続・愛しの距離ナシ君⑦
七 雪と坦々麺と長いお別れ
杉沢はやっぱり先に起きていて、ぼんやりと窓越しの真っ暗な空を見上げている。
「これさ、雪になっちゃう?」
「えっと、予報どうだっけ」
俺はスマートフォンに手を伸ばした。
「今夜はお通夜だから、どっちみちここには戻れないかも」
ベランダの柵に雨粒が跳ね返って軽い音を立てている。俺は手を止めて身体を起こした。
「うん。ゆっくりお別れしてきて……」
「ん」
「俺が手伝えることがあったら……今日はバイトあるけど明日なら」
「大丈夫だよ」
厚手のジャージを着こんだ薄い背中は、とてもそうは見えなかった。
「なんかあったら連絡してくれ……その、話聞くぐらいしか俺にはできないけど。全部自分で背負わないでいいから」
俺は衝動的に言った。
杉沢は俯いた。
「わかった。いっぱい心配かけてごめん。ダメだねー、俺」
「そんなこと」
「ほんというと、まだ自分のことあんま信じてねえけど。この前よりは覚悟決まってるから。全部投げ出してよーくんに会いに戻んないから」
杉沢は冗談めかして笑った。
いつも以上にうしろ髪を引かれながら、俺はバイトに出かけた。
そうだ、明日のお葬式のために黒いネクタイを買っておかないと。バイト先の洋品売り場にあった気がする。
休憩のたびにスマートフォンを確認する。夕方、杉沢から『ついたよ』と連絡があったが、忙しいのかそれからはしばらく途絶えた。
またこの前みたいに杉沢がつらい思いをしていたらどうしよう。
俺の心配性が発動する。しかしそんなものが発動したところで、今の俺が杉沢にできることはない。
「ほら、ぼさっとしない」
「すみません」
注意散漫になったのか、何度か先輩方(人工パーマの中年女性)から叱られただけとなってしまった。不甲斐ない。
買ったばかりのネクタイをリュックに忍ばせ、職場を出る。雨に雪が少し混じって、傘の上で重い音を立てている。
このぐらいならまだ電車は大丈夫だろうが、早く帰った方がよさそうだ。明日のこともある。
いそいで電車に乗り込み、スマートフォンを確かめるとようやく杉沢からメッセージが来ていた。
『やっぱ今夜は泊まりだわ しんど』
俺は唇を噛んだ。やっぱりか。
どうして杉沢ばかりが家族の事情を背負わないといけないんだろう。
『大丈夫か 無理するな』
こんな言葉しか送れない自分が情けない。
杉沢のいない真っ暗な部屋に戻る。
シャワーを浴びて着替えをすれば、芯まで冷えていた身体は多少温まった。
だが心配はつのるばかりだ。
静けさが悪い想像をかきたてる。働いているときのように気がまぎれることもない。
何も悪いことをしていない杉沢が怒鳴られていたらどうしよう。
杉沢を責める想像上の声に、俺を叱る先輩方の声が重なり、ついでに父親の罵声が過去の記憶からやってきて、脳内がひどい騒音となる。
俺は頭を抱えた。せめて父さんは黙ってほしい。
杉沢から返信があると、俺は飛びつくように読んだ。
『なんとか終わった 一旦葬儀場出て今お父さんの家に戻ってる あっちじゃ休めないし』
『大変だったな』
『うん でもよーくんがいないのは変わんない 寂しい 不安』
杉沢に頼ってもらえた。
俺はほっとした気持ちを抑えられなかった。
『寝付けるまで付き合うよ 俺も杉沢と話してたい』
杉沢と連絡がついて安心したのか、ちゃんと腹が減った。
返事を待ちながら、俺は古ぼけたやかんで湯を沸かした。かすかなガス火の音が響いて、静かな空気を温める。
『ありがと もうくたくた こういうときに限って寝らんないし』
『怒鳴られた?』
『お母さんの前だからそれはギリなかった でもお母さんの友だちみんな明らかお父さんに冷たくて』
『きついね』
『お父さん弱っちゃってるし挨拶とかお弁当の手配とか結構代打した すげえ忙しかった』
『そっか』
やかんがしゅうと音を立てている。
『俺だって落ち着いてお別れしたかった 明日はましだといいな』
俺はやりきれない気持ちになった。
杉沢が純粋に悲しむには世界が騒がしすぎる。
『やっぱり明日は朝から手伝いに行こうか 迷惑じゃなかったらだけど』
『うー よーくんのこと巻き込みたくねえ でもよーくんには会いたい どうしよ』
やかんの蓋がからからと踊っているが、気にも止めなかった。
今大事な話をしているんだ。噴きこぼれたかったら勝手にそこで噴いていろ。
『会おうよ』
お葬式というマナーと御法度の厳しい世界に怖気づく自分を黙らせ、俺は打ち込んだ。
俺自身が杉沢の不在に耐えられそうになかった。
『よーくんかっこいい でもやっぱ遠慮しとく うるさい親戚だから身内じゃないとなんか言ってきそう』
『ごめん』
振り絞った勇気は社会常識の壁にぶち当たって砕けた。
火が消えてしまったコンロのスイッチを止め、五徳の周りにあふれ出た湯を拭く。
この情けなさ、なんて俺らしいんだろう。
『謝んないで 言ってくれたのすげえうれしかった ほんとは会いたいよ』
支えどころか足手まといにしかならない俺に、杉沢は優しい。
『今何してんの せめていっしょにいる気分だけでも味わいたい』
杉沢は話題を変えた。
『カップ麺作ろうと思ってやかん噴きこぼしたところ びったびた』
俺は正直に答えた。
杉沢は笑うペンギンのスタンプを寄越した。杉沢に笑ってもらえたのなら俺がドジでよかった。
『あーでも俺の話で気を取られてたせいかも ごめんね』
『杉沢は関係ないって』
『でどれ食うの』
『決めてない』
『じゃああれにしよ ストッカーの上の方にある坦々麺 あれこの前夜食で食ってうまかったから いや深夜飯ブーストかかってたかもしんないけどね?』
やっぱり夜は眠れていないらしい。
蓋つきのストッカーを開け、杉沢が言っていた坦々麺を発見する。
『それにした そろそろ深夜飯だし』
『なら俺んときと条件同じだ おすすめ よーくんと俺の手作りごはんの次ぐらいにおすすめ』
作り方を見て、乾ききった麺に粉スープと湯をそそぐ。蓋に油の袋を載せろとあるのでおとなしく従う。
『これ夜食には重い気が』
『俺もめったにそんな悪いことしねえもん』
タイマーをセットする。
『あー今お父さんと親戚のおじさん隣の部屋にいるけど通話したすぎ ダメかな いっしょに食ってる感出したいじゃん』
『やだよ 食ってるところ動画で中継するの恥ずかしい』
『じゃあ代わりに何食ってるか実況して』
『まだ出来上がってねえ』
こうしていると本当に杉沢が部屋にいるようだった。離れているのに近い。
杉沢が距離感のおかしい男でよかった、とふいに思う。俺の頑固な孤独には杉沢でないとダメだ。
だからそのお返しに、俺も杉沢の孤独を少しでも和らげたい。
『それでもいいから なんでも喋って』
『箸持ってきた あと二分』
少しバカバカしいのを我慢して、俺は杉沢に実況する。
杉沢が過ごしているだろう沈痛な静寂を、俺のどうでもいいチャットで埋めてやる。
『できた』
所定の時間が経過したので、俺はそう杉沢に伝えた。
『どう?』
すする。
『うま』
『でしょ』
いつぞやのペンギンスタンプがいつぞやの自慢げな顔をして流れてくる。
杉沢おすすめのカップ麺は間違いなくうまかった。杉沢ブーストかもしれない。
食べ終わり、容器と箸を片付け、ベッドに入る。その後もだらだらと杉沢とチャットをしていた。
だがそこから意識がない。
アラームに叩き起こされ、俺は飛び起きた。時間を見て拍子抜けする。
バイトも葬儀の手伝いもないのだから、こんなに早く起きる必要はなかったのに。
もう少し寝るか。考えながら何気なくチャット画面に戻る。
『あれ返事来ない……もしかして寝落ち? おやすみ 今日はありがと また明日』
そんな杉沢のメッセージが最後となっている。
しまった、また俺が先に寝込んでしまった。杉沢をつらい現実に置き去りにしてしまった。
『ごめん気づいたら寝てた おはよう』
慌ててそう打ち込んでから、ふと送信するかどうかで悩む。
杉沢と一刻も早く言葉を交わしたい気持ちはあるのだが、通知で杉沢を起こしたくない。
(先に支度するか……)
スマートフォンを置き、カーテンを開ける。外はまだ薄暗い。
窓から見下ろすと、駐車場の車に雪がうっすらと積もっているのがぎりぎり見えた。地面は濡れている。
(雪、ひどくなくてよかった)
杉沢の負担が増えないのがいちばんだ。昨夜はみぞれで冷えた参列者の世話できっと大変だっただろう。
(昨日の朝、杉沢もここから空見てたっけ)
杉沢に倣って、俺も空を見上げてみた。まだ暗い空にじんわりと朝焼けの黄色が差している。
大きなくしゃみがひとつ。俺はぶるりと身体を震わせてカーテンを閉めた。寒い。貧弱の星に生まれた男に、冬の窓辺で感傷に浸るロマンチシズムは向かない。
食パンを焼かずに口へ詰め込み、義務的に朝食を終わらせる。それから壁際に積みあがった段ボールを崩す作業に入った。
この部屋に引っ越すときに持ち込んだ段ボールはいまだに荷解きされていない。
どれかに入学式で着た無難で地味なスーツが入っていたはず。
(あった……けど)
スーツのひどい折り皺に、俺は慌ててアイロンを取りに走った。
これではまずい。何より杉沢に『よれよれの背広で葬式に来た非常識な友人を持つ息子』という不名誉がかかる。
さいわい量販店のスーツは扱いやすかった。こんがりとおいしそうな焦げ目もなく、比較的まともなスーツとシャツができあがる。
段ボールを元通りに積み上げてから(この段ボールのオブジェを杉沢はなぜか気に入っている)、まだほかほかと温かい服に袖を通した。
(……似合ってねえ)
鏡の中でネクタイを結ぶ我が姿を見て顔をしかめた。いつもの裏起毛スウェットの方がはるかに似合っているのはどうしてだろう。
支度が済むと、杉沢にメッセージを送った。
昨日はごめん、大変だと思うけど応援してる、できることがあったら言って。
時間をかけてよく練ったわりには凡庸になった。俺だから仕方ない。
すべて終わると結構な時間になっていた。早起きしていなければアウトになるところだった。
家を出て、葬儀場へ向かう電車の中で杉沢からの返事を読む。
『うん もうすぐよーくんと会えるから頑張る』
すでに杉沢が消耗している気がして、俺は気が気でなくなる。こんなところでそわそわしたところで何にもならないのに。
葬儀場の前には喪服の人たちが歩いている。正面にいくつか白い看板が立っていて、そのひとつに『杉沢香苗儀葬儀式場』とある。
雰囲気に飲まれそうになりながら、なんとか中に入った。
コートと荷物を控室に置いてホールへ向かう。
受付に知らない人が座っている。俺の恐怖は最高潮に達している。俺は意味もなくネクタイを直した。
「このたびはご会葬いただきありがとうございます。お名前をご記入ください」
まごつきながらも何とか香典を渡し、案内された席につく。
内々の葬儀だと聞いていたが、ホールには三十人ほどの参列者がいた。
正面に遺影がある。家族写真で見たとおりのきれいな笑顔だ。杉沢は父親似だが、やはり目元は母親に似ている。
俺はなぜかぞくりとした。
杉沢本人は祭壇の前、通路の右側にお父さんと座っていた。
(よかった、杉沢生きてる)
俺は妙な安心をした。
そのうしろにいる難しい雰囲気を持った高齢の夫婦が、杉沢のお父さんを責めた例のおじいさんとおばあさんだろうか。おばあさんはすすり泣いている。
杉沢は俺に気づくとそっと席を立ち、こちらへ忍び足でやってきた。
ふだんから黒い髪に真っ黒な服を着て、いつもよりずっと青白い顔をしている。まるで人形になってしまったようだ。
「来てくれてありがと」
杉沢は俺の肩に手を載せ、耳打ちした。
「ほんと、ありがと」
肩に載った手に、すがるような力がこもる。
「大丈夫か、杉沢」
俺もささやき返した。
親族らしき人たちがこちらをじろりと見ている。とても好意的な視線とはいえない。
「なんとかね。顔が見られただけですげー安心した。ごめん、もう戻んなきゃ」
疲れた微笑みをほんのわずかに浮かべて、杉沢は去っていく。
葬儀が始まる。
棺、それから杉沢のお父さんが霊柩車に乗った。杉沢は遺影を持って俯いている。順番が来ると杉沢はこちらに視線だけを残して、後続の車に乗り込んだ。
車の列がゆっくりと火葬場へ出発していく。
これからどうしたらいいだろう。俺が来た意味はあったんだろうか。
控室に戻っていく人波に流されるようにして、俺ものろのろと屋内へ戻った。
万が一杉沢から呼ばれたときのために、スマートフォンの電源をつけておこうか。まだ早いか。迷いながら、人の少ない非常階段で冷えた手を温めている。
「見た? ほらお葬式の前、朔君が話してた子」
階段のそばを参列者がこそこそと話しながら通り過ぎていく。
俺は慌てて息を殺した。
「あれ、父親が犯罪して捕まってるのよ。そんなのわざわざあの子のお葬式に呼んで……世間体っていうものを考えないのかしら」
血縁の近い親戚は火葬場に行っているはずだから、この人は遠い親戚なのだろう。
今出たらまずい、こちらが悪者にされて終わるだけだ。
長年の危機感知センサーがそう警報を鳴らしている。
俺の父親が犯罪者なのは事実だ。今週はおばさん難の運勢だった。それだけだ。
「しかもね、姪っ子がいうには朔君、あれと付き合ってるんですって」
俺は固まった。
「付き合ってるって……まさかそういう意味で?」
まるでそれ自体が犯罪かのように、もうひとりが声を潜めている。
「らしいわよ。死んだ人のこと悪く言いたくはないけど、息子の育て方を間違えたわね、香苗さん。それとも杉沢の家がおかしいのかしら」
ぷつっと自分の中で何かが壊れた。
やり過ごすのが正解だと頭ではわかっている。だが、杉沢のことだけはどうしても我慢できなかった。
なんであいつが。あんなに苦しんでいるやつが。
どうして。
「あの」
俺は思わず飛び出して、ふたりを呼び止めた。
女性たちはびくりと肩をすくめた。
「あの、俺のことはどんだけ悪く言われてもいいんですけど、杉沢のことはやめてもらっていいですか……お母さんが亡くなったんです」
声の大きかった方が口をぱくぱくさせた。それから平静を取り戻した様子で言った。
「ならあなたがここへ出しゃばって来るべきじゃなかったわ。世間様に顔向けできないお家の子でしょう」
親について言われるとどうしようもない。
杉沢、ごめん。俺のせいで。
それでも。
「俺のことはそのとおりです、でも……天国の香苗さんはきっと、お葬式で息子さんのことを悪く言われたくないと思います」
「あなたのせいでしょう、すり替えないで」
女性の目がきっときつくなる。
俺はこの目をよく知っている。現実にはどんなに曲がっていても、自分だけが正しいと信じて疑わない目だ。
そしてこの目には、どんな正しさも届かない。杉沢や香苗さんがかわいそうだとはこれっぽっちも思わない。
胸が急に痛くなった。
そうか。杉沢がここ数日向き合ってきたのはこういう人たちだったのか。
「そうですね。帰ります。杉沢の迷惑にならないように……」
俺は小さくつぶやいて立ち去った。
父と重ねられていると知ったら、あのおばさんは怒るだろうな。そうぼんやりと思いながらネクタイをほどき、ダウンコートを着込む。
控室を出ると、雪のあとの空は悲しいほど澄んでいる。
家に戻って、かばんの中で丸まっていたネクタイを吊るした。しばらくお前に役目は来ないだろう。というか、来ないでほしい。そこで辛気臭い顔をしていつまでもぶら下がっていろ。
一気に疲れが出て、どさりとベッドに座り込む。
(俺と別れたら、杉沢があんな風に言われることもねえんだよな)
弱った心に、そんな自分の声が虚ろに響いた。
杉沢がつらい思いをしていたのは、半分は俺のせいだった。
不眠解消グッズにもならない俺のために、杉沢が身内に悪く言われている。そんなのは間違っている。
どう考えたって俺が杉沢のためにできる最善は、身を引くことだ。
犯罪者の息子と付き合った事実を、きれいさっぱりなかったことにする。
最初からわかっていたじゃないか。俺は杉沢と釣り合うはずがない。百円ショップの無人レジが壊れていてお釣りが百万円来たようなものだ。
俺が杉沢の恋人なのは運命のいたずらで、いつ失ったとしても文句は言えない。
(でも俺は……別れたくねえ……)
ダメだ、理性で考えろ、俺。
杉沢が幸せなのがいちばんだろう。
そう自分に言い聞かせても胸が苦しくなるだけだった。
(杉沢は今のところ俺といるのが幸せだ、そうだ……だから)
それを免罪符にしていいと思っているのか?
俺と付き合い続けるかぎり、杉沢は俺というレッテルを剥がせないのに?
天然パーマのレッテルはため息をつくと、似合わない背広を脱いだ。
着替え終わったが案外まだ早くて、時計を見ると午後一時を過ぎたところだ。
時計のガラス面に店長の顔がちらつく。これだったら午後はバイトに出られたんじゃないの、と、店長の声をした罪悪感が一瞬やってくる。
(でも杉沢、夜には戻ってくるって言ってたもんな……)
店長はすぐに宇宙のかなたへ消えた。店長、ごめん。
(ちゃんと待っててやらねえと)
お母さんとお別れしている今この瞬間も、杉沢はああいう人たちに囲まれている。
なんとかできないのか。なんであいつばっかり苦しまないといけないんだ。
杉沢が何か悪いことをしたというのか。
俺なんかと付き合っているせいなのか。香苗さんの死というやりきれない現実に誰かを責めたくなって、杉沢に八つ当たりしているだけじゃないのか。
『大人はいつもそうだった』
俺の中に住んでいる子どもの俺が、甲高くて細い声で訴えている。
ただそこに生まれただけなんだ。それだってあいつが選んだんじゃない。
(……飯、食うか)
俺はため息をひとつついて、立ち上がった。
こんなところで息まいていたところで、杉沢が救われるわけじゃない。
肉のたぐいを食うのは杉沢のお母さんに悪い気がして、また食パンの残りを口に押し込んだ。
今頃杉沢はどうしているだろう。煙になって空に昇っていく杉沢のお母さんは安らかだろうか。
そうだといい、と俺は思った。杉沢のために。
身に入らない勉強をして、だらだらと時間が経つのを待っている。しばらくするとスマートフォンに通知が来た。
『よーくん どうしてる?』
俺のことよりお前のことだろ。俺はほんのり可笑しくなる。
『家でお前のこと待ってる』
『ありがと すごく心強いわ でもごめんまだ結構かかるっぽい すぐ戻んねえと』
『俺のことは気にしないでくれ 自分とお母さんのことだけ気にして』
『優しいねよーくん 今ちょっと泣いちゃった 大好き』
胸がいっぱいになった。俺も、と送るのに少し時間がかかってしまった。
気づくと外が暗くなっている。もうこんな時間か。俺は夕飯を用意しようと、ノートパソコンを閉じて立ち上がった。
作ったところで、もしかしたら今夜杉沢は帰ってこないかもしれない。帰ってきたとしても、精進落としで満腹になっていて食べられないかもしれない。それでも何かしたかった。
炊飯器から米の炊けるいい匂いがしてくる。さっぱりうまくならない包丁さばきでぶつぶつとちくわを切っていると、ふいに玄関のドアノブが音を立てた。
俺とちくわは小さく飛び上がった。誰だ。
杉沢か、いや、そんなはずはない。
杉沢は今頃、親戚たちと会食をしているはずだ。だからこんなに早く帰ってくるわけ――
「ただいまー」
振り返ると杉沢が喪服のまま、へらっと笑っている。
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