続・愛しの距離ナシ君⑧




八 ボーダー 



「す、杉沢、どうして」
「ごめんね、よーくん」

 杉沢は狭い台所まで来て、俺に抱きついてくる。俺は目を白黒させた。

「あんなとこ連れてかなきゃよかった。バカだねー、俺」
「杉沢、だからなんで」
「よーくんは俺の大事な人だから、お母さんを見送ってほしかったってだけだったんだよ」
「お葬式は?」
「そんなん、もういいんだって。忘れよ?」

 杉沢は話を終わりにするように俺の顔を覗きこんだ。
 俺の胸に不安が募った。どうして杉沢ははぐらかしているんだ?

「だってまだ帰れないってさっき……」
「お母さんのお骨はお父さんが引き取ったよ。だから大丈夫。あの人たちのことなんか、もうよくね? 俺たちと関係ねーもん。話すだけでよーくんが汚れる」

 杉沢の声にわずかに怒気が混じった。
それでようやくわかった。

「俺のことで親戚と喧嘩になったんだ」

 俺はこわごわと小声で訊いた。

「そうなんだろ……?」

 杉沢は答えない。

「ダメだ、杉沢」

 杉沢は遮った。

「よーくんは心配しなくていいって。お父さんもよーくんのとこに帰っていいって言ってくれたから」

 俺は顔を覆った。

「俺のせいだ」
「よーくん?」
「俺がいなければ杉沢は親戚を失わなくて済んだんだ」
「よーくん、違うよ」

 杉沢は俺の顔から手をそっと剥がした。

「あの人たちはね、最初から俺の人生にいらなかったんだ」

 杉沢は笑顔のまま、すごく怒っている。

「お母さんが倒れてから顔もほとんど出さなかったのに、お父さんと俺を悪く言いたくてお葬式だけやってきた、そんな人たちだった。それだけじゃない。よりにもよって俺の目の前でよーくんのこと、あんな風に……許せねえ」

 杉沢は俺の手をぎゅっと握りこんだ。

「よーくんがいたから、俺はちゃんと怒れたんだよ」
「でも」

 一過性の俺のために、ずっと付き合っていくはずの親戚と喧嘩してしまうなんて間違っている。
 杉沢は人差し指で俺の唇を閉じた。

「なんも悪くねーよーくんと、なんかもう悪意ばっかの親戚と、俺がどっちとるべきかなんてわかりきってるじゃん」

 今杉沢と別れてやったら、手遅れにならずに済むかもしれない。
 それがわかっていながら、俺はどうしてもそれができなかった。
 人差し指が俺の唇を誘うようになぞる。
 こんなときでも男の身体はかっと熱くなる。

「よーくん真っ赤」

 杉沢の目が細くなる。

「心配しないで、このまま流されて」

 杉沢は有無を言わさない様子で黒いネクタイに手をかけている。

(ごめんなさい、杉沢のお母さん)


 息をするのがやっとの俺を残して、杉沢はベッドを抜け出していく。杉沢がシャワーを浴びる音をぼんやりと聞く。
 俺は頭を転がして窓に目をやった。
 まずい、カーテンが開けっ放しだ。やせぎす男のベッドシーンなんて誰も見ていないだろうし、見たくもないだろうが。
 暗い窓の向こう側で、どこか遠くの家が明かりをつけるのが見えた。
 俺は布団に潜って世界から隠れ、長いため息をついた。
 俺にも役目があったという安心感と、こんな日にこんな時間からしてしまった罪悪感で頭がぐるぐるする。俺が杉沢にできることがこれだけなのがまた情けない。
 次世代に遺伝子を残すという大義名分すら、俺には与えられていないのに。やっぱり親戚の方が正しかったんじゃないか。

「お風呂出たよ」

 布団の上から冷気と明かり、そして杉沢の顔が入ってきた。

「恥ずかしいの? かわい」
「いや、えっと、寒いだけで」

 言い訳をしていると杉沢の顔が消え、カーテンを閉める音が続いた。

「ほら大丈夫、出ておいで」

 こんな貧しさを具現化したようなボディに隠す意味なんてあるんだろうか。かえって恥ずかしい気持ちになりながら、俺はよろよろと風呂場に入っていく。
 人よりたくさんの水気を含む髪をタオルでこすりつつ、リビングに出ると杉沢が料理の続きをしている。
 俺は慌てて台所へ走った。正確には足をもつれさせた。

「ダメだって、俺が当番の日」
「いいのいいの、疲れさせちゃったし?」

 杉沢はいたずらっぽく笑っている。 

「だって俺が罪悪感でつらい、喧嘩の原因になって不謹慎なことして飯まで作ってもらって」
「親戚が変だったのは親戚のせいだし、さっきの不謹慎は完全に俺のせい。頭濡れてるじゃん。もうすぐできるよ?」

 俺は慌てて髪を乾かしに戻った。洗いっぱなしだとすぐに風邪を引くのである。 

「できたよ」

 俺の強力な癖毛があらかた元通りのボリュームに戻ってしまったところで、杉沢が洗面所にひょいと顔を出した。

「ありがとう……」

 礼を言うと杉沢はうれしそうににこっと笑った。
 杉沢がつらいときに俺は。毎度おなじみの自己嫌悪が口をついて出そうになって、ぐっとこらえた。俺の淀んだ内面を聞かせるのは杉沢にもっと悪い。
 杉沢と向かい合わせに座る。
 俺と杉沢の合作、ちくわの卵とじ丼は、後攻杉沢の貢献により大変おいしくできあがっていた。甘辛く黄色い幸福が俺の口へとろりと滑りこむ。
 杉沢はたくさんの重い荷物を背負っているのに、俺ばかり幸せにしてもらっている。俺というレッテルも確実に荷物のひとつだ。
 ありがたいのと同時に、ひどくうしろめたかった。
 幸せにしてくれるばかりじゃなくて、俺にも背負わせてほしかった。そうじゃないと釣り合っている気がしなかった。
 本当はなんにも悪いことをしていないこいつが苦しんでいる、間違った現実を力づくで捻じ曲げたかった。だがそうするにはあまりに俺は非力だ。
 だから、せめて俺にもその痛みを分けてほしい。そうして杉沢の痛みが減ったなら、正しくない現実に耐えるよりもずっと楽になれる気がした。俺の存在にも意味ができる。
 皿洗いをして戻ると、ベッドの上で杉沢がゲーム機を用意している。

「ねー遊ぼ?」

 お葬式のあった日に遊んでいいんだろうか、と一瞬思ったが、もう充分言い訳のつかないことをしたあとだなと思い直して、俺は杉沢の隣に座った。
 ゲームで杉沢の気が紛れるなら。
 冒険向きの音楽がにぎやかに鳴っている。昨日の夜の静けさとは大違いだ。何より杉沢の体温が伝わってくるところがいちばん違う。

「えっとこうでしょ、で、こう」

 指を動かしながら、杉沢は俺の肩に頭を預けてくる。疲れ切った俺の身体は激しく傾いだが、なんとかクッションに受け止めてもらった。

「あれ、待って……あは、死んだ。俺ざっこ」

 本人の語るとおり、杉沢は通常運転のへたくそさである。
 あらぬところへアバターを落下させておいて、そのたびに無邪気に笑っている。楽しいんだろうか。

「違うのにするか……?」

 俺だけたくさん勝たせてもらっているようで、内心俺は気が気ではない。

「いいじゃん、面白いし。こんなんよーくんに甘える口実だから」

 杉沢の腕が俺の腰に回る。

「口実なんてなくてもいいって」
「うれしいなー」

 杉沢は冗談を流すように軽く笑って、抱きついてくる。本気で受け止めてほしくて、俺は少し声を張り上げた。

「いや、ギブアンドテイクとか考えなくていいっていうか。その、俺との間、ならだけど。今の杉沢は全部テイクしていいんだって」
「ダーメ。俺がやだ。俺に搾取され続けるよーくんなんて見たくねー」
「搾取じゃねえよ」

 俺は俯いた。

「お前がすること全部好きなんだ、俺は……その、人前だとちょっと恥ずかしいだけで」

 杉沢は優しく笑った。

「だからそれがダメなんだって。一方的なのなんか許したら。前さ、暴走したら俺を止めてくれってお願いしたじゃん。覚えてる?」
「……うん」
「よーくんが思ってるより危ない人かもしれないんだよ、俺は」

 他人以上に自分のことを信用できない。そんな感覚は俺も知っていた。

「でも今杉沢がしてることは危なくねえだろ……? だから大丈夫だよ」

 杉沢を安心させたかった。

「そっか。……うん、そうかも」

 杉沢は微笑んだ。

「じゃあねー、膝枕して」
「う、うん」  

 俺はあぐらになる。木材のような感触の俺の太ももに、杉沢はごろりと寝転がる。寝心地はどう考えても最悪だろう。

「撫でて」
「うん」

 頭の下が痛いぶん、せめて頭の上だけでも心地よくしてやりたい。杉沢の額をできるだけ優しく触る。杉沢はふうとため息をついて力を抜いた。
 しばらく撫でていると、杉沢の長いまつげが少し濡れているのに気づいた。

「杉沢、もしかして泣いてる……?」 

 杉沢はまぶたに手をあてた。

「んー? あれだ、幸せすぎたかも」

 ごまかすように笑い飛ばす声は、軽く震えている。

「恥ずかしいから電気消そうかな。いい? まだ何かして遊ぶ?」
「大丈夫だよ」

 電気が消える。ベッドに横になると杉沢が抱きついてくる。

「よーくん、ずっとそばにいて」
「うん」
「絶対?」
「うん」

 濡れた頬を手で撫でながら、俺は時計の針が進むのを聞いている。
 杉沢が深く息を吸った。腕の力が緩む。
 この呼吸音は寝息だろうか。そうであってほしい。


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