友達アルファが匂い立つまで⑥(終)
六
セイはチュウヤと買ったエッセイ本をぱんと畳んで、ベッドに置いた。あのときは面白いと思ったのに、ひとりで読むとそうでもなかった。まあ、チュウヤくんといっしょに買ったという思い出の品にはなったから、いいとするか。そう思いながら寝返りを打つと、スマートフォンにメッセージが来た。チュウヤくんだといいな、と思って緩んだセイの顔が、画面を見るなり一瞬で無表情になる。兄からだった。
『コウキとは別れた』
セイは困惑した。コウキ可愛さにあれほどセイを疑っていたくせに、何があったというんだろう。
『なんで?』
『喧嘩してるうちに幻滅した それだけだ』
セイはそう、とだけ返事した。たしかにコウキは腹を立てるとぼろを出しやすい。
『昨晩、木下くんに会いに行った』
セイは顔色を変えた。兄からのメッセージはまだ続いた。
『木下くんの主張がコウキの言っていることと矛盾すると言ったら、コウキはやけに感情的になってまともな話ができなくなった 俺とあの不細工とどちらを信じるんだとか 最後は出て行ってしまったが追う気にもならなかった 俺はただ事実を確認したかっただけだ』
『ちょっと待って 会いに行ったって』
『コウキからアパートの場所を聞いて 郵便ボックスにフルネームが書いてあったから、部屋番号を割りだして部屋まで行った』
セイは跳ね起きた。
『おい 何もしてないだろうな』
『お前こそあの子とちゃんと付き合ってないそうじゃないか』
『ちゃんと答えろ』
『やっぱりあの子に不誠実な真似をしてるのか』
なんの話をしているんだ、兄さんは。セイは話をはぐらかされているのだと思った。
『いい加減にしてくれ 俺は何もしてない 兄さんがチュウヤくんに何かしたんじゃないかって聞いてるんだ』
『お前みたいなだらしない奴に言う義理はない』
セイは叫びだしたくなった。
『また俺のものをとるつもりなのか』
『お前がもっとまともなら話は別だった コウキの件については悪かったとは思っている どうせコウキに未練が残っているから木下くんとのことはうやむやにしているんだろう コウキはお前に返してもいい』
怒りで頭が割れるかと思った。
『冗談じゃない チュウヤくんを襲ったら俺が許さない』
『付き合ってもいないくせにそんなことを言えた立場か ともかく俺は木下くんに義理は果たした お前にコウキがフリーになったことを伝えてほしがっていた コウキをどうするかはお前次第だと』
セイは絶句した。最初、コウキとセイはお似合いだと思った。そうチュウヤが言っていたことを思い出していた。
『それはどういう意味だ』
『さあ もしかしたらあの子なりにお前との関係を終わらそうとしているのかもしれないな』
セイはいてもたってもいられず部屋を飛び出した。
チュウヤくんに会わないと。無事を確かめないと。兄さんにとられてしまう。いらなくなったコウキを押し付けられて、今度は本当に大事なひとを奪われてしまう。それだけは嫌だ。死んでも嫌だ。風を切り、無我夢中で夜道を走っていく。
本当に怖いのは。セイは唇を噛む。チュウヤくんが俺と兄さんを比べて、兄さんを選ぶことだ。俺を強いと言ってくれたのも、まだ兄さんを知らなかったからだ。
駅の改札に飛び込んで、じりじりと電車を待ち、乗り込む。いくつかスマートフォンに通知が来ていたが、どうせ兄からだろうと思って気にも留めなかった。
想像の中でチュウヤが兄に抱かれている。自分が見せてもらったことのないオメガの顔をして、頬を染め、溶けるような目をして。兄さんの匂いは強いからきっとわかるだろう。劣等感が身体の中で欲情に変わる。
こんなことになるなら無理やりにでも抱いてしまえばよかった。本能がセイを責める。全部お前の臆病さのせいだ。友だちなどといううそをつき続けたからだ。今からでも遅くはない。自分の醜さをさらけ出せ。舐め切っていた男の正体をあの子に突きつけろ。泣いて嫌がるあの子を押さえつけ、咬んで、孕ませて、その一生を自分に縛りつけてしまえ。
(違う! 俺はチュウヤくんを兄さんから守りたいだけだ)
自制する心の声はひどく弱々しかった。
チュウヤのアパートにつく。どくどくと耳の中に鼓動が反響している。郵便受け。あった。木下(チュウヤ)。木下という姓の人間がほかにも住んでいるらしく、ご丁寧に名前がかっこ書きされている。二〇九号室。
セイは階段を静かに上った。獲物を狙うときの本能なのかもしれなかった。ドアの前に立つ。この向こうにきっと無防備なオメガがいる。
(あの子の無事を確かめるだけ、それだけだ)
セイは自分に言い聞かせ、インターホンのボタンを押した。
『セイくん? どうしたの、ずっと既読つかないし心配してたんだよ』
声を聞くと、最後の理性が蒸発した。
「チュウヤくん、俺だよ。開けてよ」
セイはわざと猫なで声を出した。
『えっと、それは』
チュウヤは明らかに躊躇した。セイの劣等感が一気に溢れだした。
「どうして? 兄さんは部屋に通したんでしょ。兄さんから聞いたよ」
『それはセイくんの冤罪を晴らしたくて』
やはり事実だった。強烈な痛みがセイの胸を刺した。
「そうか、俺のためだったんだ、うれしいな。ねえ、ここ開けてよ。友だちだよね?」
『セイくん、なんか様子が変』
チュウヤは怯えている。やっと俺が危ないって気づいてくれた。セイは上擦った声で笑った。
「変になるに決まってるよ! 兄さんにとられちゃったかもしれないんだもん」
『とられたって?』
「チュウヤくんをだよ。あの人、俺のものはみんな持ってっちゃうんだ。いらなくなったものだけ俺にくれるんだ。服とか、ゲームとか、コウキとか」
『セイくんのお兄さんはぼくには何もしてないよ』
チュウヤは困惑した声をしている。
「俺、心配だよ。確かめさせてよ。咬まれてないか。そのきれいな首に兄さんの歯形がついてないか」
『大丈夫だって』
「なんで!」
思わず大声が出た。スピーカーの向こうでチュウヤが息を飲んだ気配がした。
「なんで俺だけ部屋に入れてくれないんだ。兄さんは入れたのに!」
『そ、それは』
セイはふっと笑った。
「俺、そこまで嫌われてたんだね、君に。もう友だちとしてもダメなんだね」
『そうじゃない! ねえ、セイくん、いったいどうしたの』
「友だちじゃないなら、もういいよね。好きだよ、チュウヤくん」
ドアに手をついて、すがるようにセイは言った。
『待って』
「うそついてて、ごめんね? 君のことそういう目でしか見たことなかったくせに、嫌われたくなくてさ。でも、もうおしまいだ。ねえ、抱かせて。兄さんにとられるぐらいなら死んでやる」
『セイくん!』
悲鳴に似た、泣きそうな声がした。効いたな、とセイは思った。
「俺のこと、嫌い? 死んでもいい?」
セイはなりふり構わず畳みかけた。
『よくないに決まってるよ! でもぼくにはセイくんの匂いが』
「だからアルファだって思えない?」
セイはドアの表面に爪を立てた。これさえなければ、チュウヤくんに今すぐ俺がアルファだということを教えてあげられるのに。
『そうじゃない、セイくんは、セイくんの匂いがわかるひとと付き合う方が』
チュウヤは慌てた声で言った。
「俺はそんな奴いらないの。誰でもないチュウヤくんがいい」
チュウヤは黙った。
『だって、ぼくにはそんな資格、ないよ』
悲しそうな響きだった。セイはゆっくりと我に返った。今だけは正気で言葉を聞かなければならないと何かが告げていた。
「チュウヤくん?」
『ぼくは絶対セイくんの運命じゃないから』
不安げな声が、細くスピーカーから響いた。セイは夢を見ているような気持ちになった。俺の運命のオメガになりたいと、チュウヤくんは一度でも思ってくれていたのか?
「運命だよ」
気づけばセイは言いきっていた。迷いはなかった。
「運命は俺が決める。どんなオメガが現れたって、俺は君が、君だけがいい」
『ちゃんと発情できないよ』
「いい。俺以外のアルファの匂いで発情したっていい。君が俺のものになるなら。俺だけに触れさせてくれるなら」
セイの声は欲でざらついた。
沈黙があった。セイは狂おしい気持ちで答えを待った。
『昔、匂いだけで知らないひとを好きになったことがあって』
チュウヤはぽつりと言った。何を言い出したんだろう。困惑とともに、嫉妬がセイの胸を焼いた。俺の匂いはわかりもしなかったのに。
『そのときの感じと、セイくんに対する気持ちが全然違って……だから恋じゃないかもしれないんだ。自分のことなのに、わかんないんだ』
「でも、恋かもしれない?」
答えが肯定であってくれ。セイは祈るように訊いた。
『セイくんの匂いがわかったらって何度も思った。ここを開けたくなかったのは……』
チュウヤの声が恥ずかしそうに震えた。
『ちょっと待ってて』
ぶつりと通話が切れると、ドアの鍵が鳴った。セイは息を殺している。
薄くドアが開いた。光とともに香りが溢れだした。セイは目を見開いた。
チュウヤの甘い香りに混ざり、溶けあっているのは、自分の香りだった。
「覚えてる? セイくんの匂いに似てる香水……匂いが忘れたくなくて、あのお店にもう一度行って……こんなのセイくんに知られたら恥ずかしくて」
セイはごくりと唾を飲んだ。
「思い過ごしじゃ、なかったんだ」
セイが震える声でつぶやくと、チュウヤはさっと赤面した。
「気づいてたの」
セイは答えるかわりにドアを押し開けた。身体の中で熱がぐらぐらと煮えたぎっていた。
「セイ、くん」
チュウヤは驚いた様子で一歩下がった。
「俺の匂い」
セイはチュウヤの手首をとって引き寄せた。もう自分が何をしているのかもわからない。チュウヤは困惑したように瞳を揺らしている。
「俺の匂いだ」
セイは自分より小さな身体を抱きしめた。髪に顔を埋めると、甘いオメガの匂いが呼吸器から下腹部を廻った。
「俺に黙ってあの香水、ずっと使ってたんだ」
オメガはびくりとした。
「好きな子が、こんな……我慢できるわけないよ、チュウヤくん」
耳に唇を寄せ、セイは言った。チュウヤの耳は赤く、熱くなっていた。
「もう、いいよね。友だちじゃなくて。俺のにして、いいよね」
腕の中でチュウヤの呼吸が早くなっていく。身体が強張り、小刻みに震える。チュウヤはぎゅっとセイのシャツを握った。
「どうしたの」
「セイくんの、匂い」
甘いかすれ声がセイの鼓膜を震わせる。スウェットの下で肌が発熱しているのがわかる。
「本物だ、これ、香水じゃない……やっと、ちゃんと、わかった」
しゃくりあげるように呼吸しながら、オメガはセイを見上げている。
「この匂い、好きだ。ぼくが知ってる、どのひとより」
メガネをかけた目はいっぱいに潤んで、縁を赤くしている。セイは目を逸らすことができないまま、唾を飲んだ。
「よかった、ぼく、セイくんのこと、好きになっていいんだ」
チュウヤの頬に涙がこぼれた。
「ちゃんと資格があったんだ……」
目の前にいるのがアルファだと本能で認識した、無力なオメガがそこにいた。セイが見たいと渇望し続けてきた表情だった。
「来て、セイくん」
セイはそれ以上言わせはしなかった。身体を屈め、薄く開いたチュウヤの唇を奪う。唇を挟むように味わえば、発情した甘い匂いが一気に玄関にあふれた。セイを極度に興奮させる唯一の匂いだった。セイは舌を絡めながら、ドアを後ろでそっと閉めた。
『コウキとは別れた』
セイは困惑した。コウキ可愛さにあれほどセイを疑っていたくせに、何があったというんだろう。
『なんで?』
『喧嘩してるうちに幻滅した それだけだ』
セイはそう、とだけ返事した。たしかにコウキは腹を立てるとぼろを出しやすい。
『昨晩、木下くんに会いに行った』
セイは顔色を変えた。兄からのメッセージはまだ続いた。
『木下くんの主張がコウキの言っていることと矛盾すると言ったら、コウキはやけに感情的になってまともな話ができなくなった 俺とあの不細工とどちらを信じるんだとか 最後は出て行ってしまったが追う気にもならなかった 俺はただ事実を確認したかっただけだ』
『ちょっと待って 会いに行ったって』
『コウキからアパートの場所を聞いて 郵便ボックスにフルネームが書いてあったから、部屋番号を割りだして部屋まで行った』
セイは跳ね起きた。
『おい 何もしてないだろうな』
『お前こそあの子とちゃんと付き合ってないそうじゃないか』
『ちゃんと答えろ』
『やっぱりあの子に不誠実な真似をしてるのか』
なんの話をしているんだ、兄さんは。セイは話をはぐらかされているのだと思った。
『いい加減にしてくれ 俺は何もしてない 兄さんがチュウヤくんに何かしたんじゃないかって聞いてるんだ』
『お前みたいなだらしない奴に言う義理はない』
セイは叫びだしたくなった。
『また俺のものをとるつもりなのか』
『お前がもっとまともなら話は別だった コウキの件については悪かったとは思っている どうせコウキに未練が残っているから木下くんとのことはうやむやにしているんだろう コウキはお前に返してもいい』
怒りで頭が割れるかと思った。
『冗談じゃない チュウヤくんを襲ったら俺が許さない』
『付き合ってもいないくせにそんなことを言えた立場か ともかく俺は木下くんに義理は果たした お前にコウキがフリーになったことを伝えてほしがっていた コウキをどうするかはお前次第だと』
セイは絶句した。最初、コウキとセイはお似合いだと思った。そうチュウヤが言っていたことを思い出していた。
『それはどういう意味だ』
『さあ もしかしたらあの子なりにお前との関係を終わらそうとしているのかもしれないな』
セイはいてもたってもいられず部屋を飛び出した。
チュウヤくんに会わないと。無事を確かめないと。兄さんにとられてしまう。いらなくなったコウキを押し付けられて、今度は本当に大事なひとを奪われてしまう。それだけは嫌だ。死んでも嫌だ。風を切り、無我夢中で夜道を走っていく。
本当に怖いのは。セイは唇を噛む。チュウヤくんが俺と兄さんを比べて、兄さんを選ぶことだ。俺を強いと言ってくれたのも、まだ兄さんを知らなかったからだ。
駅の改札に飛び込んで、じりじりと電車を待ち、乗り込む。いくつかスマートフォンに通知が来ていたが、どうせ兄からだろうと思って気にも留めなかった。
想像の中でチュウヤが兄に抱かれている。自分が見せてもらったことのないオメガの顔をして、頬を染め、溶けるような目をして。兄さんの匂いは強いからきっとわかるだろう。劣等感が身体の中で欲情に変わる。
こんなことになるなら無理やりにでも抱いてしまえばよかった。本能がセイを責める。全部お前の臆病さのせいだ。友だちなどといううそをつき続けたからだ。今からでも遅くはない。自分の醜さをさらけ出せ。舐め切っていた男の正体をあの子に突きつけろ。泣いて嫌がるあの子を押さえつけ、咬んで、孕ませて、その一生を自分に縛りつけてしまえ。
(違う! 俺はチュウヤくんを兄さんから守りたいだけだ)
自制する心の声はひどく弱々しかった。
チュウヤのアパートにつく。どくどくと耳の中に鼓動が反響している。郵便受け。あった。木下(チュウヤ)。木下という姓の人間がほかにも住んでいるらしく、ご丁寧に名前がかっこ書きされている。二〇九号室。
セイは階段を静かに上った。獲物を狙うときの本能なのかもしれなかった。ドアの前に立つ。この向こうにきっと無防備なオメガがいる。
(あの子の無事を確かめるだけ、それだけだ)
セイは自分に言い聞かせ、インターホンのボタンを押した。
『セイくん? どうしたの、ずっと既読つかないし心配してたんだよ』
声を聞くと、最後の理性が蒸発した。
「チュウヤくん、俺だよ。開けてよ」
セイはわざと猫なで声を出した。
『えっと、それは』
チュウヤは明らかに躊躇した。セイの劣等感が一気に溢れだした。
「どうして? 兄さんは部屋に通したんでしょ。兄さんから聞いたよ」
『それはセイくんの冤罪を晴らしたくて』
やはり事実だった。強烈な痛みがセイの胸を刺した。
「そうか、俺のためだったんだ、うれしいな。ねえ、ここ開けてよ。友だちだよね?」
『セイくん、なんか様子が変』
チュウヤは怯えている。やっと俺が危ないって気づいてくれた。セイは上擦った声で笑った。
「変になるに決まってるよ! 兄さんにとられちゃったかもしれないんだもん」
『とられたって?』
「チュウヤくんをだよ。あの人、俺のものはみんな持ってっちゃうんだ。いらなくなったものだけ俺にくれるんだ。服とか、ゲームとか、コウキとか」
『セイくんのお兄さんはぼくには何もしてないよ』
チュウヤは困惑した声をしている。
「俺、心配だよ。確かめさせてよ。咬まれてないか。そのきれいな首に兄さんの歯形がついてないか」
『大丈夫だって』
「なんで!」
思わず大声が出た。スピーカーの向こうでチュウヤが息を飲んだ気配がした。
「なんで俺だけ部屋に入れてくれないんだ。兄さんは入れたのに!」
『そ、それは』
セイはふっと笑った。
「俺、そこまで嫌われてたんだね、君に。もう友だちとしてもダメなんだね」
『そうじゃない! ねえ、セイくん、いったいどうしたの』
「友だちじゃないなら、もういいよね。好きだよ、チュウヤくん」
ドアに手をついて、すがるようにセイは言った。
『待って』
「うそついてて、ごめんね? 君のことそういう目でしか見たことなかったくせに、嫌われたくなくてさ。でも、もうおしまいだ。ねえ、抱かせて。兄さんにとられるぐらいなら死んでやる」
『セイくん!』
悲鳴に似た、泣きそうな声がした。効いたな、とセイは思った。
「俺のこと、嫌い? 死んでもいい?」
セイはなりふり構わず畳みかけた。
『よくないに決まってるよ! でもぼくにはセイくんの匂いが』
「だからアルファだって思えない?」
セイはドアの表面に爪を立てた。これさえなければ、チュウヤくんに今すぐ俺がアルファだということを教えてあげられるのに。
『そうじゃない、セイくんは、セイくんの匂いがわかるひとと付き合う方が』
チュウヤは慌てた声で言った。
「俺はそんな奴いらないの。誰でもないチュウヤくんがいい」
チュウヤは黙った。
『だって、ぼくにはそんな資格、ないよ』
悲しそうな響きだった。セイはゆっくりと我に返った。今だけは正気で言葉を聞かなければならないと何かが告げていた。
「チュウヤくん?」
『ぼくは絶対セイくんの運命じゃないから』
不安げな声が、細くスピーカーから響いた。セイは夢を見ているような気持ちになった。俺の運命のオメガになりたいと、チュウヤくんは一度でも思ってくれていたのか?
「運命だよ」
気づけばセイは言いきっていた。迷いはなかった。
「運命は俺が決める。どんなオメガが現れたって、俺は君が、君だけがいい」
『ちゃんと発情できないよ』
「いい。俺以外のアルファの匂いで発情したっていい。君が俺のものになるなら。俺だけに触れさせてくれるなら」
セイの声は欲でざらついた。
沈黙があった。セイは狂おしい気持ちで答えを待った。
『昔、匂いだけで知らないひとを好きになったことがあって』
チュウヤはぽつりと言った。何を言い出したんだろう。困惑とともに、嫉妬がセイの胸を焼いた。俺の匂いはわかりもしなかったのに。
『そのときの感じと、セイくんに対する気持ちが全然違って……だから恋じゃないかもしれないんだ。自分のことなのに、わかんないんだ』
「でも、恋かもしれない?」
答えが肯定であってくれ。セイは祈るように訊いた。
『セイくんの匂いがわかったらって何度も思った。ここを開けたくなかったのは……』
チュウヤの声が恥ずかしそうに震えた。
『ちょっと待ってて』
ぶつりと通話が切れると、ドアの鍵が鳴った。セイは息を殺している。
薄くドアが開いた。光とともに香りが溢れだした。セイは目を見開いた。
チュウヤの甘い香りに混ざり、溶けあっているのは、自分の香りだった。
「覚えてる? セイくんの匂いに似てる香水……匂いが忘れたくなくて、あのお店にもう一度行って……こんなのセイくんに知られたら恥ずかしくて」
セイはごくりと唾を飲んだ。
「思い過ごしじゃ、なかったんだ」
セイが震える声でつぶやくと、チュウヤはさっと赤面した。
「気づいてたの」
セイは答えるかわりにドアを押し開けた。身体の中で熱がぐらぐらと煮えたぎっていた。
「セイ、くん」
チュウヤは驚いた様子で一歩下がった。
「俺の匂い」
セイはチュウヤの手首をとって引き寄せた。もう自分が何をしているのかもわからない。チュウヤは困惑したように瞳を揺らしている。
「俺の匂いだ」
セイは自分より小さな身体を抱きしめた。髪に顔を埋めると、甘いオメガの匂いが呼吸器から下腹部を廻った。
「俺に黙ってあの香水、ずっと使ってたんだ」
オメガはびくりとした。
「好きな子が、こんな……我慢できるわけないよ、チュウヤくん」
耳に唇を寄せ、セイは言った。チュウヤの耳は赤く、熱くなっていた。
「もう、いいよね。友だちじゃなくて。俺のにして、いいよね」
腕の中でチュウヤの呼吸が早くなっていく。身体が強張り、小刻みに震える。チュウヤはぎゅっとセイのシャツを握った。
「どうしたの」
「セイくんの、匂い」
甘いかすれ声がセイの鼓膜を震わせる。スウェットの下で肌が発熱しているのがわかる。
「本物だ、これ、香水じゃない……やっと、ちゃんと、わかった」
しゃくりあげるように呼吸しながら、オメガはセイを見上げている。
「この匂い、好きだ。ぼくが知ってる、どのひとより」
メガネをかけた目はいっぱいに潤んで、縁を赤くしている。セイは目を逸らすことができないまま、唾を飲んだ。
「よかった、ぼく、セイくんのこと、好きになっていいんだ」
チュウヤの頬に涙がこぼれた。
「ちゃんと資格があったんだ……」
目の前にいるのがアルファだと本能で認識した、無力なオメガがそこにいた。セイが見たいと渇望し続けてきた表情だった。
「来て、セイくん」
セイはそれ以上言わせはしなかった。身体を屈め、薄く開いたチュウヤの唇を奪う。唇を挟むように味わえば、発情した甘い匂いが一気に玄関にあふれた。セイを極度に興奮させる唯一の匂いだった。セイは舌を絡めながら、ドアを後ろでそっと閉めた。
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