バニーボーイは命令されたい 3




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 指示を受けてテーブルに向かうと、俺を踏んづけたお客様が脚を組んで待っているのが見えた。

(うわぁ)

 脚、いや全身が、社長の方へ向かうのを拒否している。

「……いらっしゃいませ。今日はおひとりで?」

「ああ。由紀子会長がいなくて悪かったね」

 背中に手を回されぞわりと鳥肌が立つ。耐えろ。辛抱だ、辛抱。どんなおっさんおばさんだって耐えてきたプロ意識を見せろ。

「由紀子会長と仲がいいようで。いろいろと話をしているだろう」

「ええ、良くしていただいてますが」

 社長は胸ポケットから封筒を出した。ぺらぺらしていない、ちゃんと中身がありそうな封筒だった。

「チップだよ」

 俺は一瞬きょとんとした。まさか初対面の俺を踏んづけるようなドムが、俺に気を使ってくれるとは思っていなかった。

「うわ、うわうわうわ、ありがとうございますー」

 現金なもので本気の笑顔が出た。第一印象が最悪だっただけで、案外いい人かもしれない。

「中を確かめてくれて構わないよ」

 言われるまま封筒の中を見てぎょっとした。一万円札が一、二、三……十枚入っている。

 笑みがするすると顔の表面からしまわれていく。いくらなんでも雑魚バニーへのチップとしては多すぎる。

「でね、私は由紀子会長の話が聞きたいんだ。面白い話はないか?」

「面白い話?」

 社長はにこにことしたまま、声を落とした。

「あれの弱みでもなんでも」

 俺は完全に正気に戻った。買収だ、これは。

「はは。そんなご冗談にこんな大金、使わないでくださいよ。てっきりもらえるかと思いました」

 笑いながら、俺は封筒を社長の前まで滑らせた。チップも売上扱いだから店長には怒られるだろうが、俺にもプライドがある。

「足りなかった?」

「足りないも何も、俺は弱みなんて知りませんからぁ」

 俺はうそくさい口調で真実を言った。

「五倍出したら?」

 奨学金の支払いがちらりと頭をよぎったが、知らないものは知らない。

「あー、知ってたら儲かったなぁ、惜しいなぁ」

「金でなびかないほど懐いている、か。よほどの仲だな」

 違います。

「仕方がない、君が受け取らないならこのチップは酒にしよう。シャンパンはあまり好きではないが手始めにはちょうどいいかな」

 止める間もなかった。注文を聞いて黒服がボトルを手に飛んでくる。手の空いた数人のキャストがまわりにわらわらと集まった。客を含め、店中の視線がこちらに向いた。

 ぽんっ。聞きようによっては間抜けな音を立てて栓が抜ける。歓声があがる。輪の中心で、俺だけ取り残されたように黙りこくっている。こんな注目を浴びるのは初めてなのに、うれしくもなんともない。

「乾杯して。飲めなければ形だけでも」

 黒服がイヤホン越しに指示をしてくる。逃げ場がなくなっていくのを感じながら、俺はグラスの細い足を持った。

 硬質な音を立ててグラスが触れ合う。俺を踏んだ男は一気に薄い色の酒を飲み干した。その隙に俺はことりと机にグラスを置いた。失礼だろうが構うものか。

 社長は俺を横目で見て、苦笑いした。

「由紀子会長は甘やかしすぎだなぁ」

「そんな仲じゃないんでぇ。お友だちですぅ」

 由紀子会長にするように、わざとらしくかわい子ぶる。俺のぱちぱちとした瞬きに苦笑を深め、男は首を横に振った。

「そのつまらない冗談はそろそろやめにしよう。私のテイストじゃない」

 すごい。この男が口を開くたびに嫌悪感が増していく。俺は作り笑いをやめた。

「由紀子会長の弱みを知りたいんですよね。どうして」

 人が散ってから、俺はぼそりと訊いた。

「都心の一等地だ。もう十数年も粘っているが売る気はないの一点張り。利益にならないほかの土地の面倒を見てやってるのに、ああ見えて食わせ者だね。タダ働きだよ」

 思わず俺は乾いた笑い声を立てた。

「俺はそんな話知りません。残念、今夜はムダ金でしたね」

 男はわざとらしく眉を上げた。

「そうでもないさ。あれは君を気に入っている。君を使えばいい」

「俺が協力するとでも?」

「あれの力は、君にはろくに効いてないだろう」

 俺はぎくりとした。

「だが私の力は効く」

 ドムはぎらりと目を光らせた。強烈なグレア。とたんに背筋が凍りつく。

「私の駒になりなさい。これは命令だ。君にとっても悪い話じゃない」

 殺される。不安とパニックで叫びだしそうだ。

「あ、あ、あ、あ」

 拓馬。お願い、助けて。

 ここにいない存在を心の中で必死に呼んだ。同じドムでも拓馬はこんなことをしない。拓馬なら俺を守ってくれる、拓馬――

 社長は視線を緩め、肩をすくめた。

「怯えはするが絶対服従にはならないか。やはりすでに契約しているのかな。まあ、そんなところだろうと思ったが」

 俺はぜえぜえと呼吸した。吸い込む息が変な味だ。

「まあ、契約を破棄させて上書きすればいいだけの話だ」

 やはり拓馬の力は強いんだな、と俺はぼんやりと思う。契約なんてまだしていないのに、俺の身体は勝手に先約済みになっているらしい。

「あんたと付き合えって……? はは、お断り、ですよ……俺のタイプは、優しい人、です」

 拓馬みたいな、とよほど続けたかった。が、恋人(正確には未満)の存在を客に知られるのは職務規定違反になる。

 社長は呆れて笑った。

「君の太ったパトロンみたいに、か。心配してもらわなくても、君ぐらいなんとでもなるんだよ」

「どうやって」

 男は黙ってベルを叩き、黒服を呼んだ。耳に何かささやくと黒服が目を見張る。

 俺は背中に嫌な汗をだらだらかいた。

 数時間後。

「ぎ、ん、じ、くーん。お手柄ぁ」

 営業が終了してすぐ、店長が飛んできた。

「採用したあたしの目に狂いはなかったわ。あんたみたいなタイプ、ニッチだけど刺さる人には刺さるのよね」

「そんなんじゃないです……」

 俺はげっそりと疲れていた。早く解放されたい。拓馬の飯が恋しい。

「そんなんじゃないのにこんなに払うわけないでしょ」

 ロッカーでごそごそと帰り支度をしていると、スマートフォンに通知が来た。拓馬だろうか。拓馬であってくれ。

「今夜は売れっ子たちより稼いだの。確変よ確変」

 店長の声を背中で聞き流しながら画面を見る。

 俺は目を疑った。

『店側と同伴の約束を取りつけてある。いつがいい』

(なにこれ)

 送信者は畑山拓伸とある。どう考えてもあの社長だ。俺は信じられない気持ちで店長を遮った。

「あの」

「なぁに」

「さっきのお客様からメールが、来て……同伴って聞いてないんですけど」

 店長はウインクした。

「おいしいもの奢ってもらいなさい。お酒よりごはんが好きだって言ったんでしょ、悪くない手よ」

「あの、断るわけには」

 店長は一気に真顔になった。

「それはあまりにもバカよ。いつもは売上、厳しいでしょ。自分の状況を考えて」

 同伴は売上扱いだ。どうしてもあいつと飯を食わなくてはならないらしい。

「……不思議なのは、このメール私用の方で。俺そもそも連絡先なんて教えてないのに、どこから」

「あ、それはぼく」

 ウサギ耳を外し、トール先輩から変身しながら浅野先輩が言った。

「店長に聞かれて、普通に答えちゃった。まずかったの? ごめん」

 あっけらかんと謝られ、そうですかとしか言えなかった。

「明日から銀次君は掃除当番しなくていいわ、新人にでもやらせるから」

 俺は思わず浅野先輩の顔を見た。俺だけ掃除免除で気を悪くしたかどうか、いつもと同じ無表情からはわからなかった。

「絶対失礼のないようになさい。いい、お客様を怒らせたら首よ」

 店長は美しく笑って俺の肩を叩いた。

 帰りも浅野先輩は言葉少なだった。あれこれ話しかけるのも気が引けて、気まずいままおんぼろ寮の階段をのぼる。

「あのお客さんのこと、嫌いだったんだ。あーんなお金使ってくれるのにね」

 部屋に入ると浅野先輩はぼそりと言った。俺は黙って下を向いた。

「じゃあ同伴に使う店、相手に選ばせない方がいいよ。個室だと逃げ場がないから」

 相変わらず善意なのか悪意なのかよくわからない。

「それは嫌ですね。すげえ怖いんですよ、あのドム」

「贅沢者」

 先輩はハンガーにコートをかけながら、俺を横目で見た。

「ふたりきりがそんなに嫌なら、ぼくも押しかけちゃおうかな」

 淡々と言う先輩に、俺は目を丸くした。

「来てくれるんですか」

 今度は先輩が軽く焦り始めた。

「え、冗談で言ったんだけど。君はそれでいいの」

「お願いします」

「客を取られるかもとか、思わないの」

「怖すぎてぜひ差し上げたいレベルで」

 浅野先輩はあきらかに呆れているが、俺も必死だ。

「へー。じゃあ、同伴が初めてだからって名目で……」

「助かります」

「店長も先方も激怒しちゃうかもね。でもちょっと面白そう。こんなの初めて」

 先輩はくすくすと笑った。俺は心底ほっとしていた。あのクソ社長とふたりきりにならずに済むなら、多少叱られるぐらいどうということはない。

 先輩が来ることは伏せたまま、畑山社長とメールで日時をすり合わせた。日曜の夕方、午後五時に待ち合わせとなった。店については必死の攻防の結果、個室のない高級フレンチレストランに決まった。



「明日さぁ、嫌な仕事あんだよ。昼もここ来れねえから」

 土曜、拓馬の家でオムライスを食いながら、俺はこぼした。スプーンを刺すとぷつんと皮が破れ、きれいな黄色が溢れだす。

 治療の方は知らないが、拓馬はここ一か月で目覚ましく料理の腕を上げている。

「嫌だー、行きたくねー、拓馬の飯食いてー」

「俺も食わしたい。なんとかならんの?」

「ならねぇ……」

「そっか。じゃあ、明日の分もいっぱい食っとき」

 明日も飯は食うのだろうが、向かいに座る相手が悪い。味なんてしないに決まっている。俺はありがたくとろける卵を口に運ぶ。

「うめー」

「ほんと、素直になったね。かわいい」

 ドムの言葉がバターの香りとともに、ささくれだった心にふわりとしみ込む。

 噂によるとクリスさんは稼ぎの多くを女遊びに使っているという。客の機嫌をとるということは自分の機嫌を犠牲にすることだ。どうしたってしわ寄せがどこかに来る。一夜だけとはいえ大きな売上を手にした今、あの人たちがうらやましいとも思わなくなった。

 何せ俺には拓馬がいる。少々のんびり屋すぎてパートナーにしてくれる気配はまだないが、それでもほかのキャストたちより自分はずっと恵まれていたのだとわかった。申し訳ないほど幸福だ。

 食べ終わりたくない。オムライスはいつもよりずっとゆっくり減っていく。



 日曜は先輩の厳命により、先輩とともに百貨店へ服を買いに行った。正直、やっとの思いで稼いだ金がこんな使い道に消えるのがもったいなくて仕方なかった。何より拓馬と貴重な時間を過ごせないのが悔しい。

 服屋の試着室で着替えさせてもらって、約束の場所に直行する。畑山社長は先に来ていた。

「そっちの子は」

 さすがに怪訝な顔をしている。先輩は申し訳なさそうな笑顔を作った。

「すみません、この子同伴が初めてで、失礼があってはいけないとぼくに付き添いをお願いしてきたんです」

 俺は隣でこくこくと頷いた。

「君が来る方が普通じゃないだろう」

「まあまあ、そう仰らず。おまけがついてお得ということでー」

 浅野先輩はしれっと言った。

「どうなってるんだ、この店の教育は……まあいい、別に金を惜しんでいるわけじゃないんだ。食事を奢ればいいんだね?」

 呆れた表情を浮かべ、男は言った。

「わーい」

「終わったらふたりにしてくれ、このサブと話がある」

「わかりました、先にお店行ってまーす」

 俺はぎょっとした。そんな。俺だけ置き去りにされるのか。

「お、俺だって営業時間には間に合わないと……三人仲良く出勤しましょう、ねえ」

 置いて行かないで、という念をたっぷり視線に込める。

「店長に遅くなるって伝えといてあげるよ。ゆっくりしてきな」

 そんなに気軽にはしごを外さないで。

「もういいね。ついてきなさい」

 畑山社長はさっさと歩いて行ってしまった。浅野先輩はいそいで、俺はのろのろと後をついていった。

 ブランドショップが立ち並ぶ街を脇道に入り、畑山社長は止まった。小さなビルだが、明かりの使い方がどことなく独特で高級感がある。ドアを開けるとラグジュアリーな空気が表に流れ出した。

「予約していた畑山だ。二名の予定が三名になったが」

「承知いたしました。ではお忍び用のお部屋にご案内いたします」

「ああ」

 冷たい汗が背中をつたう。ネットで下調べしたが個室なんてなかったはず。

 ギャルソンはなぜかスタッフ用の通用口へ俺たちを案内する。後をついて階段をのぼると、事務所のドアにしか見えない実用的で武骨な扉がある。

「お入りくださいませ」

 丸いノブを開けた先は、一階の内装を濃縮したような小部屋だった。薄暗い部屋にキャンドルの明かりが揺れている。丸いテーブルを挟んで椅子がふたつ並んで、異様に親密な雰囲気を漂わせていた。

(帰りてえ)

 常連しか通さない隠し部屋。俺は運命が閉ざされていくのを感じる。

 ギャルソンは部屋の隅にあった椅子を動かして浅野先輩の席を作っている。逃げるなら今しかない。

「あの、と、トイレ、行きたいです……き、緊張、しちゃって」

 ドムはぎらりと俺をにらんだ。ぎん、と空気が音を立てた気がした。

「かまわないが、逃げるのはなしだ」

 きついグレアが俺の脳を焼く。情けないことに膝ががくがくと震えた。

「君、見張ってくれるか」

「はーい」 

 裏切り者の先輩に連れられ、俺は一階のトイレに入った。もう逃げる隙はない。目の前が真っ暗になる。

「逃がしてあげたいけど、それしたら店長に首にされちゃいそうだから、ごめんねー」

 個室に俺を押し込みながら、先輩は淡々と言った。

 それからなぜか少し微笑んだ。

「……君のドム呼ぶなら、今のうち」

 俺ははっとして顔を上げた。先輩は照れくさそうに目を逸らした。

「ぼくのアドバイスだって、誰にも言わないで。あと鍵閉めて。トイレでしょ」

「はい……!」

 俺はドアを閉めた。いそいでアプリを開いたところで我に返り、手が止まる。

(拓馬を巻き込んでいいのか)

 拓馬は人がいいから、きっとメッセージを見れば飛んでくる。そのとき畑山があいつに危害を加えない保証はない。ドム同士グレアを戦わせて、拓馬が負けてしまうことだってあり得る。自分の力についてあんなに悩んでいる奴に、これ以上負担をかけるのか?

(それに夜の店で働いてるのが拓馬にバレる)

 あいつは俺をどう思うだろう。軽蔑する? ショックを受ける?

 拓馬に連絡しない理由なら、無限にある。

「早くしないと、畑山さんがお待ちだよー」

 もう残り時間はない。先輩のドライな声が俺をやけくそにさせた。

(今の俺は俺だけのものじゃない)

 あの社長のものになるわけにはいかない。いつかパートナーにしてくれるという拓馬の言葉を信じるなら。

 ……そんな口約束、信じていいのか?

(うるせえ、信じたいんだよ!)

 親友を信じないで、いったい誰を信じるというんだ。震える指を画面に走らせる。

『ヤバい ドムと個室で二人きりにされそう 巻き込んでごめん 頼む 来てくれ』

 現在地と店名を添付して送信する。息を殺して十数える。

 いつもの拓馬なら返信がつくころだ。

 だが今夜にかぎって、既読がつく気配がない。じわじわと恐怖が俺の肌を這っていく。

「そろそろほんとにまずいから」

 浅野先輩が焦る声がする。もうダメだ。俺はうなだれた。

 畑山の力は強い。グレアを使われたら俺に勝ち目はない。契約で縛られ、あいつの言いなりになり、由紀子会長に土地を売らせるための駒になる――

(何かできないか……何か)

 藁をもつかむ気持ちで、俺はいそいで画面を操作した。それからドアを開けた。

「連絡ついた?」

 俺は首を横に振った。

「まあ、運が悪かったんだね。それよりいそいで」

 手を洗って階段を上っていく。

「遅いな。店にクレームを入れようかと思った」

「お待たせしてすみませーん、混んでたんですー」

 浅野先輩は顔色ひとつ変えずに言うと、ギャルソンに椅子を引いてもらって席に座った。ぼんやりと立っていると、ギャルソンは三つ目の椅子を引いた。

 微笑の下に「お早くお願いします」という無言の圧力が見える。俺は慌てて座った。このギャルソンにかかれば、電気椅子でもこの調子で囚人をほいほい座らせそうだ。

 オードブルが運ばれてくる。正直食欲などなかった。が、先輩がテーブルクロスに隠れ、足先でふくらはぎを小突いてくる。俺は仕方なくフォークを持った。巨大な皿にちんまりと乗った、栄養をとる役目を果たすのか疑わしい美麗な料理をつついて壊す。

 拓馬の料理をこの大皿に盛ったら、縁までいっぱいになるだろう。うっかりすると涙が浮かびそうだった。

 なんで答えてくれなかったんだ、拓馬。俺がよそのドムに取られてもいいのかよ。

「お仕事何されてるんですかぁ」

 俺のかわりに場を持たせようとしているのか、浅野先輩が言った。

「君が一生お客さんで来ることはなさそうな仕事、かな」

 畑山はにこやかに言った。浅野先輩の表情は崩れない。

「ご立派な仕事なんですねぇ」

「皮肉だよ? 君は本来ここにいちゃいけないんだから」

「ひどーい。銀次が逃げないように、ちゃんと因果含めておいたのに。ぼくを味方にしといた方が、いろいろお得だと思いません?」

 畑山は笑った。

「そんなに貫禄がないのかなぁ? 君の力を借りなくても大丈夫だよ」

「でも、グレアを使ってエッチなことさせちゃうのはダメですよぉ。お店に言いつけたら出禁ものです」

 浅野先輩はわざとらしい明るさで言った。

「君が言わなければいいんじゃないかな?」

 畑山は笑顔のまま、グレアを軽く漏らした。これにはさすがの浅野先輩も青ざめた。が、

「ぼくはあなたのために言ってるんです……この子があとあと騒いだら面倒なことになる。ぼくが誠心誠意、説得して差し上げます。もちろんタダではダメですけど」

先輩は早口で俺を売り始めた。この人、やっぱり敵なのか。

 畑山は肩をすくめた。

「最近のサブたちは本当にかわいくないな。ドムには逆らわない方がいいよ」

「そんな。銀次のこと、お好きなんでしょう? だったら気持ちを汲んで」

「この子は単なるおまけさ。私はほかにほしいものがある」

「無理ですよ」

 俺はからからの喉で笑って、会話に割り込んだ。

「トイレで由紀子会長に全部ばらしましたから。あんたが俺を寝取ろうとしてることも、全部」

 すでに読んだかどうかは知らないが、読んでいなくても時間の問題だ。

 畑山は無表情になった。

「なるほど。店を首になってもかまわないと」

「……ええ」

 こいつの言いなりになるぐらいなら。

「え、なんの話してるの」

 浅野先輩は静かに困惑している。

 畑山は冷ややかな目をした。

「忠誠心を示しておいて、あの婆さんに身請けしてもらえばいいという腹積もりだね。残念だが、それでも結果は変わらないよ」

「何したってあんたの負けでしょ」

 畑山は愉快そうに笑った。

「違う違う。君が何をばらしたところで、契約の上書きを恐れるなら、彼女は私の交渉に応じるはずさ」

「は?」 

 俺はぽかんとした。

「それだけの関係なら、君を辱めることを匂わすだけでも効きそうだ」

 俺は焦り始めた。こんな展開になるとは。

「いや、あの、勘違いしてるとこ申し訳ないんですけど、俺と由紀子会長、ほんと何もないんで。もんのすごい恥かいて終わるだけっすよ」

「君が心配しなくても試してみるさ」

「や、ほんとに、やめといた方が!」

 浅野先輩が視界の端でもぞついている。

「電話を置きなさい」

 畑山がそちらをにらみつけると、先輩はスマートフォンを耳にあてたまま固まった。畑山は猫なで声を出した。

「これ以上、私に逆らわない方がいい。君の面倒まで、あの婆さんも見てはくれないだろう?」

 先輩は唇を噛むと、ゆっくりとスマートフォンをしまった。畑山はにっこりと笑った。

「さあ、ディナーを続けようか。それからホテルの部屋に移って、彼女の連絡を待とうじゃないか」

 俺は唇を震わせた。頼みの綱は切れた。全部畑山の勘違いだがそれを説得する手だてがない。

 不安と畑山への嫌悪感がみぞおちにこみ上げる。俺は思わず口元に手をやった。

「怖くて食べられないか。仕方ないな」

「ぼくが食べます。こんなごちそう、めったに食べられないんで」

 浅野先輩がぎこちない笑みを作って、俺の前から皿を持って行った。食事を無理強いされないよう気を遣ってくれたのかもしれない。

 皿が運ばれていき、また別の皿がやってくる。畑山が悠々とカトラリーを使う音と、浅野先輩がもくもくと料理を咀嚼する音が部屋を満たしている。不安のあまり場違いな笑い声を立ててしまいそうだった。

 デザートも酒も終わった。畑山はナプキンで口を拭うとボーイを呼んで会計をした。

 畑山のあとについて階段を降りる。逃げる隙を伺ってはいるが、畑山はほぼ常にこちらを振り返り、監視してくる。

 外はもう真っ暗だ。

「えっと、ホテルってぼくも行くべきですか」

 レストランの外に出ると、浅野先輩がとぼけた。

「まさか。ここでさよならだ。ようやくね」

「ですよねー」

 浅野先輩はちらりと俺を見た。この人にしては珍しく、心配そうな色が小ぶりの瞳に浮かんでいる。

「今夜は本当にごちそう様でしたぁ。高級店でこんなにおなかいっぱい食べたの初めて」

「だろうね」

 畑山はドライに言った。

「つまらないお世辞はいいからさっさと行きなさい。私は車を待っているだけだ」

 黒っぽいタクシーがライトを光らせ、少し離れた場所に滑りこむ。あれがその車か。まずい。とっさに足が動いたが、駆けだす直前、畑山に手首を掴まれてしまった。

「往生際がよくないな」

「放せ」

 あの車に乗せられたら終わりだ。畑山と目を合わせるな。固くまぶたを閉じ、もがいた。

 エンジンが止まる音がした。これまでか。俺は薄目を開けた。タクシーのドアが開くのが見えた。

 客がひとり、転がり出るようにして車から出てきた。財布からこぼれた小銭が道にばらばらと転がっていく音がする。

「あーあ、大丈夫ですかお客さん」

 運転手の呆れ声にも、小銭の行方にも気を留めず、大男はレストランの方向へ駆けだした。

 街灯の下を通った瞬間、ゴールデンレトリバーを思わせるパーマヘアが光を散らした。

(あれは)

 俺は息を飲んだ。

 きれいな顔は歪んでいて、瞳の奥からグレアが漏れるのをこらえているように見えた。地面にころころ転がる小銭さえ足元に輝きを足している。

(来てくれた)

 温かい感覚が胸に広がった。なんてまぶしいんだろう、という素直な気持ちと、何やってんだあいつ、という呆れが入り混じる。

「拓馬……」

 思わずそうつぶやいたとき、俺の声に誰かの声がぴったりと重なった。どういうことだ。

 声のした方を見ると、畑山はわけがわからないというような顔で拓馬の方をぽかんと見つめている。

 え、なにこれ。

 拓馬はつんのめるように立ち止まった。目を見開いて畑山と俺とを交互に見る。単純な驚きを浮かべていた拓馬の瞳が、しだいに危険な色を帯びていく。

「その手を離せ」

 そこには知らない拓馬がいた。世界が凍り付いた気がした。拓馬の瞳がフラッシュのように光り、収縮する。

 肌がびりびりとひきつる。怒っている拓馬は見たことがある。だがこれは違う。憎悪だ。

「離せって言ってるだろ――父さん」

「え」

 俺は唖然とした。

 今、なんて。だって、苗字が違うのに。

 言われてみればどことなく似ているが。

「その子は俺のだ」

 今度は畑山が呆気にとられる番だった。そのはずみで、手首を掴んでいた奴の手が一瞬緩む。

 手を振りほどき、俺は拓馬のそばに逃げ込んだ。拓馬は畑山をにらみつけたまま、腕を伸ばして俺をかばった。

「おお」

 離れたところから小さな声が聴こえた。浅野先輩がビルの陰からこちらを覗いている。

 畑山は笑ったが、明らかにうろたえていた。

「なんだこれは。悪い夢か……こいつのパートナーが別人……しかも拓馬……バカバカしい……」

「だから違うって言っただろ」 

 拓馬の陰に隠れて、思わず俺はぼそりと言った。畑山は俺をにらんだ。

「私を侮辱してただで済むと思わないことだ」

「幸晴に何すんの」

 対抗するように、拓馬の目が夜闇に光る。畑山は乾いた笑い声を立てた。

「私の息子が水商売のサブに本気になるなんて、まさかだよ」

「水商売? 何それ」

 拓馬が唸った。

 今度は俺が窮地に立たされる番だった。

 まずい、バニーがバレる。話せば長くなるから説明はあとにしたい。どうごまかそうかと口を開いたが、畑山の方が先に口を滑らせた。

「その程度、いくらでも代わりはいるじゃないか。なんなら私が銀座の子を紹介してあげよう。これは親心だよ。あまりお前には親らしいことができなかったから、いい機会だ」

 しゅうと空気が音を立てた気がした。拓馬の拳、そして全身へ、筋肉の震えが伝わっていく。畑山がいちばん言ってはいけないことを言ったのだと、傍目にもわかった。

「母さんのこと不幸にして……挙句の果てに言うことがそれなの、父さん?」 

 そうか。こいつが拓馬の母親を精神不安に追い込んだ。

「お前は世間知らずだよ。サブなんて誰に踏まれても喜ぶ。このサブだってそうだった」

「踏んだ……?」

 拓馬は呆然と聞き返した。畑山はこともなげに答えた。

「靴跡がつくぐらいに」

 拓馬は震える息を吐いた。

「死んでよ」

 止める間もなく、拓馬は畑山につかみかかった。通行人が足を止め、こちらを振り返る。浅野先輩が「ヤバ」と慌てる声がする。

「ダメだ拓馬、そんな奴放っておけ」

「殴ればいいよ。捕まって困るのはこのサブとお前だ。いいお灸になる」

 畑山は目を光らせた。振り上げた拓馬の拳が一瞬、迷うように止まった。ひとつ、ふたつ、肩で息をする。

「あああああああ!!!」

 地面を揺らすように、拓馬は吠えた。

 畑山の顔が固まる。余裕の笑みがすうっと引いていく。こちらからは拓馬の顔は見えない。

 畑山はふらつくように後じさりし、やがて尻もちをついた。拓馬が殴ったのかと思った。だが拓馬の拳は宙で止まったままだ。

(力で、競り勝った……?)

 拓馬は息を切らしていた。畑山と同じぐらい蒼白な横顔だ。無感情な瞳で、地面に手をつく敗者を見下ろしている。

 状況を理解したのか、やがて拓馬はゆっくりと唇を吊り上げた。

「……死んでよ、父さん」

 畑山の首元を掴んで無理やり立たせる。拓馬の拳にふたたび力がこもるのが見えた。集まった人々が悲鳴を上げる。浅野先輩が顔色を変え、どこかへ電話を始めた。

「もういいだろ! ほんとに捕まる!」

 俺は拓馬の腹にしがみついた。

「止めるなよ! 全部こいつのせいなんだから!」

 ぎんと目を光らせたまま、拓馬は俺を見下ろした。

 怒らせた。魂の底から震えが来る。

「っ……あ……」

 なんで俺を嫌う。どうして。どうして――

「……幸晴!」

 ずるずるとしゃがみ込んだことにも気づいていなかった。

「ゆるして、俺は、お前を、止めたくて、それだけで……」

 涙が勝手に目から溢れてくる。ひく、ひぐ、と汚い音が喉から漏れる。

「怒ら、ないで、怒らないで、怒らない、で」

「幸晴……」

 拓馬は父親をどさりと道に捨てた。俺を抱き寄せ、呼吸を助けるように背中を撫でてくる。

「またやっちゃった……ごめん、幸晴、こわかったね」

 その瞬間、通行人も畑山も浅野先輩も、俺の世界から消えた。俺はドムの首にしがみついた。

「もう大丈夫だから。……行こう」

 背中と膝の下に拓馬の腕が回る。俺の身体がゆっくりと持ち上がる。騎士のように優しく、拓馬は俺を抱き上げている。

(仕事……なんて、もう、どうでもいいか……)

 俺は目を閉じて体重を預けた。





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