バニーボーイは命令されたい 1.5




1.5



 すべては幸晴の声を聞いたせいだった。

 昨夜の俺は一気に目が覚めた。最初は夢かと思った。俺の――願望かと。

「ん……、ぅ……」

(うそだ、待ってよ)

 幸晴だってそういう気分になるときもあるだろう。もっと男の子っぽい声だったら、俺だってあんなに動揺はしなかった。聞かなかったふりをして布団をかぶり、やりすごしていたと思う。

 だがそれができなかった。

 壁越しに聞こえた幸晴の声は、まるでサブだった。

 「ふ……、っ……」

 砂糖のように甘くておいしそうな、かすかな声が届くたび鼓膜から震えが全身に回った。息を殺して物音を飲むように聞いていた。

 ついさっきまでは唯一無二の親友だったのに。ドムの欲求が急激に煮え立って噴きこぼれていく。

 支配したい、うんと恥ずかしくさせたい、縛り付けて、指一本動けなくして犯してやりたい。

 自分がこわかった。ドムのいちばん醜い欲が暴走していた。

(何、考えてんだ……幸晴はユージュアルじゃないか)

 俺が安心して過ごせる唯一の存在。あの無愛想な鎧の下に優しい心が埋まっているのを俺は知っている。俺のサブ恐怖症を知っているのも、カウンセラーを除けば幸晴だけだった。

 それなのに、俺は。

 一睡もできないまま朝になった。今の俺では顔を合わせるのも危ない。幸晴を起こさないように静かにキッチンに立った。

 何をしたらいいんだっけ。そうだ、幸晴に飯、作らないと。

 上の空で缶詰の肉をじゅうじゅうと焼いた。いっぱい食わさなきゃ。いっぱい。出会ったころのあいつはぼろぼろにささくれた爪をしていた。栄養状態が悪かったから。気づいたらマヨネーズを山盛りにかけていた。

 用意が終わると、うその書置きを残してそっと部屋を出た。サブ恐怖症の俺が、朝練のあるようなサークルなんて入れるわけないのに。

 幸晴にうそをついたのは初めてだ。ため息をつきながら、まだ街灯が頼りの暗い道をとぼとぼと歩いた。

 俺の父さんはふだんは家にいなかった。飴と鞭の落差がひどい人で、たまに家に来ると母さんを幼い俺の前で虐めた。だから理性を失ったドムが何をするかよく知っている。じきに自分もそうなる。

(そんなのダメだ)

 授業はいつも以上にするすると耳をすり抜けた。幸晴のことで頭がいっぱいだった。

 今まで幸晴に抱いていた友情も愛情も執着も、全部恋に似ていたことにようやく気づいた。出会ったときから守りたいと思っていた。あいつがそばにいると――自分のテリトリーにいると安心した。だから同居に持ち込んだ。今思うと、なんて自分勝手なんだろう。

 どんなに優しいふりをしても、好きな子を思い通りにしようとする怪獣が俺の中に住んでいる。いつでも暴れる機会を待っている。

(……そうだ。カウンセラーさんなら、なんとかしてくれるかも)

 そう思いついたのは四時限目の終わりだった。

 幸晴を壊さずに済むかもしれない。いても立ってもいられず、午後の授業を休んで病院へ行った。

「そのご友人はユージュアルで間違いない?」

 女性の先生はボールペンを揺らして訊いた。彼女もドムだ。

「高校時代ずっといっしょでしたが、測定の結果はいつもユージュアルでした」

 先生は紙の上でペンを滑らせた。

「なるほど。確定ではないけれど、ユージュアルの可能性が高いですね」

「ええ」

「そうなると、やはりあなた側の問題ね」

 先生の言い方は優しかったけれど、罪悪感で息が詰まった。

「グレアが不随意に漏れるということは、ドム性が過剰に働いているのは明らかよね。小津さんはサブ恐怖症で、日ごろから支配欲を過度に押さえ込んでいる。抑圧されたサブへの願望が、行き場を失って、ユージュアルのご友人に投影されてしまったのかも」

「治して、ください……あいつに何かしてしまったら、俺は」

「うーん、薬は出すけど」

 先生は白髪染めしたボブの頭を掻いている。

「正直ね、このままサブを避け続けてたら、良くならないの。ふだん願望を抑圧してるのが問題だから」

「えっ」

「いきなりパートナーを作れとは言わないけど……まあ、理想はそうね。ユージュアルの人に願望をぶつけてしまうよりは、ずっといいから」

 先生は言葉を濁すように言った。

「えっと、つまり、幸晴を襲わないためには、サブのパートナーを持たなくちゃいけない。そのためにはサブ恐怖症を治さないといけない……ってことですか」

「いけないってわけじゃない。でも完全に不安をなくすためには、その道筋しかないと思う。どんな状態を目指すかはあなた次第だけど」

 結局問題は根本のところに戻ってきてしまった。俺はうなだれた。

「今日から少しずつ慣れる訓練をしましょう。うちのサブ専門の相談医や看護師にはサブがいますから、まずはその人たちと話して」

「ひっ」

 思わず青ざめた俺に向かって先生はにっこりと笑った。

「大丈夫、あなたは彼らに危害を加えられない。私もいる。リラーックス」

 薬を飲んだ状態でリハビリ室に通されてしまった。

 目の前にサブの先生方がふたり、並んで座っている。

 木調の内装、温かな色合いの照明、観葉植物。優しい雰囲気は患者を落ち着かせるためだろう。が、残念ながら効き目はなかった。むしろこんなにまでしてもらったのに、ちっとも効果がなかったことに追い詰められていく。

(幸晴のためだ、我慢、我慢……)

 ふたりとも首輪をつけている。どちらもパートナーがいる人たちだとわかった。襲ってしまうおそれは少ない。そう頭でわかっていても身体は言うことを聞かない。俺の手は机の上でおもちゃのように震えた。

「あのね、力むと逆効果だからね」

 がちがちになった俺の隣で、先生が困ったように笑っていた。



 そうして自己嫌悪たっぷりに家に帰って、結果を幸晴に報告して――今にいたる。

 まるで悪夢を見ているようだ。

「ごめんなさい、許してくれ……ゆる、して」

 そう泣きじゃくりながら俺の足にすがる幸晴を、俺は呆然と見下ろしている。

 なんだ、これ。俺はいったい何をした?

「拓馬、ゆるして……」

 幸晴の呼吸が荒く苦しげになっていく。俺がよく知るサブの姿をして、足元の幸晴は震えていた。

 怒りと興奮が一気に混乱に変わる。サブドロップした母さんの姿が幸晴に重なる。俺がこの世でいちばん恐れるもの。

 どうしよう、どうすればいい。

 パニックが心臓を掴む。俺と幸晴を中心にして世界が高速で回転する。吐き気がこみ上げる。

 俺がいちばん守りたかった人を、俺はこんなに傷つけた――

「幸晴、ごめん、ごめん」

 気づけば幸晴の身体を抱きしめていた。

 腕の中で痩せた身体ががたがたと振動する。必死に背中を撫でていると、幸晴の呼吸が少しずつ落ち着いてくる。

 よかった、収まった。安堵の涙がじわりと下まつげにたまった、そのときだった。

「な……これじゃ、いっしょに暮らすのは、無理、だろ」

 幸晴が掠れた声で言った。俺は目を見開いた。

「わかれよ、拓馬」

 幸晴の声はいつになく優しく響いた。裏腹に、言葉の意味が鉄球のように重く沈み込む。

 俺はゆっくりと腕を解いた。

 何を思い上がっていたんだろう。こんなことをしておいて、幸晴が許してくれるわけないじゃないか。

「ほんとに、ごめ……」

 遮るように幸晴は俺の胸を押した。どんなにつらいときでもからりと乾いていた幸晴の吊り目が、今は赤く潤んでいる。頬には涙の筋があった。

「もういいから。行ってくれ。これ以上、間違いが起きる前に……」

 弾かれるように立ち上がり、よろよろと和室を出た。どう歩いているのか自分でもわからない。

 そっと戸を閉めると静寂が俺を責めた。

(幸晴がサブ……)

 そうはっきり言われたわけではなかったが、あの様子なら間違いはない。ここにきてようやく情報が脳みそに届いた。

 苦痛とともに興奮が身体を震わせた。

 何を迷うことがある。あいつがユージュアルじゃないのなら遠慮なくあいつをパートナーにできるし、支配できる。誰かに先を越される前に契約しろ。逃げられる前にめちゃくちゃにしろ――怪獣は延々と騒いでいる。

(黙れ)

 爪の痛みで怪獣を黙らせようと、俺は拳を握りしめた。 

(またあいつを泣かせるつもりか……!)

 俺はもともとドムとしての性質が強いのだと先生は言っていた。だからコントロールが難しい。このままふたりきりでいたら、何をしてしまうかわからない。

 さっきより恐ろしいことをしてしまったら?

(それだけはダメだ)

 俺が親友に唯一してやれるのは、最後の夕飯を作ってやることだけ。そして出ていくあいつを止めないことだけ――

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