バニーボーイは命令されたい 2
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「大宮(おおみや)幸晴、です……よろしくお願いします」
机の上に林立するウサギ耳のカチューシャ。壁にかかった黒い衣装。事務室なのに酒の匂いがぷんぷんする。
(ひえ)
俺は完全に雰囲気にのまれていた。もしかしたらとんでもないところに足を踏み入れてしまったのかもしれない。
よく確かめないまま滝本支部長経由で応募したが、どう見ても『クラブ・ラビットパレス』は夜の店だった。
(ドムへの接客って、そういうやつか)
何が全サブ連だ。もっともらしいのは名前だけで、実態は夜職のあっせん屋じゃねえか。俺は内心滝本を呪った。
すらりとしたスーツの男性がパイプ椅子に座って脚を揺らしている。ワイシャツの襟にはつややかな黒革の首輪が覗く。
「滝本くんの紹介の子よね」
完璧な美男の喉から、低い声と女性的な言葉遣いが飛び出した。俺は床から数センチ飛び上がった。まるで吹き替え映画だ。
「えっと、はい」
完全に気圧されながら、手で示された椅子に座る。
「写真はもらってたけど、君、かなり吊り目ねぇ。うちは雇ってこなかったタイプだわ」
遠回しに不採用と言われているんだろうか。
「あとちょっと無愛想」
「すみません」
俺はぼそっと言った。
「ま、緊張もあるかしらね」
それはあんたのせいだ。とは言えない。ただでさえ面接は緊張するのに、面接官のキャラが濃いことで動揺が加わっている。
「立ってみて。回って。くるんって。うん、スタイルは悪くないわね。笑って? ふふ、へったくそね」
もとからあまり発達していなかった俺の表情筋が、ぴくぴくとひきつった。
「ま、変わり種としてはいいかしら。こういう生意気っぽいのを従える需要も、なくはないのよね」
皿洗いとしての採用という線はこれで消えた。まあ、皿洗いではあんな時給はくれないだろうが。
「うん。採用してみるわ」
「……ありがとうございます」
意を決して、俺は答えた。
どう逆立ちしたって俺はサブだ。眼中にもなかった同居人が勝手に服従してくるなんて、治療中の拓馬にとってこんな迷惑な話があるだろうか。これ以上あいつが自責の念でぐちゃぐちゃになる前に、離れてやりたい。
だから俺に残された道はこれだけだ。
「だいたいキャバクラみたいな業務内容よ。軽ーい命令プレイがあるだけ。店の品格にかかわるから、どんなに命令されても服は脱いじゃダメ。あとキャストに怪我が出る命令はお断りしてるわ」
業務内容はそこまでハードではない様子で、俺はほっとした。
「最初は見習いだから時給制。一週間で歩合制に切り替え。寮費は給料から天引き。売上が出ないと貧乏するから頑張ってね」
契約書をこちらに滑らせながら、店長はひんやりと微笑む。
え、という声を必死に飲み込む。いや、聞いていないのだが。あの魅力的な時給はどこへ行った。
不退転の決意がぐらぐら揺らいでいく。
「あと毎月の売上ノルマね。達成できないとペナルティ分を給料から引くわ。三回達成できなかったら契約終了」
達成できる気がしない。背中に嫌な汗がだらだら流れた。
「でも新人だから今月はノルマ免除よ。優しいでしょ」
店長は有無を言わさぬ笑顔で言った。
「はあ、ありがとうございます……」
「サイン」
「はい……」
言われるまま自分の名前を書きなぐる。もうやけくそだ。滝本なんかを信じた俺が馬鹿だった。
「浅野くん。新人よ、面倒見てあげて」
ドアの向こうに店長が声をかける。
「はい」
モルモットに似た顔立ちのおとなしそうな男がモップを片手に事務室に入ってきた。顔が顔だけにウサギ耳は似合っているが、ぱっとしない雰囲気だ。
「大宮です……えっと、よろしくお願いします」
先輩は頷いた。
「着替えて。ロッカーはそこ。店長、衣装は?」
「Sサイズでいいと思うわ。そこに掛かってるから」
店長が顎で示した方角から適切なものを探す。
「これすか」
よく見ると尻の部分に丸いしっぽがついている。履くとその部分がごろごろして居心地が悪くなる。その感触のせいで、拓馬のことを考えながらうしろを弄った記憶が背筋をのぼってくる。俺はあわてて邪念を振り払った。
すべて着替えて振り返ると、モルモット先輩はカチューシャを手にして待っている。
(うわあ)
内心げんなりしながら、俺は忌むべき物体をおそるおそる頭にかぶった。
その瞬間、店長が噴き出したのを俺は聞き逃さなかった。
どんな見た目だ。俺は鏡を見た。
まず言葉をなくした。そして笑いともつかない乾いたエネルギーが口からぶふっと飛び出した。
「じゃあまずは掃除から手伝って」
先輩は表情ひとつ変えない。常識とずれているのか、平常心が並外れているのか、俺にまったく興味がないか、そのどれなんだろう。考えながら俺は掃除用具を取り出した。
フロアに入ると、赤と黒とガラスの世界が開店前の薄暗闇に沈んでいる。
鏡がいくつも壁に貼られていて、部屋を実際より広く見せている。カウンターの向こうには酒瓶が並ぶ。テーブルは全部で十。L字型の赤いソファがテーブルまわりを囲んでいる。テーブルどうしは離れている。
部屋の中央には一段上がった丸いスペースがある。ステージだろうか。天井に金属製の輪のようなものが見えるのが不穏だ。
「シャンデリアはガラス用クロスでそっと拭いて、鏡はこれでスプレーして磨く」
先輩はスプレー缶を振ってみせた。
「床はほうきで掃いてからモップ。ほこりが残ってるとコマンドを受けるときお尻が汚れてみっともないから、念入りに」
(そうだ、そういう店だった)
俺の背筋をぴりりとした緊張が走る。まともに命令されたこともない男が本当に務まるのか。
「浅野先輩はここに何年勤めてんですか」
手を動かしながら、なんとなく訊いた。あっさりとした顔立ちは年齢不詳で、俺と同じぐらいにも、三十ぐらいにも見える。
「五年」
「長いっすね」
「歴だけはね」
自嘲するように言うが、ノルマを五年も乗り越えてきたのだと思うと意外にもなる。それだけの魅力がこのぼんやりした雰囲気の男にあるということなんだろうか。
「あの、ノルマ全然こなせる気がしないんですけど……歩合制とか聞いてなかったし」
俺は思わずぼやいた。
「這いあがりたいと思う気持ちがないと、ドムのお客様に飲まれるよ。店長の受け売りだけど」
「飲まれる」
「ぼくら、ドム様のご命令には逆らえない究極の弱者だから。それを武器にして商売するのは甘くない」
へえ、と気の抜けた返事をして、市松模様の床を磨く作業を続ける。
「たいていすぐ辞めてくよ、パートナー作って。風俗に流れてく子もいるけど」
心臓が嫌な音を立てた。金は好きだが、そこまでの勇気はない。
「君も一年もたないって予言しとくね」
先輩は表情ひとつ変えずに言い放った。穏やかな見た目に反する突然の強烈ストレートパンチに、俺はショックを隠せなかった。
「マジすか」
やっぱりノルマをこなせそうにない面構えだということか。そうか。もとから乏しい自信がこぽっと音を立てて心の排水溝から流れ出す。
「長くもつ方が幸せとは限らないよ」
抑揚のない声で先輩は言った。
衝撃から抜け出せないまま無言で掃除を続けていると、事務室の方に人の気配が増えてくる。横を見れば、カウンターの向こうにバーテンダーが立ったところだ。後方の入口ではドムの黒服がじゃらじゃらと音を立て、釣銭の補充をしている様子だった。
「あと三十分で開店。急いで」
浅野先輩が言った瞬間、シャンデリアが灯った。バケツを片手に眩しさに目を細めていると、同じぐらいきらびやかな男が部屋に入ってきた。堂々たるウサギ耳、プラチナブロンドに染めたつややかな髪、店長と同じぐらい完璧な美貌。
「クリスさん。うちの看板のひとり。ご挨拶しときな」
浅野先輩はささやいた。
「えっと、新人の大宮です、よろしくお願いします」
挨拶をしても、クリスとやらは一瞥すらくれない。なんだ、あいつ。
「最近追い上げられてて気が立ってるんだ、気にしないで」
浅野先輩がこそっと耳打ちする。
つづいて別の輝きがフロアに入った。こちらは黒髪で、明らかに唇に紅を引いている。同じサブでもぞくりとするような雰囲気だ。
「ウィルさん。やっぱり看板」
こちらも挨拶したが、聞いてもいない様子で首輪を調整している。
「引き立て役には目もくれないんすね」
ぼそりと自嘲すると浅野先輩は頷く。
「ぼくなんか五年ずっとこうだから、慣れちゃった」
「あの……ウィルとかクリスとか、本名じゃないですよね」
「当たり前でしょ」
顔に似合ったものすごいキラキラネームというわけではなかった。
「そうだ、ぼくのことも営業中は浅野って呼ばないこと。トールって呼んで」
トの部分にアクセントを置いて先輩は言った。
「えっと、俺もそういうのいるんですかね」
浅野先輩の顔に初めて感情らしきものが浮かんだ。
「まだ源氏名もらってないの。まずいじゃん。てーんちょう、こいつに名前つけてあげて」
浅野先輩が事務室に駆けていく。俺もよたよたと掃除用具を抱えて事務室に戻った。
「やだぁ忘れてたわ。そうねぇ」
店長は目をぐるりと一周させた。
「銀次」
急に和かよ。がらんがらんとロッカーの中でバケツが間抜けに音を立てた。
「カタカナ横文字って感じじゃないのよね、大宮君の顔」
まあ、その通りだが。
「よかったね、営業時間に間に合って」
笑うでもなく、表情の乏しい顔に戻って浅野先輩……否、トール先輩は言った。
「接客教えるからフロアに戻って、銀次」
「はあ」
今日からこの凶悪な目つきのウサギは銀次と呼ばれるらしい。
接客を一通り習うにはあまりに時間がなかった。指導が終わり切らないうちに、緊張の開店時間がやってきてしまった。
「あとはぼくのやり方を見てて」
早口でいうと、先輩はいそいで配置につく。え、大丈夫なのか、俺。戸惑いながら背筋を伸ばした次の瞬間、ドアが開いた。
「いらっしゃいませ!」
声を揃えて一斉に頭を下げる。揃いのウサギ耳が同じ角度で垂れた。俺も慌てて真似をした。
あいさつが済むと従業員たちはそれぞれの持ち場に散っていく。売れっ子たちは開店直後から指名が入っている。トール先輩はイヤホンから指示を受けた様子で、俺を連れ、指名なしのお客様のテーブルに入った。
「まあ、見ない顔ね。新人君?」
ころころとした中年女性が声を上げ、俺を覗き込む。もちろんドムだ。こういう場より正直スーパーが似合いそうな、真珠のネックレスにパーマのおばさんだが、瞳の奥に有無を言わさない圧がある。
「そうなんです。今日からの子で、銀次って言います。失礼があるとは思いますがどうか大目に見て……」
「よろしくお願いします」
俺は暗くぺこりと頭を下げた。お客様は面白そうに笑った。
「初々しいねぇ。じゃあ君、お酒注いで」
たじたじになりながら酒を注ぎ、ぎこちなく話をする。
トール先輩はほんのりとした微笑みを決して崩さず、サポート役に徹している。俺が言葉に詰まるとすぐに助け舟をくれるあたり、さすがベテランという感じだ。
(そんな気遣い、俺にできるわけねぇー)
「君もお酒いる?」
「すみません、俺まだ十代なんで」
「まあ奇遇ね、私と同世代」
向かない仕事を選んだことを痛感しながら、お客様のつまらない冗談に偽物の笑顔を作る。表情筋が筋肉痛になりそうだ。
「そのぶんぼくが頂いちゃおうかな」
冗談めかしたトール先輩の言葉で我に返った。そうか、売上ノルマ。酒の注文が多くなればトール先輩の得点になる。
「いいわよ、いいわよ。今日は銀次君の晴れ舞台だもんねー」
お客様が頬ずりをしてくる。俺の顔は酒臭い息と粉っぽい化粧にまみれた。が、次の瞬間にはそれを気にしていられる余裕はなくなっていた。
「そうそう、銀次はコマンドもまだされたことないんですよ。この子の初コマンド、いかがですか」
頬肉に押し潰されながら、俺は緊張で震えあがった。トール先輩はしれっとした顔をして酒に口をつけている。
「まあ、初物なのね、光栄だわぁ」
お客様は大喜びしている。
どうしよう。本格的にドムに命令されたことなんてない。拓馬に軽くにらまれたり褒められたりするだけでもとろけてしまう雑魚なのに、コマンドなんてされたらどうなってしまうんだろう。店に二度と顔を出せなくなったらどうする。
「……や、優しくお願いします」
いやだー、帰るー、という内心の声を殺して俺は立ち上がった。テーブル横の開けたスペースで、ぎゅっと目を閉じて命令を待つ。
「ふふ、かわいいじゃないの。じゃあ、お座りからね――ニール!」
あれ。
俺は目を開いた。拓馬を前にしたときの、いても立ってもいられないような高揚感がない。自分の意思がなくなる感じがしない。心も身体もひんやりとしたままで、自由だ。
ちらりと先輩を見ると、珍しく焦った顔をして手のひらを下に向け、合図している。何やってるんだ、あの人。小ぶりの唇がタコのように突き出たかと思うと、おおげさに動く。
(す、わ、れ……?)
「あ」
ようやく失態に気づいた俺は、あわててぺたりと座ってみせた。こわごわとお客様を見上げると、困惑した様子で目を泳がせている。
「もう。銀次ったら、緊張しすぎて反応が遅れたみたいです」
トール先輩はすかさず愛想笑いを浮かべた。
「あ、あら、そう、そういうこと、はは」
お客様は苦笑いして胸を押さえている。
「びっくりした、私のコマンドじゃ効かないのかと思った」
(しくじった)
命令を軽んじられるのはドムにとっていちばんの侮辱だ。ましてやここはドムが自分の力を確かめつつ、気持ちよくお金を使うための場所。お客様の顔に泥を塗ったようなものだ。
「じゃあ、リベンジしようかしら、ね」
お客様のお気遣いに、俺も先輩も一斉にこくこく頷いた。
「行くわよ、ロール」
今度はいそいで仰向けになった。
「できた……」
お客様も先輩も、心の底からほっとした様子だった。
(前途多難)
俺、掃除係じゃダメですかね。そう内心でぼやきながら、自分で磨いたシャンデリアを見上げている。
「君さぁ、ほんとはユージュアルなんじゃないの」
お客様が帰られると、控えで浅野先輩がぼそりと皮肉った。
実はつい最近までそうだったんです、と言い訳したくなるのをぐっとこらえ、俺は頭を下げた。
「すいません、とっさに身体が動かなくて……助け舟、ありがとうございました」
「ん。よっぽど強いドムと付き合ってたの? まあ、どうでもいいか、それは」
浅野先輩は感情のこもらない目をして、短くため息をついた。
「あのお客様は別に弱いドムじゃなかったよ。もっと弱い人だっていっぱいいる」
「はい」
浅野先輩はうんと声を小さく落とし、耳打ちした。
「ここだけの話、自称ドムもいらっしゃる」
「……はい」
「とにかく、明日からぼくのフォローはなくなるから。気を付けてね」
営業時間が終わると、俺はようやく緊張から解放された。そのあとは大きなへまをしなかったように思うが、客観的にはどうかわからない。
「まあまあじゃない? 初日としては」
着替えながら、浅野先輩は俺をなぐさめた。不機嫌を引きずる人ではないようで、俺は胸をなでおろした。
「おかげさまです」
「じゃ、寮に帰ろうか。相部屋だから騒がないでね」
げっ、先輩と同室か。気まずい。
人気のない暗い道を、ぞろぞろとサブの青年ばかりが寮に向かって歩いていく。
「固まって歩かないと危ないからねー、こじらせた客が待ち伏せとか、よくあるし」
浅野先輩が解説する。
「えっと、クリス先輩やウィル先輩はいませんけど、いいんですか」
「あの人たちは寮じゃないし、いつもタクシー」
「豪勢っすね」
どんどんやる気がなくなっていく。一生かかってもそちら側になれないのは今日の感触でわかりきっている。
「あれだよ」
俺が最初に借りたアパートに少し似た、古めの寮だった。線路の真裏だが、もう終電が行ってしまったあとなのか音はしない。
部屋に入ると一応板張りの洋間で、二段ベッドが置いてある。
「風呂場は共用でこの時間は混むから、明日の朝にしたら」
正直酒の匂いを洗い流してしまいたかったが、ここは先輩の言うことを聞くべきだろう。
「君が上の段ね。充電器はこれ」
はいと返事してはしごをのぼる。着替えが終わると、先輩は早々に電気を消した。
スマートフォンのロック画面を開けると、間近な天井が明るくなる。
(あ、拓馬からだ)
ほとんど言葉も交わさずに家を出てきてしまったが、無視する気にはなれなかった。俺はメッセージを開いた。
『あんなことして、ほんとにごめん。面接どう? 体調は? 時間があるときでいいから連絡して』
もう何時間も前に送られた拓馬のメッセージが画面に浮かんでいた。文面からは心配と不安がたっぷりと、だし汁のようににじみ出ている。
仕方ない、気まずいが返事してやるか。
『採用決まった。週末に荷物取りに行くから』
送信ボタンを押してすぐに寝ようとしたが、充電する前に返事がぽんと現れた。
『わかった。すごく心配しとったよー、おめでと。応援してる』
(あいつ)
あの優しい男のことだ。俺をサブドロップさせたことに罪悪感でも抱いていて、こんな遅くまでじっと俺からの連絡を待っていたんだろう。バーカ。
気づけば口の端がにやにやと持ち上がっている。我ながら気色悪い。
(おめでたくねーよ)
俺の仕事内容も知らないで呑気なことをいう元親友がちょっと面白い。好きな奴にバニーボーイを応援されても困る。
「大宮君、学生でしょ? 早く寝たら」
下から眠そうな声がした。
「すいません、前の同居人と荷物の相談、してて……今寝ます」
声までにやけていて自分が嫌になる。拓馬からの拒絶が思った以上に堪えていたのかもしれない。
「ドム?」
先輩はさすがに鋭い。
「……付き合ってはいなかったですけどね」
「こんな時間まで話してくれるのに? へー」
呆れた様子で言ってから、先輩が下で布団をかぶる音がする。
「予言、変えとくね。君は半年もたない」
「そんな」
「おやすみー」
先輩の予言にもかかわらず、次の数日は思ったよりも順調に過ぎた。新人の物珍しさからか売上も好調だ。ひょっとしたらいけるかもしれない。じわじわと自信がついてくる。
ただし非常に、眠い。
約束の週末、あくびを噛み殺しながらチャイムを鳴らした。拓馬はまるで玄関先で待ち構えていたかのようにすぐにドアを開けた。本当に待ち構えていたのかもしれない。
「……よう、久しぶり」
気まずさと気恥ずかしさで首のうしろを痒くして、俺は言った。どんなに拓馬が鈍くても、もう俺がサブだということはわかってしまっただろう。
斜め下に目を逸らす俺の顔を、拓馬は身体を屈めて覗き込んだ。
「ねえ、幸晴、すごいクマ。寮でちゃんと寝られてんの?」
拓馬は有無を言わさず俺の手首を掴み、俺を部屋に入れてしまった。
「細い。また痩せたでしょ」
「な、何すんの」
どくん。悲しいかな、サブの心臓は否応なしに高鳴る。俺が好きだった大きな手のひらが手首を締め付けている。強引に引っ張られる感覚が心地いい。もっとこいつに乱暴にされたい。行き先がベッドだったらいいのに。
ほのかな俺の期待を裏切り、ドムはきっぱりと言った。
「飯、食わせる。いっしょに暮らすのは無理でも、俺、別にお前の友だち辞めてないんで」
言葉をなくした俺を椅子に座らせ、拓馬が台所に立つ。友だち。そうですよね。何を勘違いしていたんだろう。
しばらくすると大量のナポリタンが目の前にどんと置かれた。
「準備しといてよかった」
(うちの寮、飯は一応食わせてくれるんだけど)
ただし拓馬のナポリタンの方が何百倍もうまい。抗えずにフォークを取り上げた。
拓馬も俺の向かいに座った。肘を突き、組んだ手の甲に顎を乗せている。
「どんな仕事なのか、そろそろ教えて」
「……ダメ」
バニーボーイだなんて恥ずかしくて言えるわけがない。
「危ない仕事じゃないよね」
「サブ専用の寮がある、ちゃんとしたとこだよ」
拓馬を心配させたくなくて俺は言った。まったくのうそではない。
甘酸っぱく脂っこい麺をもくもくと咀嚼し、飲み込む。玉ねぎとピーマン、それから燻製の匂いがノスタルジックに鼻孔を吹き抜けていく。一週間しか離れていないのに懐かしさがこみあげて、麺が喉のあたりで詰まった。
「何むせてんの。ゆっくり食べなって」
拓馬は苦笑しながら優しく俺を見つめている。一週間前、同じ家で修羅場を演じたのがうそのようだ。
ドライな浅野先輩に慣れ切った今の俺には、拓馬の甘やかしは毒だ。帰りたくなくなってしまう。
「うまかったよ」
真っ赤に染まった空っぽの皿を前に、ぼそりと言う。
「よしよし、前より愛想がよくなった。バイトのおかげかな?」
何気ない褒め言葉が脳の芯をぼうっと霞ませる。
「……さあな」
拓馬だけだ。言葉ひとつ、視線ひとつで俺を溶かしてしまうのは。
「皿、片付けてくる」
拓馬の声が少し遠く聞こえた。拓馬のナポリタンを腹いっぱいに収め、この一週間感じたことのない安心感が俺を満たしている。
視界が二度、三度、ゆっくりと縦に揺れる。
はっと気がつくと午後の光が床を照らしている。いつの間にか眠っていたらしい。寝ぼけたまま、俺は机から身体を起こした。時計を見ると四時を過ぎている。ここに来てようやく俺ははっきり覚醒した。
(まずい、遅刻する)
がばりと立ち上がると肩から何かが滑り落ちる。床にカーキ色の上着がねじれて広がっている。拓馬のブルゾンだった。
思わず見上げたが、拓馬はいない。気配すらない。出かけてしまったようだった。
俺は自分しかいない部屋に立ち尽くした。
服のぬくもりを失った肩がだんだん冷えていく。みぞおちがきゅうと痛む。
パニック症状の前兆だとわかった。
(こんな優しさより、俺をパートナーにしてくれた方がうれしいっての)
ブルゾンを拾って、八つ当たりするように乱暴に椅子に掛ける。俺は部屋を飛び出した。
無我夢中で街を走る。電車に駆け込み、ドアの横にもたれる。しばらく振動に身を任せているうちに、サブの精神不安が少しずつ引いていく。
ようやく気づいたのは、何駅か過ぎたあたりだった。
(あ)
肝心の荷物を、拓馬の家からひとつも持ってきていない。
(馬鹿だ……)
俺は頭を抱えた。とにかく拓馬に連絡して、また取りに行かなければ。いつまでも荷物を置いていたらさすがに悪い。
ひたすら格好悪い気分になりながら、俺はスマートフォンを取り出した。拓馬から連絡が来ていた。俺が眠ってすぐ送ってきたようだ。
『何かしちゃったらまずいし、起きるまで外でぶらぶらしてんね』
(あー、こういう奴だった、拓馬は)
俺は呆れてため息をついた。しょうがない奴。今もスマートフォンの通知を気にしながら、外で俺が起きるのを忠犬のように待ち続けているに違いない。
『仕事に遅れそうだからもうお前んち出た。あと荷物取ってくるの忘れた』
案の定、すぐに返事が来た。爆笑のスタンプ。
『うそでしょ何それ。またうちに来んと』
ほら。こいつは俺の連絡を待っていた。
『ごはんいっぱい作って待っとるから、明日取りにおいで』
食えー! といいながら猛烈に飯をかっこむキャラクターが流れてくる。
『それじゃ飯食いたくて荷物残してきたみたいじゃねえか』
送信して尻ポケットに端末をしまう。いつの間にかまた、俺の口はだらしなくにやけていた。
だが拓馬がチャージしてくれたエネルギーは、長くはもたなかった。
前日まではぽつぽつと入っていた指名が、この夜初めてなくなった。指名なしの席に入っても『銀次』という個人に関心を持ってくれない。客の視線が売れっ子の方へさまよっていくのが見える見える。
(雑魚だもんな。知ってた)
新人と言うだけで興味を持ってもらえる時期が過ぎたんだなと、嫌でも察してしまった。箔がなくなれば目つきの悪い無愛想男しか残らない。
「新人ブーストが切れました。今日から歩合制なんで貧乏確定です」
寮の部屋に戻ると、ついこぼした。
「やっぱ俺、半年もたないですかね」
浅野先輩は脚を投げ出してベッドに腰かけた。
「君がそう思うならそうかもね。踏ん張れる奴しか残んないよー、がんばってねー」
モルモットに似た目は今夜も無感情だ。
「浅野先輩みたいに接客うまくねえんで」
「は、は、は。五年もこんなとこにいたら君だってうまくなるよ」
先輩は棒読みのように言った。自虐しているのか、俺をけなしているのか、俺でも後天的に接客能力を獲得できると励ましてくれているのか、今ひとつわからない。
先輩は前髪をひねっている。
「あのドムとの付き合い、続いてるんでしょ。今日ちょっと遅かったし」
頬に軽く熱がのぼった。
「はあ、すいません」
「ひゅーひゅー。早く収まるとこに収まって辞めちゃえ」
善意と悪意が五分五分という雰囲気で先輩は言った。
「そんなんじゃないんで」
少なくともあいつにとっては。
先輩が関係を誤解しているのはわかっていたが、説明するのも面倒だった。先輩の生ぬるい眼差しから逃げるようにして、俺ははしごを登った。
次の日、同じ時間に拓馬の部屋に行き、チャイムを鳴らした。俺がひとり暮らししていたときと立場が逆だな、と俺はぼんやりと思う。俺を甘やかしてくれるドム、しかもうまい飯つき、これがオアシスじゃなくてなんなのか。
「幸晴、なんかあった?」
ドアを開けながら拓馬が俺をじっと見る。
ああもう、どいつもこいつも、どうして俺の顔を覗いては当て推量をしてくるんだろう。しかも結構当たっている。俺の表情はそんなにわかりやすかっただろうか。
「別に。仕事がクソなだけ」
「いじめられてるの」
ドムが危ない空気を漂わせはじめた。俺はごくりと唾を飲んだ。
「違えよ、向いてねえって話」
「意地悪されたら言って。俺が乗り込んでってあげる」
ふんわりとした笑顔の裏にまだ攻撃性が見える。思わず背筋がぞくりとした。
「……過保護」
俺はやっとつぶやいた。
「じゃ、飯にしようか。腹がいっぱいになると気分変わるよ」
「最近のお前、そればっかりだな」
カレーの匂いと拓馬の手に引っ張られ、俺は台所に入った。椅子に座ったとたん、楕円の皿がどんと前に現れる。鶏もも肉と野菜がごろごろ入ったお馴染みのカレーだった。
「どう?」
もくもくとスプーンを口に運ぶ俺の顔を覗き込み、拓馬は訊いた。弾力のある肉は香辛料が効いていて、噛むと皮から脂がじわりと滲みだす。
「拓馬のカレーの味」
「それって褒めてる?」
「ん」
褒めているに決まっている。
食べ終わると、拓馬が動く前に皿を流しに持って行った。腕まくりをすると拓馬が慌ててやってくる。
「洗い物ぐらい俺がやるのに」
「気にすんな、眠気覚ましだ」
そのあとは食後のコーヒーをテーブルで飲んだ。眠気対策は万全のはずだった。が、
――ジリリリリ
目覚まし時計の音で深い眠りから飛び起きた。
(うそ)
拓馬の料理には眠くなる成分が入っていないだろうか。カフェインすら無効化されている。
耳元に置かれた時計は午後四時ちょうどを指している。拓馬が置いておいてくれたものだろうが、
(四時じゃ遅いんだよ)
拓馬はやはりいない。代わりに大きな不織布製の袋が向かいの椅子に置いてある。ちょうど掛け布団が入りそうなサイズ。たぶん俺の荷物だ。
(気が利くじゃねえか)
肩にかけてもらっていた毛布を椅子に置くと、袋を掴んで部屋を転がり出た。
トナカイに愛想をつかされたサンタクロースのように、布団袋を担いで街を駆け抜ける。昨日より一本早い電車に乗るとほっと息をついた。遅刻は免れた。
拓馬のことだ、また外で俺が起きるのを待ってるな。連絡してやらないと。そう思いスマートフォンを見ると、その拓馬から通知が来ていた。
『幸晴、なんで俺の夏掛け布団持ってっちゃったの?』
(は?)
メッセージを見て、慌てて袋の口を開いた。
(うわ……)
現れたのは量産品の白い布団ではなく、昭和風の花柄だった。俺のじゃない。思わず目を覆った。
……なんで。
『なんで椅子の上にお前の布団があったんだよ!』
『幸晴に毛布掛けてあげようと思って、押し入れから袋引っ張り出したら、しまい忘れた』
忘れていた。拓馬の善意はたまに中途半端であることを。
俺は呆れながら高速でフリック入力した。
『普通あそこにあったら俺の荷物だと思うだろ』
『なんかごめん』
『どうすんだよこれ』
『住所教えてくれたら送るよ』
俺は一瞬答えに迷った。
『それは無理。サブ寮だし、雇い主に叱られる』
『そっか。じゃあ』
また来週! とにこやかに手を振る、国民的アニメキャラのスタンプが流れてきた。
俺は気が抜けて肩を落とした。
『お前、楽しんでねえか』
『幸晴を甘やかすのが趣味なもので』
こっちはそれに慣れそうで迷惑しているというのに。
指名の入らないまま日、月、火の営業が終わる。水曜日は店休日で夕食の直後から死んだように眠り、迎えた木曜。
ようやく俺に指名が来た。吊り目のバニーがよいという物好きは存在した。
初日より緊張しながら席に入る。
「ご指名ありがとうございます……あ」
頭を上げた俺は間抜けな顔をした。
「来たわよ、銀次君。調子どう?」
まん丸の顔をさらにまん丸くさせて、お客様はにこにこしている。初コマンドのときのお客様だった。
めったに他人に感謝することはないが、このときばかりは心底ありがたいと思った。あんな失態をしたのに指名してくれるなんて。先輩に言われて送った営業メールだって、ダメもとだった。
「いやもう全然売れなくて。粥啜って暮らすしかない」
半分以上真剣に言って酒を注ぐと、愉快そうにお客様は笑った。
「ちゃんとコマンドできてるぅ?」
「はい、それはもう」
といっても本能で従っているわけではまったくない。感覚としてはほぼ体操だ。
「その節はすみませんでした」
「ふふ、じゃああとで試すからね」
シャンデリアの明かりが落ち、舞台に照明が当たった。緊縛ショーが始まる。専門の踊り子がドムの縛り手とともに現れる。
「いい、ユージュアルとは結婚するもんじゃないわよ」
お客様は小声で雑談を始めた。
「結局妻が強いのが目ざわりでこそこそ愛人作るし、やってらんないわ。最初から愛情なんてないけど」
「……お疲れ様です」
それ以外に言うことがないまま、俺はお客様のグラスを混ぜた。正直、家庭の愚痴に興味はない。だがこれではリピートしていただけない。売上。お金。
「親が決めた結婚だったから仕方ないけどね。おかげで会社は大きくなったわよ、会社は」
縄で縛られ、半裸の踊り子がするすると音を立てて吊られていく。俺のような普通のサブには真似できない芸当だ。
「だからあたしもこういうとこに来て憂さ晴らしってね」
「素晴らしい」
言うことが見つからず、わざとらしく胸の前で手を組んだ。お客様はくすりと笑った。
「人間味がないのよねぇ、きれいだけど」
踊り子を見ながらお客様はつぶやいた。しなやかに曲がる身体、肌の陰影、真っ赤な紐。たしかに人間離れした美しさだ。
「あ、それできれいじゃない俺を」
なるほど。マゾヒズムの美を体現するのは俺には無理だ。
「やだぁ、そういうんじゃないわよぉ。失敗したのが素直に面白かったの、それだけ」
「ほんともう、忘れてください……」
思わず本気で弱ると、お客様はうれしそうに身体を揺らして笑う。
笑われているうちに、ふっと肩から力が抜けた。なんだ、この人は雑魚の俺でいいのか。
自信を得た雑魚はふだんより口が軽くなった。特に面白いことを言ったわけではなかったが、酒の回ったお客様はよく笑った。おばちゃん特有の笑い声がしばらく耳について離れなかったぐらいだ。
「楽しかったわ、ありがとう。今度はお友だち連れてくるわね」
ドアの外で見送りをしたとき、ほしかった一言をもらえた。
「はい、ぜひ。お待ちしております」
千鳥足で夜の街を歩いていくおばちゃんが神々しくさえ見えた。
「紛らわしいだろ」
次の土曜日、俺は布団の袋を拓馬に突き返した。
「ごめんごめん。今日はちゃんと幸晴の荷物、わかるようにまとめて置いといたから」
拓馬は玄関の大きな段ボールを指さした。
「サンキュ。……今日の飯、何」
「お好み焼き。なんだかんだ楽しみにしてるじゃん」
俺を連行しながら、拓馬はくすくす笑った。俺は少し悔しくなって言った。
「まあ、今日まではな。お前の恋人づくりを邪魔しちゃ悪い」
間抜けにも自分の言葉がひゅん、と跳ね返ってきて胸に突き刺さる。痛え。
「……そんなの作れんて」
少し間を置いて、ぼそりと拓馬は言った。
「そんなにリハビリ難航してんの」
「難航どころか、悪化しちゃって……」
「この前の、俺の件?」
拓馬は黙って頷いた。
「そんなのまだ気にしてたのか」
「だって俺はお前を、あんなにした」
キッチンの前で拓馬は拳を握る。俺は少し考えた。
「危ないお前のままってわけにはいかねえの?」
雑魚の俺でいいと思うドムの客もいるのだから、危ない拓馬でいいというサブもいるだろう。少なくとも俺は構わない。
「もうちょっと気楽にしてろよ。ドムもサブもただの人間だから普通に付き合えばいいんだって」
「ドムも……」
ホットプレートを熱しながら、拓馬の声が奇妙に固くなる。
「幸晴、誰かのこと考えながら喋ってる?」
俺の客のことだ、なんて言えない。
「一般論だ」
俺の声は必要以上にうそくさく響いた。じゅう、と音を立てて種が広がる。
「……俺より飯、うまい? その人」
「だから一般論だって」
「俺より大事にしてくれそう?」
「そんな奴いねえよ。しつこいよ」
拓馬は聞く耳を持たないで、片手で顔を覆っている。ぱちぱちと油がはじける。
「どうしたらいい? お前を傷つけたくない。対等な友だちじゃいられなくなるのが怖い……でもお前が別のドムのものになるのはもっと嫌だ」
「だから俺にひとりでいろって?」
椅子に座りながら、俺は呆れた。
「身勝手だね……でも……」
粉だらけのエプロンで拓馬は俺の方を向く。いつもはふにゃふにゃと垂れている眉のあたりに、珍しく決意が漂っている。なんだなんだ、と身構えていると、拓馬は静かに言った。
「ちゃんと力をコントロールできるようになりたい。それまで待っててほしい」
どくんと脈拍が飛んだ。
「それは、いつか俺をパートナーにしたいって意味か?」
拓馬は唇を震わせながら頷いた。温かい瞳が俺の目をじっと見つめている。
いつか拓馬が俺のパートナーになる。
いつかって、いつだ。拓馬のそれは治るのか。
(どうでもいい)
白けた平常モードの俺をねじ伏せ、俺の中のサブが叫んだ。
待ちたい。こいつしか好きじゃない。こいつの力以外は俺には効かない。
ちりちり、ぱちぱち。油が跳ねる音と重なるように興奮が肌を上ってくる。まずい。俺は目を逸らした。
「……早くしろよ。俺は短気だからな」
拓馬がうれしそうな顔をする気配がした。
「うん。ありがとう。頑張る」
「お好み焼き、焦げるぞ」
「あ」
ドムは背を向けた。俺はほっとして視線を戻した。
「サブとの接触訓練、再開せんと。悪化したから一時的に止めてもらってたんだけど」
フライ返しを手に、拓馬が笑う。
「接触」
すっと興奮が醒めていく。
「前に言っただろ、サブの先生や同級生と話すやつ。苦手だけど、お前が待っててくれんなら」
もやもやとした黒い不安が俺の心臓を染めていく。俺の知らないところで、未来のパートナーがサブと会う。
(くだらねえ。その程度でやきもちとか、めんどくせえ女子かよ)
俺の方だってサブドロップを抑えるために怪しげな店でバイトしている。お互い様だ。俺は自分に言い聞かせる。
「よっ、よし、焦げてない」
拓馬は気づかないまま、大きな大きなお好み焼きをひっくり返している。
「……二人前か、それ」
不安を紛らわそうと、俺は話題を変えた。
「全部幸晴の」
よく見ると拓馬は豚バラを大量に並べている。不安がこの瞬間焦りに変わった。
「いくらなんでもでかすぎるだろ、肉やめろ、もういい、あとその溶けるチーズの袋をしまえ、マヨネーズもしまえ」
「へへへ」
だが餅は盲点だった。いったいいつ入れた。生地の段階か。
なんとか平らげ、ぱんぱんの腹で玄関に向かう。
「明日も来るでしょ?」
拓馬はおっとりと微笑んでいる。
「……俺を太らせる気なら来ねえぞ」
太ると仕事に差し支える。何せ店長に褒められたのは体型だけだ。
「幸晴はもうちょっと太ってもいいと思うけど」
「言うことがおっさん」
「だって、痩せてるとほかのドムにモテそうで怖いし」
拓馬は口を尖らせているが、目だけがあまり笑っていない。俺はごくりと唾を飲んだ。ああ、やっぱりこいつはドムだ。
同時に若干の罪悪感が胸をよぎった。成功しているかどうかはともかく、ほかのドムにモテるのが俺の仕事だ。が、今さらバニーボーイをカミングアウトする度胸はない。
(まだパートナーでも恋人でもねえしな)
現実を直視すると苦い気持ちが湧いた。俺にあるのは、いつかパートナーにしてもらえるという口約束だけ。あの寮を出て拓馬といっしょに暮らせるわけでもない。住む場所がなくなることを考えると、まだ仕事は辞められない。
「あ、荷物忘れないで」
「さすがにそこまでアホじゃねえ」
段ボールを何気なく持ち上げると、まっさらな床が見えた。
もうこの部屋には俺の痕跡がない。
「治療、いそげよ」
胸が痛んだのを隠し、ぶっきらぼうに言って部屋を出た。
大きな段ボールと大きな不安を抱えながら、寮にいったん戻る。サブの精神は理屈が利かないから困る。
だが、うじうじしていたところで荷物が自動で片付くわけもない。ため息をつき、箱を開けた。
(……ん?)
新聞紙で包まれた皿の脇に何か見慣れないものがある。俺は新聞紙をかき分けた。
ぽんと膨らんだ原色の包み紙だ。丸々としたポップな書体で『ポテトチップス』の字が躍る。それが一、二、三、うわ、まだあった、四個。どうやら荷物の緩衝材がわりらしい。
「バーカ」
俺は少し笑った。あいつ、本気で俺を肥やす気だ。
そこから一か月、例のお客様は店に顔を出さなかった。
(友だちを連れてくるなんて口約束だったな)
着替えをしながら、ホワイトボードの売上グラフを見てため息をつく。
黒いマーカーで描かれた棒グラフは右肩下がりになっている。予想通り、「銀次」の文字はいちばん右にあった。ぶっちぎりの最下位だ。スペースが足りなかったのか俺の源氏名は気の毒なぐらい小さくゆがんでいる。
名前の上にちんまりと立った四角い棒は、グラフを水平に横切るノルマの点線にまるきり届いていない。今月は新人特権でノルマ確認がなかったからいいが、あったら確実にペナルティを食らっていた。
「ぼくもヤバ」
浅野先輩が横に立ってぼやく。ノルマはぎりぎりクリアしていたものの、先輩も俺の次に売上が低かった。あれだけそつなく客あしらいできるのに売上とは別問題なのだから厳しい世界だ。
「歳かなぁ」
「まだ五年でしょ」
「この店、三つ目」
年齢不詳の横顔を思わずまじまじと見た。本当は何歳なんだろう。
「えっと、若くて最下位って奴もいるんで、ここに」
「君になぐさめてもらっても」
「底辺どうしですもんね」
「ね」
ウェストコートのボタンを留める。拓馬が甘やかすものだから、少し衣装がきつくなっている。売上が悪いのは太ったからだろうか。まずい。だが仕事で感じる虚無感を拓馬の飯で癒す習慣はやめられそうにない。
(痩せてたって俺はダメ)
気を取り直して掃除に向かった。
サブのキャストが集団帰宅する関係で、営業後の片付けはドムの黒服がやってくれる。が、営業開始前の店内清掃は売上が低い従業員の担当だった。つまり俺と浅野先輩以外に掃除の仕事が回ることはほとんどない。この一か月、清掃の技術ばかりが向上していた。
匠の技により店中がぴかぴかになったところで営業開始。今夜もどうせ指名は入らない。やる気のない瞳で売れっ子たちをぼんやりと眺めていると、
「銀次君、指名です。四番テーブルへどうぞ」
イヤホンごしに黒服が呼ぶ。あまりに指名が久しぶりで、指名のしの部分で小さく飛び上がったほどだ。いそいでテーブルに向かうと、
「ご無沙汰しちゃってごめんなさいね」
例のお客様だった。俺は半分本気で胸をなでおろしてみせた。
「もう、寂し死にするかと思いました」
「ははは。君も一応ウサギだもんねぇ、一応。約束通り、友だち連れてきたわ」
となりにはジャケットに丸首ニットを着た初老の男性が座っている。いかにも場慣れした雰囲気だ。
「うちの会社と長いお付き合いをしている会社の社長さん」
「わあ、すごい方なんですね、初めまして」
嫌いだな、と直感的に思った。
視線を向けられるだけでびりびりと肌がひきつる。拓馬と同じぐらい強いドムだ。そして、拓馬と同じぐらいにこやかだ。
なのに生理的に嫌悪感が湧いてたまらない。こんな客は初めてだ。
「こういう地元のお店はあんまり来ないでしょ?」
「ええ。でも気楽でいいですね」
にこにことあたりを見回す社長の視線には、値踏みをする商人の冷ややかさがある。嫌味か。たいしたことないバニーで悪かったな。
「遊びは気楽がいちばんよ。お金出して疲れに行くなんてナンセンスだし」
いつものお客様はいつも通りで、俺はほっとした。
「バニーボーイ界の回転寿司を目指しております」
「回転寿司『銀次』。悪くないわねぇ」
どうせこっちの社長とやらは高級店の接客に慣れている。俺ごときがおだてたところで満足するわけがない。そう割り切って、いつものお客様をなるべく立てる。
「ずいぶんと銀次君を気に入ってるみたいですね」
しばらくお客様とふざけあっていると、社長が苦笑した。
「こういうところにいる子にしては人間味があるのよ。最初なんか、私のコマンドに反応できないぐらい緊張しちゃって」
「勘弁してください」
頬を押さえてわざとらしく恥じらうと、お客様はけらけらと笑った。このお客様はノリで接客すれば喜んでくださるから楽だ。
「ね、かわいいでしょ」
「へえ。由紀子会長のコマンドで? それはそれは」
社長の目に初めて興味の色が灯った。
「もちろん今はちゃんとできるわよ?」
「ええもう、お手でもおかわりでもおまわりでも」
「じゃあ、私の相手もしてもらおうかなぁ」
社長は目を細めた。
嫌だ、と全身が叫んでいる。理屈ではない。本能的に拒絶反応が出る。
「……喜んで」
俺は心にもない笑顔を作った。頬の筋肉が泣いている。俺の心も泣いている。崖っぷちバニーに客のえり好みなんて贅沢が許されるはずがなかった。
テーブル脇の空いたスペースに立ってコマンドを待つ。
「座りなさい」
コマンドではない、ごくふつうの命令文で社長は言った。
静かな声だった。だが、まるで水に投げた小石のようだった。声が鼓膜に届いた途端、震えあがるほどの恐怖が全身に広がった。
俺は立っていられなくなって床に崩れ落ちた。
「この店はどこまでさせていいんでしょう?」
「どこまでって……常識的な範囲よ」
いつものお客様がたじろいでいる。普段の俺を知っているせいだ。ほかのどの客にだって、俺は本能から従ったことはない。
だがこの社長は違う。生存本能に訴えかけてくる。言うことを聞かないと殺されると、俺の中のサブがバカな警告を発し続けている。
「仰向けになりなさい」
歯を震わせながら俺は従った。こんなに恐ろしいのは拓馬を怒らせたとき以来だ。
腹の上にゆっくりと社長の靴が乗る。ぎりぎりと圧がかかる。
「ぐはっ……」
腹の皮と内臓が悲鳴をあげる。あまりの圧迫感に涙が浮かんだ。
そのまま顔を覗いてくる。
「いいね。そういうサブらしい顔もできるじゃないか」
頭がぼんやりと霞んでくる。いつものお客様はショックを受けた様子で口を覆っている。
「お客様、申し訳ございません。キャストを踏むプレイは……」
黒服が音もなく、しかし素早く飛んでくる。とたんに社長はにこやかな顔に戻り、足をどけた。
「ああ、すみません。由紀子会長に恥をかかせたと聞いたもので、少しお灸を据えたかっただけです」
俺はむせながら身体を起こした。黒いウェストコートにくっきりと靴跡が残っている。
「……そんなことをしてほしくて話したんじゃないわよ」
由紀子会長は不機嫌になっている。
「そうでした。加減すべきでしたね。思ったよりは従順なサブですし」
従順というところで、由紀子会長は俺に混乱した視線を向けた。合わせる顔がなかった。
(本能で従ってなかったのがバレた)
俺の胸に苦い敗北感が広がっていた。俺がせっかく積み上げた好感度がこいつのせいで台無しだ。
「君、悪かったね。アフターケアだ。いちばんいいボトルを入れよう」
こんなにうれしくない売上は初めてだった。
(お客様に恥をかかせたかったのはてめえの方だろ)
などとは口が裂けても言えない。おとなしく高級ワインをグラスに注いで渡した。
「君も飲むだろう」
「俺は飲めませんので、ぜひ会長とおふたりでお召し上がりください」
「おやおや」
プロ意識が低い、と視線が言っている。恥ずかしながらこんな状況も初めてだった。酒を強いるほど俺に興味を持った客がこれまでいなかったからである。ちなみにアル中だった親の影響で、酒は飲みたいとも思わない。
「えっと、食べ盛りの十代ですのでぇ、酒より飯がよくてぇ」
ふざけてみると、由紀子会長はようやくぎこちなく笑ってくれた。
「銀次君の野心のないとこ、好きよ」
「ありがとうございます、飯よりうれしいっす」
「それ奢れって言ってるわね?」
「言ってないです、でもちょっと言ってます」
「どっちよ。ふふ、今度ね」
由紀子会長の笑顔から、こわばりが少しずつ解けていくのがわかる。
社長に対しては怯えていただけ。銀次君が本当に懐いているのは自分の方。そう思ってもらえた様子で、俺はほっとした。
隣で社長がいい酒を呑みながら、理解できないというように首をかしげている。
「珍しく売上よかったじゃないの」
営業終了後、事務室で店長が声をかけてきた。あれ、いつぶりだ。思い返すと、最近は店長とほとんど言葉を交わしていなかったのに気づく。こちらの存在を認識しているかどうかさえ怪しかった。ちゃんと見えてはいたらしい。
「はあ、おかげさまで」
「あのお客様、大事にしなさい」
「それはもちろん」
由紀子会長のことを考えながら、俺は心を込めて言った。
「プライベートでは踏ませてあげてもいいのよ。店の格が落ちるからここではダメだけど」
俺はぽかんと口を開けた。
「いや、あの社長は単に常連様のお連れ様で」
美男は謎めいた笑みを浮かべて頬杖をついた。
「また来るわ、あの感じは」
いちばん嫌なタイプの予言だ。
そして三日後、予言は当たった。
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