友達アルファが匂い立つまで②




二 



 チュウヤはゆっくりと目を覚ました。身体の下にはやわらかな感触がある。ベッドだ、とチュウヤは気づいた。身体には毛布が掛かっている。痛む頭を枕から上げ、チュウヤは周囲を見回した。
(ここ、どこ)
 チュウヤの住む一DKより少し広い。誰もいない。ベッドサイドに明かりがぼんやりとついている。その付近に自分のメガネが置いてあるのにようやく気づいた。チュウヤは手を伸ばしてメガネをかけた。誰かの家だな、とチュウヤは思った。きれいだがなんとなく生活の匂いがする。
 そのとき、がちゃがちゃと鍵穴を回す音が聞こえた。チュウヤは怯えて身体を固くした。
「ただいま。起きた?」
 部屋に入ってきたのは背の高い男だった。ああ、あの飲み会に参加してた人だ、とチュウヤは思い出した。くるくるとよく動く目をした、整った顔の男だった。遠いところに座っていて、いつもほかの人が話しかけていたからチュウヤは直接話してはいない。
 あの飲み会、ベータもいたんだ。チュウヤは意外に思った。アルファだったらフェロモンの香りがするはずだが、ベッドからもこの男からも、なんの匂いもしない。ベータはベータ同士、男女の組み合わせでしか子どもが産まれないから、アルファやオメガと混じって合コンするのは珍しい。
「えっと、えっと」
「酔いつぶれてたけど誰も家を知らなくて、じゃあ俺がって言って引き取ったの。いい匂いで熟睡してて、危なそうだったから」
 男はチュウヤのいるベッドに、長い脚を投げ出すように座った。この遠慮のない距離の詰め方にはどこか見覚えがあった。そうだ、この人は少しミチルに似ている。もちろん顔立ちは違うが、きらきらと活発に動く陽気な瞳は見ていて懐かしい。
「それはご迷惑をおかけしました、ありがとうございます」
 チュウヤが律儀に頭を下げると、男は大声で笑った。
「アルファに持ち帰られてお礼を言うなんて、変なオメガだなぁ!」
 チュウヤは言葉を失った。
 アルファ。そんな、この人、まったく匂いがしないのに。高校時代、厳しく生徒を取り締まっていた生活指導教諭の憂い顔が目の前をすうっと横切った。チュウヤがハンカチの匂いだけでユキトに恋したとき、谷中はチュウヤを叱るかわりに、アルファの性欲がいかに恐ろしいものかをとくと説教していた。
 谷中先生、ごめんなさい。こんな不道徳な展開になってしまうなんて。
「大丈夫、変なことはしてないから。君を家に置いてすぐ、コンビニに行ったし?」
 チュウヤが言葉を失っているのにも気づかず、無臭のアルファはビニール袋をがさがさと振った。その中に何か四角い箱が見えた気がして、チュウヤはさらに怯えた。見間違いだとは思うけど、あれってもしかして、例のゴム製品じゃないだろうか。谷中先生、助けて。
「そんな露骨にあとじさりしなくても。君がいいって言わなきゃ手は出さないよ。俺の自制心を信じなさい」
 男は笑っている。
「もう大丈夫です。ありがとうございました、し、失礼します」
 チュウヤはあわてて立ち上がった。
「ありゃ。俺、鼻には結構自信あったんだけどな」
 男は頬を掻いた。
「鼻?」
「フェロモン占いみたいな。結構得意なんだよね。初対面でこういうこと言うとセクハラかもしんないけど、君の匂いってさぁ、かなり甘くて主張が強いじゃない? おとなしそうな見た目して結構情熱的なのかもって。ロマンチストに多い」
 チュウヤは赤面した。結構あたっている。
「だからこう、ロマンチックに攫ったら恋でも始まんねえかな? なんて思ったんだけどね」
「は、始まりません」
「まあまあ、今からそう決めつけないでさ。連絡先ぐらい交換しようよ。合コンだとだいたいみんなするもんだよ」
「えっと」
「介抱してあげただろ? お礼と思って、さ」
 チュウヤは困惑したが、男の言っていることももっともかと思い、素直にスマートフォンを出した。
「はい、追加」
「せーじん、さん?」
 チュウヤはアカウント名を読み上げた。
「陣野セイでせーじん」
「はあ、陣野さんですね」
「君は木下チュウヤくん、覚えた。おうちどこ? ここ駅から遠いし、タクシーで送ってあげようか」
 チュウヤはつい丸めこまれて住所を口に出しかけたが、谷中の沈痛な面持ちが目に浮かんで思いとどまった。
「だ、大丈夫です、ひとりで呼べます」
「そう? じゃあせめてここで呼ぶといい。こんな遅くに、いい匂いのオメガが長時間ひとりきりは危ないよ」
 この人、ほんとにいい人なのか悪い人なのか、どっちなんだろう。戸惑いながらチュウヤはアプリでタクシーの配車を頼んだ。
「呼べた?」
「はい」
「お金持ってる? 貸そうか?」
「たぶん大丈夫です。クレカ決済にしてるので」
「ちぇっ」
 口を尖らせるとセイは立ち上がった。
「それじゃ、気を付けてね」
「お世話になりました」
 タクシーに乗り込むとチュウヤはほっと息をついた。こうして素直に帰してくれたんだから、やっぱりいい人だったのかな。チュウヤはスマートフォンをじっと見下ろした。
 あの人はミチルに似ていた。子どもみたいな瞳も、ぼくを型にはめずに見てくれるところも。
 匂いがしないし、ミチルに似すぎていて恋愛対象とは思えないけど、とチュウヤは考える。怖がらないで友だちになればよかったかもしれない。後悔に似たものがちらりとよぎった。あんなに明るい人だから、きっとたくさん友だちがいるだろう。ぼくのことなんかすぐ忘れるだろうし、きっともう、連絡をとりあうこともない。
 そう思っていた矢先にスマートフォンの通知が光った。『せーじん』からのメッセージだった。
『無事乗れた?』
 まめな人だな、とチュウヤは小さく微笑んで、おかげさまで、と返事をした。だがそれ以上のことを付け加える勇気は、まだチュウヤにはなかった。

 チュウヤの予想に反して、セイからの連絡は途切れなかった。
『会いたいな もっぺん香り占いしたい ハズレだったの悔しい』
 教室のベンチでメッセージを見たチュウヤは小さく笑った。
『ハズレとは言ってません』
『えっ当たってた? じゃあ俺脈ある?』
 チュウヤは少し困った。アルファと恋愛がしたい気持ちはもちろんある。が、今のセイに対する気持ちが恋ではないのは明らかだった。あの焼けこげるような欲も、自分が自分でなくなる感じもない。
『ごめんなさい そういう目では見られなくて』
 チュウヤは正直に答えた。
『まだないかー ってことなら友だちからならあり?』
 チュウヤの頬はほんのりと紅潮した。
『友だちでしたら、ぜひなりたいです』
『オッケーです じゃああくまで友だちとして聞くけど デートはいつにする?』
『友だちで会うのはデートじゃありません』
『細かいことは気にしない 映画とかどう?』
 チュウヤはますます頬を赤くした。大学生活でできた友だちと映画なんて、ぼくが夢見ていたことだ。
『行きたいです 何観ますか』
『そのとき決めよう。じゃあ明日の午後五時でいい? そっちの表門まで迎えに行くから』
『はい 楽しみにしてます』
 送信して顔をあげると、ミチルが目の前でにやにやしている。ぎょっとしたチュウヤはわけもなく画面を胸に伏せた。
「チュウヤご機嫌じゃん、どうしたの?」
「新しくできた友だちと映画行くことになって」
 親友はぱあっと明るく笑った。
「映画! いいなー、俺も今度ユキトに連れてってもらおっと! ハリウッドとかアメコミとか、バーンってでっかい音が鳴るやつ」
 ミチルは相変わらずだ。
 その日は楽しみであまり眠れなかった。チュウヤは約束の五分前に校門についたが、セイは先に到着していた。
「すみません、待ちましたか」
「いやいや、俺が勝手に早く来ただけだから。行こうか。渋谷でいい?」
「はい」
 電車に揺られながら、セイはつり革を片手に上映時間を確かめている。ユキトに会いに、ミチルといっしょに電車に乗った記憶が懐かしくチュウヤの胸をよぎった。あのときのぼくは自分がどんなに幸せか知らないで、勝手に失恋して泣いていたっけ。
「六時からのは間に合わないかな。先に飯にする?」
「そうですね、せっかくなので全部観たいですし」
「座れないといけないから、お店に予約入れとく?」
「そんないい店じゃなくていいです、ファストフードか何かで」
 チュウヤはあわてて言った。
「タクシー代、痛かった?」
 セイはにやりと笑った。チュウヤは曖昧に頷いた。
「俺、最初から奢るつもりだったけど?」
「そんな」
「友だちなんだし、こういうときは頼って」
 友だち、という言葉で胸が温かくなった。ぼくを友だちと呼んでくれる人が、もうひとりできた。
「で、でも、だったらなおさら、安い店じゃないと」
「わかった。その代わり敬語やめて。セイくんって呼んで」
   セイはチュウヤの顔を覗きこんで笑った。
「ありがとう、セイ、くん」
 人見知り特有の気恥ずかしさを我慢して、チュウヤは言った。
「よろしい」
 駅で降りて坂道の途中、セイはフレグランス専門店の前で足を止めた。
「ちょっと寄ってこ」
 匂いのないベータはもちろん、アルファやオメガも香水を使うことがある。自分のフェロモンと混ぜ、いつもと違う香りを楽しむためだ。チュウヤ自身はそんなおしゃれとは無縁だったから、こういう店には初めて入る。
「ほら、これ。チュウヤくんの香りにそっくり。人工的すぎるけどね」
 セイは練香水のテスターを嗅ぐとチュウヤに差し出した。瓶からは花に似た甘ったるい香りがした。女性におすすめと表示されている。
「ぼくの匂い、こんな感じなんだ」
 チュウヤはつぶやいた。自分の匂いは慣れのせいでほとんど意識しない。
「結構セクシーでしょ。おおっとなる感じ。というか、なった」
「そう、かな?」
「ほら、こっちは俺の匂い。紅茶っぽい。意外ってよく言われる。付けてみる?」
 えっ、と思いながらチュウヤはボトルを受け取った。しゅっと手首に吹くと、ベルガモットの香りがした。
 ぼくにはわからないだけで、この人、こんな優しい香りがするんだ。チュウヤが不思議に思っていると、セイはチュウヤの腕に鼻を寄せた。チュウヤの心臓が小さく跳ねた。一瞬、セイから香ったのだと錯覚したからだった。
「混ざってもいい匂い。あ、ごめん、近かった?」
 悪気のない顔でセイは言った。
「ううん、ちょっとびっくりしただけ」
「よし、これ買って、チュウヤくんにプレゼントしちゃおう。これでいつでもいっしょってね」
「えっ、でも」
 チュウヤは困惑した。香水をつけるのはぼくには似合わないだろうし、どうしよう。
「って、恋人っぽすぎるか。警戒させちゃったかな。出ようか」
 セイは照れくさそうに笑った。返事に困ったせいで、傷つけてしまったんだろうか。チュウヤは棚にボトルを戻して、いそいで後を追いかけた。
 ハンバーガーショップでは当たり障りのない話題になった。大学のこと、休日何をしているか、好きなもの、嫌いなもの。自分のことなのに案外うまく語れなくて、チュウヤは聞き役に回った。おかげでセイについては詳しくなった。猫より断然犬派だとか、好きなバンドのライブツアーに行くこととか。セイは専門店でのやりとりで特に機嫌を悪くした様子もなく、楽しそうに話している。チュウヤの方も、セイのことならいくらでも知りたいと思った。
「映画、どんなのが観たい?」
 食べ終わると、セイは検索画面でタイトルをスクロールして見せた。
「この洋画、かな」
 チュウヤは建物が爆発しているポスター画像を指さした。
「おっ、こういうの好きなんだ」
「ぼくじゃなくて、ぼくの友だち。面白かったら教えてあげようかなって」
「友だち」
 セイの顔から笑みが三割ほど減ったので、チュウヤは少し不安になる。どうしたんだろう。
「えっと、高校時代からいっしょの子で」
「あ、聖フィアナからの、ね。なんだ」
 セイの顔が五割り増しに明るくなった。眩しい。
「寮で同室だった子で。ちょっとセイくんに似てる」
 セイは複雑な顔をした。
「その子、オメガだよね? それは喜んでいいの? うーむ」
「もちろん。すごく明るくて優しい子」
 チュウヤは目を細めた。セイは頬杖をついて、チュウヤの顔を面白そうにのぞき込んだ。
「俺、そんな風に見えてるんだ?」
「違うの?」 
「いや、よかったなって思っただけ。そろそろ行こうか」
 セイは立ち上がった。
「うん」
 慣れない光と大音量に頭を軽くくらくらさせながら、チュウヤはセイと映画館を出る。
「楽しかったけど、ちょっと疲れた」
 チュウヤは笑ってため息をついた。
「数分に一回、何かしら爆発してたもんね。送ろうか。結構遅くなっちゃったし」
 セイは自然に言った。
 チュウヤは一瞬たじろいだ。匂いがしないからすぐ忘れちゃうけど、この人、ほんとはアルファなんだよな。そう意識すると、途端に谷中の憂い顔が頭の中に戻ってきてしまう。だがすぐにチュウヤはそんな自分が嫌になった。
(友だちを信じないなんて)
「タクシーがいい? 電車?」
 セイは畳みかけるように訊いた。
「じゃあ、電車で」
 気づくとチュウヤはそう答えていた。
 電車はあまり混んでいなかった。座席に座ってふと顔を上げると、目の前に座っている乗客は男女のカップルだった。女性は男性に腕を絡め、ぴったりと胸を沿わせている。至近距離で見つめあっていて、ふたりだけの世界に入っているのが傍目でわかる。あまりじろじろ見ても失礼だし、とチュウヤは目のやり場に困った。
「お幸せなんだろうねぇ」
 セイも苦笑している。
「車両変える?」
「大丈夫」
 人前でも関係なくなるくらいおたがいが好きなんだろうな、とチュウヤは考える。痛みのない、甘いだけの恋。いつかぼくにもそんな恋ができるんだろうか。チュウヤは幸せになった自分が想像できなかった。ぼくがまた誰かを好きになったところで、次も片思いで終わる気がする。
「どうした? 黙っちゃって」
「なんでもない」
 チュウヤは首を振った。
 アパートの前まで来ると、チュウヤはセイを振り返った。
「今日はありがとう。また遊ぼうね」
「うん」
 セイは少し歯切れ悪く言った。
「どうしたの?」
「今はさ、友だちでいいんだけど。君がそれ以上進みたくなったらいつでも言って。俺、待ってるから。それだけ」
 いつになく静かにセイは言った。チュウヤは困ってしまった。
「えっと」
「本気で、本心から、いいお友だちでいたいんだけどさ。俺、どうしてもアルファなんだよ。君のことかわいいって思っちゃうし、匂い嗅ぐとやっぱ来るし……カップル見てどぎまぎしてるのとか、君と俺がああなったらいいなって……ほら、わかるでしょ」
「セイくん」
 咎められたんだと勘違いしたのか、セイは両手を振った。
「いや、ほんと、危害とかは加えるつもりないから。君が友だちまでだって言うなら、ちゃんと我慢するから。ただ俺がそういう奴だって、すごく我慢してるってことは、ちょっとだけ、覚えててほしくて」
 チュウヤは俯いた。黙っている自分が不誠実に思えて仕方なかった。
「ごめんね、セイくんの匂いが、わかんないんだ」
「えっ」
 セイはショックを受けた顔をした。
「セイくんちで話したとき、最初ベータだと思っちゃって……今日香水嗅いで初めて、こんな素敵な匂いがするんだって」
「そっか」
 セイは額を手に埋めた。
「だから」
「うん、わかった。それ以上言わなくていいよ。オメガにとってアルファの匂いって、いちばん大事だもんな。俺は最初からダメだったんだ、そっか」
 セイは早口になった。
「セイくん」
「クソ、俺、諦めらんないよ。どうすりゃいいんだろうな。それこそ香水つけて、匂い足しちゃおっか、とか、はは」
 チュウヤの胸がきりきりと痛んだ。本当のことなんて、言わなければよかった。
「ごめんね」
「謝ることなんかないよ。どこにもないよ。俺が変に期待しちゃったのが悪い」
 セイは無理に笑っているのだとわかった。
「うん、そのままでいい。友だちで、匂いわかんないままでいい。だからこれからも、いっしょに遊ぼう」
「いいの?」
「言っただろ。君の友だちでいたいのは本心なんだ。だから悲しそうな顔しないで大丈夫」
 セイの声が震えている。
「ありがとう、セイくん」
 この人に恋ができたらよかったのに。
「じゃあ、また連絡するね」
「うん、待ってる」
 セイは挙げた手をポケットに突っ込んで、背を向けた。チュウヤはうしろ姿をしばらく眺めてから、アパートの中に入った。
(でも、こうするしかなかった)
 チュウヤは自分に言い聞かせながら、階段を上る。セイの匂いがわからない欠陥がある以上、彼と付き合う資格は最初からない。
 不安定なかたちに欠けた月が踊り場の上にかかっている。
(匂いさえわかったら、よかった)
 チュウヤは手首にそっと鼻を近づけた。数時間前に吹きつけた甘いベルガモットの香りはもうほとんど消えかかっている。
(好きな匂い)
 香料だから、身体の奥に熱が灯ることはない。だがかすかに残った香りはどこまでも優しかった。



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