかりと抱きつき、ゆっくりと呼吸をしている。
 まだ寝起きで頭の働かない俺は、単純にも有頂天になった。神様の存在をうっかり信じた。
 実は杉沢君が眠れたのはうちの神様のおかげなんですよ、などとささやく怪しげな勧誘が来たらほいほい入信してしまいそうだった。

(……でもこれ、お母さんのことで疲れただけなんだよな)

 ようやく機能しだした頭でそう気づくと、すぐに喜びはしゅるしゅると小さく縮んでいった。
 肉体と精神が疲れて休息をとっているだけだ。杉沢の悲しみが癒えたわけじゃない。

(お母さんを亡くした悲しさってどんな感じだろうな)

 ありがたいことに、俺はまだその感情を知らない。
それを知っていたら、ちゃんと杉沢の役に立てたんだろうか。

(きっと俺が知ってる何より悲しいんだろう)

 代われるものなら代わってやりたい。
 あの日病院で見た、目を見開いたまま天井を見つめていたあの女性が、亡くなった。その生々しい実感がようやくやってきた。俺は小さく身震いした。

(それなのに、昨日の俺、最悪だった……どうしよう)

 杉沢がいちばん支えを必要としているときに、俺は不安を見せてしまった。連絡が団藤から来たことへの動揺を悟られてしまった。
 杉沢は優しいから、俺を怒るどころか俺が不安にならないように甘やかしてくれた。
 ケアが必要なのは杉沢の方なのに、俺は。

(役立たずより悪い)

 どう改心したら杉沢の役に立つ存在になれるんだろう。無理か。役立たずが俺のキャラか。
 例のごとく自己嫌悪でぐるぐるしているさなかに、杉沢の寝顔が目に入る。
 その瞬間、俺は後悔を少し忘れた。
 苦しみも悲しみも、静かな眠りの波に隠れて息をひそめているように見えた。
 原因はどうあれ、こいつが今この瞬間休めている。それがどう考えてもいちばんだ。
 俺はそっとため息をついた。恋人のぬくもりが俺をゆっくりと正気にしていく。

(大学に連絡……は、いらないんだっけ……)

 出欠はQRコード管理されているからびくついていたが、大人数講義のときはどうやら誰も先生に連絡をしていないようだということに、ようやく最近になって気づいた。
 杉沢とその友人たちがいなければ、それすら気づかず大学の四年間を過ごしていたかもしれない。かなり恥ずかしい人だ。

(シャワー……まあ、いいか)

 俺が身じろぎをして起こしてしまったら一生後悔しそうである。
 俺の汚さで幻滅される恐れと杉沢を起こしてしまう恐れでは、起こしてしまう方に天秤がずんと傾いた。幻滅されたらそれはそのときのこと……いやだ幻滅しないで。俺は瞬時に前言を撤回した。

 天井を見つめて、俺は身体を動かさないことに専念した。
 気配を消すことにかけては大得意のはず。その特技を今発揮するときだ、志麻陽介。
 だがそのとき、

「っ……!」

急に引き攣った声をあげて杉沢が目を開いた。
 瞳孔の開いた杉沢と至近距離で目が合うこと一秒、二秒。

「どうした……?」

 恐る恐る尋ねると、杉沢の顔がゆっくりと笑顔に変わっていく。

「や、一瞬うなされちゃって。でもよーくんの顔で治った」

 こんなのっぺりとした顔面で治るんだろうか。
 かえって能面でも思い出してうなされるんじゃなかろうか。天然パーマの能面に襲われたらまあまあの悪夢だ。

「おはよ、よーくん」

 俺の唇にキスをして、杉沢はうーんと伸びをした。起きる気のようだ。
 俺は慌てて杉沢を押さえつけた。

「頼むからお前は寝てて」
「えー眠気飛んじゃった」
「そんな」

 こののっぺりとした顔面で眠気が飛んでしまうなんて、百害あって一利なしじゃないか。

「大丈夫、焦るのはかえって不眠によくないからねー」

 かえって杉沢に背中をさすられ、なだめられてしまった。

「それに今さらあの夢に戻りたくねーって、それだけだから」
「どんな夢見たんだ……?」

 聞いてしまってから、しまった、と思った。
 昨日の今日なのだから、お母さんに関連しているに違いないのに。
 ほら、見ろ。杉沢のにやにやした顔がみるみるうちに寂しそうになっていく。
 俺のせいだ、どうしよう――

「よーくんが死んじゃう夢」

 真面目な声で杉沢はつぶやいた。

「俺」

 俺は拍子抜けした。

「ん。夢の中でもこんな感じで横で寝てて」

 杉沢の指先が俺の前髪を弄ぶ。

「幸せだなって思って目を閉じてさ。ふと目を覚ましたらお母さんのいた病室のベッドに移動してて、えっ? て思って隣を見たらよーくんが冷たくなってんの。妙に生々しかった……ごめん、縁起でもないね」
「そんなことは」

 昨日のことがショックだったんだろう、だからそんな夢を。俺は何と声をかけていいかわからなくなる。

「よーくん繊細だから、いつか俺を置いて死んじゃうかもって……そんなのやだよ、絶対やだよ」

 杉沢は骨ばかりの、胸板というよりは洗濯板に近いものに耳をあてた。

「ちゃんと生きてる? 大丈夫? 急に死んじゃったりしない?」
「大丈夫だって……これでもギリ生きてるから……」
「なんか鼓動が小さい気がする」
「それはたぶんもともと……あ、そういえば」

 俺は慌てた。

「俺まだシャワー浴びてねえ」

 杉沢が顔を押し当てているのは、おそらくとても汗くさい胸板なのではないか。
 杉沢はぎゅっと俺の手を握った。

「行かないで。よーくんの匂い落ち着く。生きてる感じがする」
「うっ」

 俺はベッドを出ようともぞつくのをやめた。
 かなりの抵抗感はあるものの、杉沢が落ち着くというのなら仕方がない。汗くさい抱き枕業に徹するのみである。

「これ、いいね。みんなが学校行ってるときにさ、俺都合で大学お休みさせて、よーくんとこうやって裸でくっついてんの。俺のよーくんって感じ。あーもう大学行きたくねー、永遠に行きたくねー……明日は行くけど」

 途中まで非常に緊張して聞いていたが、最後の言葉でガリガリの抱き枕はほっと息をついた。
 さすがに学業と将来は大切だ。

「団藤とか、みんな心配してると思うよ」
「そだね。お父さんに余計な心配かけらんないし……あー、そういえば処方箋うちに忘れたんだっけ、取りに戻んないと」

 杉沢は心底面倒そうにぼやいた。

「俺が代わりに取ってこようか。杉沢は休んでなよ」

 杉沢の実家へは連れて行ってもらったことが何度かある。杉沢のお父さんにも恋人として紹介されているし、こんな俺でも処方箋を回収するぐらいはできそうである。

「ひとりで留守番無理……ね、それなら一緒に行こ」
「わかった」
「ありがと。よーくん優しいね」

 杉沢に褒められるとどうして深い場所が満たされるんだろう。
 抱き枕になったまま、ゆっくりと時間が流れていく。

「杉沢、腹減らないか」
「全然。でもそういや昨日の晩飯抜いちゃってたっけ、俺。飯よりよーくんがいいけど」

 胸の上で杉沢がぐりぐりと頬を押し付けてくる。

「まずいだろそれ……待ってて。なんか作ってくるから」
「じゃあ俺も起きる」
「あのな、気持ちはうれしい。けど今のお前は休むのが仕事だって」

 慌てて言うと、杉沢ははーいとつまらなそうに、だが素直に返事をしてどいてくれた。
 シャワーを大急ぎで浴びながら、何を作ろうか考える。恋人が昨日から何も食べていないのは一大事だ。
食欲がないなら、やわらかくて食べやすいものがいい。何かないか、何か。
 頭のタンスをひっくり返しているうちに、埃をかぶった何かが転がりだしてきた。
 そういえば昔風邪のとき、母さんがフレンチトーストを作ってくれたっけ。母は家庭的なタイプではなかったから、かなり珍しい事件だった。それが父の気に障って、またもや夫婦喧嘩の原因になったのだが。

『風邪なんて自業自得だろう』『俺が会社でこき使われてる間、こいつはのうのうと寝てただけじゃないか』『起こして働かせろ』

 あの、悪いけど今忙しいんで過去から出てこないでもらえますか。
 父親の声を黙らせつつ慌てて服を着た。フレンチトーストのレシピを調べながら台所へ移る。
 最初の工程に従って、卵液をどんぶりの中でかき混ぜる。その中にパンをひたしてしまってから、ここからが時間のかかる料理だということに気づいた。何やってんだ俺は。
 なかなか卵液を吸わないパンをやきもきしながら観察する。
 おいこら、しっかりしろ。杉沢のために一刻も早く吸いきれ。
 意味もなく上下をひっくり返し、それでも吸わないので慌てて検索し、レンジでチンする裏技を試すなどした結果、ようやくパンが芯までびしょびしょになった。俺はほっと息をついた。
 フライパンで軽く焼けば、それなりにもっともらしい匂いがしてくる。

「すまん杉沢、待たせた」

 焦げたほうは自分の席に並べ、俺は杉沢を呼んだ。

「んー、ありがと。今お父さんに連絡してたとこ」

 料理の間にシャワーと着替えを済ませてスマホを弄っていた杉沢は、ベッドから起き上がった。
 テーブルを見るとへらりと笑う。

「あれ、フレンチトースト。作り方、よーくん知ってたっけ」
「えっと、いや、消化によさそうなのって思って今調べて作ったんだけど……案外時間かかるって知らなくて、その」

 俺は言い訳がましく早口になった。
 杉沢の笑みが深くなる。

「俺のために考えてくれたんだ。ありがと、すごくうれしい」

 杉沢に喜んでもらえた。それだけで生まれてきてよかったと思ってしまう俺は、どこか変なのだろうか。

「えへへ、俺現金だから食欲出てきちゃった。おいしそ」

 杉沢は子どものような無邪気さで椅子に腰かけた。
 胸をいっぱいにして、俺も杉沢の向かいに座った。現実には薄っぺらのままの俺の胸は、気持ちの上ではいつか動画で見た求愛中のオオグンカンドリのようにぽんぽんに膨らんでいる。 
 少し焦げ目のついた黄色がフォークで一口大に切り分けられていく。
 フレンチトーストがゆっくりと杉沢の口に消えるさまに、俺は見惚れた。
 こんなきれいな生き物の一部に変わるなんて、なんと幸運なパンだろう。
 とびきりの肉でも頬張っているように、杉沢は目を閉じた。

「んー、旨い。涙出そう」
「オーバーすぎるだろ」
「いやほんとに……こういうお母さんだったらよかったのにね」

 俺ははっとした。杉沢はごまかすように笑った。

「ごめん、なんでもねーから」

 お母さんが入院してからずっと、いやその前も、杉沢はこういうものを作ってもらったことがないのかもしれない。
 もう少しお母さんの話を聞きたかったが、こらえた。
 杉沢はこれ以上踏み入れられたくなさそうに見えた。

「よーくんも、ほら冷めちゃう」
「あ、うん」

 何と言っていいかわからなくて、俺も焦げたほうをフォークで突き刺し、頬張った。
 少し苦いがレシピ通りに作ったおかげで悪くない。俺は少しほっとした。
 口の中で温かなパンがとろりとかたちをなくす。卵と牛乳の匂いが優しく通り抜けていく。

「あー、もったいねー、写真撮っとけばよかった。今からでもいいかな」
「そんなことしなくてもまた作るって」

 食べかけの皿に杉沢が端末をかざしている。

「だってさ、今が終わっちゃうの悲しいから」

 昨夜大きな大きな終わりを見届けた瞳が、寂しそうに細くなった。小さな沈黙の中、シャッターを切る機械音が響く。

「終わらないよ」

 俺は思わず言った。喉の音量調整を間違えたらしく妙に大きな声が出た。
 杉沢はびっくりした顔で画面から目を上げた。

「俺はちゃんといるから。ずっと今だから」

 杉沢はへらっと笑った。

「ん。約束」

 後片付けを終えると、俺たちは厚着をしてのんびりと家を出た。

「今さー、お母さんは葬儀社にいるから会えないよ」

 冬特有の濃い青空の下を歩きながら、杉沢はなんでもないことのように言った。

「家に戻してあげようかとも思ったんだけどね。お母さんの実家が、お母さんをお父さんのいる家に置いておきたくないって」
「そう……なんだ」

 お母さんが亡くなったあとも、遺族の複雑な感情は残ったまま、杉沢の薄い肩にのしかかっている。

「よーくんもお葬式来る? 無理じゃなかったら来てほしいけど……」

 俺は一瞬答えに詰まった。
 葬儀はバイトのある日曜日だ。店長が欠勤の許可をくれるだろうか。
 何より、俺に急なお休みをもらうなどという難しい交渉がそもそもできるだろうか。
 機嫌を損ねて怒鳴られたらどうしよう。拳……はさすがに飛んでこないとは思いたい。
 さまざまな種類の恐怖が鮮やかに浮かんでは消える。
 うちの店長は悪い人ではないと頭ではわかっている。だが長年の恐怖生活が俺を必要以上に臆病にしているのである。
 他人が全員暴力親父に見えてしまうのは大問題だ。重ねられた方はいい迷惑でしかない。

「……絶対行く」

 俺は意を決して答えた。
 いざとなったら辞めてしまえばいい。バイト先はほかにもあるが杉沢はひとりしかいない。
 スーパーでのバイトを辞めれば、元気すぎる呼び込み音楽の無限ループにうなされることもなくなる。様子のおかしいお客様が怒鳴るのにびくつくこともなくなるだろう。問題ない。問題ないってば。

「ほんとに大丈夫? ダメだったらいいよ?」

 杉沢が俺の顔を覗きこむ。
 まずい、悟られている。
「大丈夫……」
 杉沢を支えたいと思うくせに、俺はいつも自分のことで手いっぱいだ。だから杉沢に頼ってもらえないんだ。
 ああ、この思考パターンが問題なのもわかっているのに、俺は、俺は。
 落ち込みつつ電車に乗り、少し歩くと杉沢の実家が見えてくる。いつ見ても巨大で立派なマンションだ。
 こんな量販店の服で大丈夫だろうか。ドレスコードとかないだろうか。

「やあ志麻くん、いらっしゃい」

ドアを開けた杉沢のお父さんを見て、俺は驚いた。
 ひと月前とは別人のようだった。
 あんなにきれいに撫でつけられていた髪は乱れている。スーツではなく黒っぽいニットを着ているせいもあるが、一気に老けた様子だった。目の縁は赤い。

「こ、こ、このたびは」

 こういうときなんて言っていいかわからなかった俺はしゃっくりをするニワトリのようになった。申し訳ない。

「はい、朔、処方箋」
「うん、ありがと」
「お茶出すよ、上がりなさい。亡くなった妻も喜ぶよ」

 記憶より小さく見える背中を追って、俺たちは家に上がった。
 通されたリビングは前とまったく変わっていなかった。
 きれいに掃除された広い部屋だ。壁の家族写真には若い杉沢のお父さんとお母さん、子どもの杉沢が映っている。美人なお母さんだった。
 お母さんが違う風だったらよかったのに、と杉沢が願っていたことを俺は思い出していた。
 アイスが溶けたようないつもの緩んだ雰囲気をなくして、杉沢は静かにしている。

「こんなのしかないけど」

 杉沢のお父さんはペットボトルのお茶を出してくれた。
 俺はいや、あ、いえ、といった意味をなさない言葉をつぶやいてコップに中身を注いだ。あとになって、俺はお構いなくという常識的なフレーズを思い出した。遅い。遅すぎる。

「写真、ご覧になってましたね」

 杉沢のお父さんは腰を下ろすと、静かに言った。

「妻は、たった一回間違えてしまっただけなんです。その一回が」

 涙声になって言葉を失ったお父さんに、杉沢はなぐさめるようにあいまいに手を伸ばした。

「すみません、取り乱しました。陽介君、朔のことをお願いします。今の私は何もしてやれないから……どうか、私や妻ができなかったぶんを」

 杉沢のお父さんは泣き崩れている。
 俺はかける言葉が見つからなかった。
 俺の家にはなかった夫婦の愛情がここにはあった。神様はひどいことをする。

「泣かないで、お父さん。よーくんが困っちゃうでしょ」

 杉沢はあいまいに笑ってたしなめた。

「大丈夫、困ってない……杉沢は眠れなくなっちゃったけど。俺にできることなんてなさそうだけど」

 俺はお父さんに向き直った。こんな俺でも、頼ってもらえるなら。

「杉沢のために、できるかぎりのことをします。約束します」

 膝に置いた俺の手を、杉沢はぎゅっと握った。

「ごちそう様でした……えっと、失礼します」

 ぺこぺこしながら家を出ると、隣で杉沢はうーんと伸びをした。
 こわばっていた輪郭が溶けて、いつもの緩んだ杉沢に戻っていく。

「やっぱ実家息詰まるわー」

 杉沢が友だちとつるんでいた理由は、あの家にいたくなかったせいもあったんだな、とちらりと思う。
 俺にもその気持ちだけはわかる。
 友だちを作る能力がなかったから実行したくてもできなかっただけである。
杉沢は何か小さくつぶやいた。一回だけじゃなかったよ、と聞こえたが、気のせいだろうか。
俺が何か言う前に、杉沢はにこっと笑った。

「帰ろっか」
「……うん」

 本当は杉沢のお母さん、どんな人だったんだろう。そんなことを考えながら、帰りの電車に乗る。
 しばらく黙って揺られていた杉沢は、ふと思いついたように言った。

「ねー、次で降りよ」


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