友達アルファが匂い立つまで④
四
元恋人からの連絡などすっかり忘れて、セイは浮かれた気分で一週間を過ごした。ボールをバスタオルで包んだ、宣言通りの巨大てるてる坊主を作成してチュウヤに写真を送ったのが功を奏したのか、当日はよく晴れて暖かかった。公園は広くて待ち合わせ場所を見つけるのに少し苦労したが、何度かメッセージのやりとりをしてチュウヤと合流した。
チュウヤは大きな袋を手に提げている。前に言っていた、作りすぎの料理だろう。
「お待たせ」
「大丈夫」
にっこりと笑うチュウヤに、セイは違和感を覚えた。チュウヤ自身の甘い匂いに、ごくうっすらと別の匂いが混じっている気がした。セイはどきりとした。
(この匂い、俺の、匂い……?)
思い過ごしかもしれないような、わずかな香りだった。だが理性とは無関係に、下腹が思わずかっと熱くなる。自分の匂いでマーキングされたオメガがそこにいた。
本能的に人目のつかない場所を探している自分に気づいて、セイは自己嫌悪する。何を考えているんだ、俺は。友だちに向かって。
チュウヤは何も気づいていない様子でにこにこしている。セイの胸に訊きたいことが溢れかえった。
ねえ君、俺の匂い、しない? もしかしてあの香水、買った? どんな気持ちでその香水をつけた? 俺のことアルファだって認めてくれた? 俺のものになりたくなった?
(そんなこと聞いたらまた怯えさせるだけだろうが)
もうひとつの声がセイを押しとどめた。それに、あれが例の香水だったという確信は持てない。気を付けて嗅いでみたが、香りはもう風で散ってしまってわからなかった。
気のせいだ。俺の願望が鼻を狂わせただけ。セイは自分に言い聞かせる。
「来てくれてうれしい。セイくんに嫌われちゃったんじゃないか、あのまま会えなくなっちゃうんじゃないかって心配で」
チュウヤははにかんでいる。これで期待しちゃいけないっていうのか。セイは内心呻いた。
「嫌いになるわけないよ」
「よかった、ありがとう」
笑顔を直視できなくなって、セイは視線を逸らした。やめて、おいしそうにしないで。
「ここがいいかな」
テーブルのあるベンチを探し出して、チュウヤはサンドイッチやサラダの入った紙箱を並べた。青空の下で野菜のオレンジや緑がつやつやと光った。
「具のミートローフはミチルといっしょに作ったんだ。こっちのマリネとお菓子も」
「なんか食べちゃうのが惜しいな、食べるけど。いただきます」
セイはいつもより口数が少なく、代わりにびっくりするほどよく食べた。
(匂い、バレてないよな……?)
チュウヤはほんのりと不安になる。あの香水はここ二日使っていない。シーツも洗濯したばかりだし、朝念入りにシャワーを浴びたから絶対にわからないはず。
「おいしかった、ごちそうさま」
セイはハンカチで手と口を拭いて、片づけを手伝い始めた。
「おなか空いてたんだ」
「うん、すごく」
紙皿を重ねながらセイは言った。一瞬チュウヤを凝視したようだったが、なんだったんだろう。チュウヤは少し赤くなった。
「このあとどうする? 観覧車があるみたいだけど。せっかくだから乗ってみる?」
セイは公園の向こうを指さした。青空の下でゴンドラがゆっくりと回っている。
「いいね、乗ろう」
観覧車の方へ向かいながら、ふたりはとりとめのない話をした。勉強ばかりしていたせいで自分の話題はすぐになくなってしまって、チュウヤは代わりにミチルの話をした。
「一時間ぐらい前から、向こうのお母さんと会ってるらしくて。うまく行くといいな」
「大丈夫じゃない? その子絶対いい子でしょ。なんせ俺に似てるんだから、はっはっは」
セイはおどけている。
係員の案内で中に向かい合わせで乗り込む。ゴンドラがゆっくりとのぼっていく。木々の向こうに、埋立地ばかりでいびつな形の海が見えてくる。午後の光を受けて、パズルのようなかたちの海はまぶしく光った。
「きれいだね、景色」
チュウヤはそう言ってセイに微笑んだ。セイは景色を見る代わりに、にこにことチュウヤを見つめている。
「あっ、富士山」
チュウヤは照れ隠しに外を指さした。
「今日は天気がいいからね、あっちもこっちが見たいんだろ。自慢しちゃお。俺は今チュウヤくんと観覧車乗ってます、イェーイ」
「何それ」
笑ったおかげで緊張が解けていく。
「いい顔。ね、いっしょに写真撮ろう」
「富士山は映んないかも」
「いいのいいの」
セイは軽く肩を近づけてスマートフォンを構えた。チュウヤもおずおずと身体を寄せた。フラッシュが光った。
(あれ)
「よく撮れた。一生とっとこ」
(今、セイくんの身体から……)
何も匂いがしないはずのセイの身体から、甘い匂いがしたような。あの紅茶の匂いではなく、別の――そうだ、ちょうど専門店でセイがチュウヤの匂いだといって差し出した、あのテスターの香りに似ている。
(ないない、そんなの)
あの香水をセイが買ってつけているなんて、そんなはずはない。ぼくじゃあるまいし。チュウヤは自分のしていることを客観視してしまって、ひとり赤面した。
(ゴンドラが狭いから、ぼくの匂いが移っただけに決まってる)
そのとき、チュウヤのスマートフォンが振動した。
「ちょっとごめんね」
画面を見るとミチルからだった。
『ユキトがユキトのお母さんと喧嘩しちゃった 大失敗だ どうしよう』
チュウヤは思わず息を飲んだ。
「どうしたの、チュウヤくん。なんかあった?」
セイはチュウヤの顔を覗きこむ。
「どうしよう、ミチルが……」
言い淀んでいるうちにメッセージが増えた。
『ユキトのお母さん俺のお母さんのこと嫌いみたいで 悪口言い出しちゃってすっげえ空気になっちゃって 俺頑張って耐えてたんだけどユキトがいい加減にしろって 俺の婚約者にどんだけ恥かかせば気が済むんだって』
チュウヤはミチルの気持ちを思っていたたまれなくなる。
『ごめんなチュウヤ 料理とか教えてもらったのに無駄になっちまった』
『それはお前のせいじゃないよ ぼくのことは気にしないで』
『ユキトはお母さん無視して俺と結婚するって言ってくれてる でも俺のせいでユキトんちが壊れるのは嫌だ どうすりゃいいんだ』
チュウヤは胸を痛めた。自分の家庭はそこまで大きく揉めたことはない。何かしてあげたいのに、何もいい案が思い浮かばない。
『セイくんに相談していい? 今いっしょにいるんだ』
『うん』
すぐあとにまたミチルのメッセージが続いた。
『いやごめん! デート中だったの!? 邪魔しちゃった! どうしよ!』
もう、ミチルときたら、こんなときに。観覧車にセイとふたりきりで乗っていることを自覚して、チュウヤは少し気まずくなる。
『デートじゃないって 大丈夫だから』
チュウヤはセイに事情を話した。セイは真剣な目で聞いてくれた。
「なるほどね。でも遅かれ早かれ壊れてた関係だと思うよ、それは。ミチルくんがいなくてもね。俺が深山さんの立場だったら同じことをしてたし、そのことで婚約者に悩んでほしくない」
「うん」
セイは窓の外を見た。観覧車はゆっくりと高度を下げていく。
「人間って自分のためだと思うと何もできないこともあるけど、好きな人のためだったら動けるじゃん。ミチルくんがいてくれたから、深山さんも自由になれたんだよ、きっと。だから気に病むことはないと思う」
「セイくんもそんな経験があるの」
思わず訊いてしまった。
「俺んちはたいして揉めてないけど、俺が次男だからかなんとなく居心地が悪くてさ。深山さんと違って、何かしてあげたいと思うような相手は俺にはいなかったから、俺は自分のために動いたよ。だからここにいるの」
「そっか、強いんだねセイくんは」
チュウヤが聖フィアナを受験したのは親の勧めだったし、国立大学を志望したのはユキトやミチルと同じ大学に行きたかったからだった。周りの誰かに影響されず、ひとり戦うのはすごく勇気がいることだとチュウヤは思った。
「チュウヤくんがそう言ってくれるなら、東京に出てきた甲斐があったなぁ!」
セイは朗らかに笑った。
「ミチルにはなんてアドバイスすればいいと思う?」
セイは考えている。
「法律的にはさっさと婚姻届出しちゃっていいと思うけど。親の承諾なんかほんとはいらないし」
「たぶんだけど、ユキトさんはすぐに結婚しないで、ミチルの卒業を待つと思う。ミチルの親も心配しちゃうだろうから」
「なら、今すぐできることってあんまりないかな。深山さんの母親とは変にかかわらないで、他人として過ごすほかないと思う。祝福してもらえないのは仕方ないよ、分かり合えない人はいるから」
チュウヤは頷いて、セイの話をミチルに送った。
『俺はもう結婚しちゃいたいぐらいなんだけどなー! ユキトが石頭だからなー! ありがとチュウヤ セイさんにも言っておいて』
「ミチルがありがとうって言ってる。ぼくからも、ありがとう。家庭の話までしてくれて」
セイは頬を掻いた。
「いやいや、俺こそなんかしたり顔で語っちゃって、今になって恥ずかしくなってきたところで。あ、大変だチュウヤくん、もう降りなきゃ」
「えっ? あっ」
地上の係員がもう見えてきていた。ふたりは慌ててゴンドラを降りた。
「ふう、いい空気」
チュウヤはひんやりとした秋の風を吸った。
「陽が当たってけっこう暑かったね、中」
「籠ってたしね。ミチルくんの連絡が来てくれてちょうど気が紛れ……いや、なんでもない」
セイはごまかすように笑った。
駅でチュウヤと別れ、セイはひとり帰路についた。
(観覧車の中なら、はっきりするかと思ったんだけどなあ)
結局チュウヤの匂いに混じった自分の匂いが、人工的なものか自分の身体から移ったものかはわからなかった。密閉空間でチュウヤの匂いにあてられてしまって、まだ身体が昂っている。
電車の中でチュウヤと撮った写真を見つめる。
(あの子、俺のこと強いって褒めてくれた)
セイはそっとチュウヤの輪郭に触れた。心のどこかで、ずっと誰かに言ってほしかった言葉だった。生まれついただけのアルファという性を認められるよりも、もっと深い場所が満たされていた。足掻いてきてよかったと思った。
常に兄と比較されてきた。強いのも、賢いのもいつも兄の役目で、自分はいつも負けてばかりだった。東京に出てきたのも、逃げ出してきたつもりだった。
ぎこちなく微笑む控え目な瞳を見つめているうちに、焦げるような熱が身体を駆け巡った。ダメだ、人前だ。セイはいそいで写真アプリを閉じた。
(まずいな、本気で好きだ)
セイは頭を抱えた。こんな恋は初めてだった。よりにもよって、自分の匂いが通用しないらしい子に。
(友だちでいいわけない……このままほかのアルファに負けたら)
だがあの信頼を裏切ることはできない。
(俺とおんなじ匂いの香水をつけてるかもしれない子だ、可能性はあるだろ、これ)
そうだったらいいが、思い過ごしに決まっている。
ぐるぐると考えているうちに最寄り駅についた。薄暗くなっていく街を歩いて帰る。ふと顔を上げると、アパートの前に誰かがいる。明かりに照らされ、見覚えのある横顔が見えた。セイは眉間にしわを寄せた。
「なんの用だ、コウキ」
セイの元恋人はセイを振り返った。甘いオメガの匂いが広がったが、セイは何も感じなかった。
「忘れられなかったよ、セイ」
男は長い睫毛を伏せ、寂しそうな笑みを浮かべてみせた。セイは鼻で笑った。
「そりゃあ、兄さんと付き合ってりゃ俺の顔もたまにはちらつくだろ」
勝手に終わらせたのはコウキの方だった。だからまだこちらに未練が残っていると思っているのかもしれないが、すでに終わった恋だ。コウキには天真爛漫では片づけられないしたたかさとわがままさがあって、付き合っている間も違和感が拭えなかった。たぶん付き合っている間もずっと、コウキは兄と自分とを比べ続けていたんだろう。最後は実家を継ぐことになる兄と、生活は自由だが将来の保障はどこにもない自分と、どっちが有利か。
「そういう意地悪言うときのセイって、たいてい幸せじゃないよね」
コウキは見慣れた傲慢な顔に戻り、にやついた。セイは乾いた笑い声を立てた。
「とんでもない、俺今すげえ幸せでさ。かわいい子と出会っちゃって、ちょうど今も会ってきたとこで」
「でも」
コウキは遮った。
「寝てはいないね。まだこの時間だし、セイ、欲求不満のときの匂いしてる」
相変わらず妙に鋭い奴だ。
「余計なお世話だ」
「そうかな?」
元恋人は飛び石を渡るような軽さで一歩距離を詰めた。
「俺実は、まだお兄さんと切れてないんだ」
「だからなんだっていうんだ。ますます俺は関係ないじゃないか」
コウキはセイを見上げ、声を潜めた。
「今俺を奪えば、お兄さんに勝てるよ」
セイの脳天に怒りが走った。
「ふざけるな」
拳を握りしめると、コウキはくすくすと笑った。
「俺を殴ってもお兄さんには勝てないよ。欲求不満なんでしょ? 昔みたいに俺を抱くだけでいい。セイ、バック好きだったよね。気持ちよくしてあげる」
記憶を引きずり出すように青年はささやいた。
「誰がお前なんか」
セイは唸った。
「あーあ、やせ我慢しちゃって」
「理性をなくさせようとしてるんだろうが、今の俺には通じない」
「そう? じゃあ、未来のセイなら通じるってことかな? また来るよ」
青年は楽しそうに言ってその場を離れていく。勝利を確信している様子だった。
「二度と来るな」
(昔の俺なら、確実に掛かってたな)
セイは乱暴にかばんの中を漁って鍵を出した。
(けど、もう俺はお前の知ってる俺じゃない。俺はあの子が)
チュウヤの写真が脳裏にちらつく。記憶の中で元恋人と交わした行為が勝手にチュウヤの身体に置き換わる。チュウヤくんの背中はきっと、うなじと同じぐらいまっさらだろう――
(俺ってほんとクソだ)
やり場のない熱を抱えたまま、セイは玄関のドアを音高く閉めた。
チュウヤは大きな袋を手に提げている。前に言っていた、作りすぎの料理だろう。
「お待たせ」
「大丈夫」
にっこりと笑うチュウヤに、セイは違和感を覚えた。チュウヤ自身の甘い匂いに、ごくうっすらと別の匂いが混じっている気がした。セイはどきりとした。
(この匂い、俺の、匂い……?)
思い過ごしかもしれないような、わずかな香りだった。だが理性とは無関係に、下腹が思わずかっと熱くなる。自分の匂いでマーキングされたオメガがそこにいた。
本能的に人目のつかない場所を探している自分に気づいて、セイは自己嫌悪する。何を考えているんだ、俺は。友だちに向かって。
チュウヤは何も気づいていない様子でにこにこしている。セイの胸に訊きたいことが溢れかえった。
ねえ君、俺の匂い、しない? もしかしてあの香水、買った? どんな気持ちでその香水をつけた? 俺のことアルファだって認めてくれた? 俺のものになりたくなった?
(そんなこと聞いたらまた怯えさせるだけだろうが)
もうひとつの声がセイを押しとどめた。それに、あれが例の香水だったという確信は持てない。気を付けて嗅いでみたが、香りはもう風で散ってしまってわからなかった。
気のせいだ。俺の願望が鼻を狂わせただけ。セイは自分に言い聞かせる。
「来てくれてうれしい。セイくんに嫌われちゃったんじゃないか、あのまま会えなくなっちゃうんじゃないかって心配で」
チュウヤははにかんでいる。これで期待しちゃいけないっていうのか。セイは内心呻いた。
「嫌いになるわけないよ」
「よかった、ありがとう」
笑顔を直視できなくなって、セイは視線を逸らした。やめて、おいしそうにしないで。
「ここがいいかな」
テーブルのあるベンチを探し出して、チュウヤはサンドイッチやサラダの入った紙箱を並べた。青空の下で野菜のオレンジや緑がつやつやと光った。
「具のミートローフはミチルといっしょに作ったんだ。こっちのマリネとお菓子も」
「なんか食べちゃうのが惜しいな、食べるけど。いただきます」
セイはいつもより口数が少なく、代わりにびっくりするほどよく食べた。
(匂い、バレてないよな……?)
チュウヤはほんのりと不安になる。あの香水はここ二日使っていない。シーツも洗濯したばかりだし、朝念入りにシャワーを浴びたから絶対にわからないはず。
「おいしかった、ごちそうさま」
セイはハンカチで手と口を拭いて、片づけを手伝い始めた。
「おなか空いてたんだ」
「うん、すごく」
紙皿を重ねながらセイは言った。一瞬チュウヤを凝視したようだったが、なんだったんだろう。チュウヤは少し赤くなった。
「このあとどうする? 観覧車があるみたいだけど。せっかくだから乗ってみる?」
セイは公園の向こうを指さした。青空の下でゴンドラがゆっくりと回っている。
「いいね、乗ろう」
観覧車の方へ向かいながら、ふたりはとりとめのない話をした。勉強ばかりしていたせいで自分の話題はすぐになくなってしまって、チュウヤは代わりにミチルの話をした。
「一時間ぐらい前から、向こうのお母さんと会ってるらしくて。うまく行くといいな」
「大丈夫じゃない? その子絶対いい子でしょ。なんせ俺に似てるんだから、はっはっは」
セイはおどけている。
係員の案内で中に向かい合わせで乗り込む。ゴンドラがゆっくりとのぼっていく。木々の向こうに、埋立地ばかりでいびつな形の海が見えてくる。午後の光を受けて、パズルのようなかたちの海はまぶしく光った。
「きれいだね、景色」
チュウヤはそう言ってセイに微笑んだ。セイは景色を見る代わりに、にこにことチュウヤを見つめている。
「あっ、富士山」
チュウヤは照れ隠しに外を指さした。
「今日は天気がいいからね、あっちもこっちが見たいんだろ。自慢しちゃお。俺は今チュウヤくんと観覧車乗ってます、イェーイ」
「何それ」
笑ったおかげで緊張が解けていく。
「いい顔。ね、いっしょに写真撮ろう」
「富士山は映んないかも」
「いいのいいの」
セイは軽く肩を近づけてスマートフォンを構えた。チュウヤもおずおずと身体を寄せた。フラッシュが光った。
(あれ)
「よく撮れた。一生とっとこ」
(今、セイくんの身体から……)
何も匂いがしないはずのセイの身体から、甘い匂いがしたような。あの紅茶の匂いではなく、別の――そうだ、ちょうど専門店でセイがチュウヤの匂いだといって差し出した、あのテスターの香りに似ている。
(ないない、そんなの)
あの香水をセイが買ってつけているなんて、そんなはずはない。ぼくじゃあるまいし。チュウヤは自分のしていることを客観視してしまって、ひとり赤面した。
(ゴンドラが狭いから、ぼくの匂いが移っただけに決まってる)
そのとき、チュウヤのスマートフォンが振動した。
「ちょっとごめんね」
画面を見るとミチルからだった。
『ユキトがユキトのお母さんと喧嘩しちゃった 大失敗だ どうしよう』
チュウヤは思わず息を飲んだ。
「どうしたの、チュウヤくん。なんかあった?」
セイはチュウヤの顔を覗きこむ。
「どうしよう、ミチルが……」
言い淀んでいるうちにメッセージが増えた。
『ユキトのお母さん俺のお母さんのこと嫌いみたいで 悪口言い出しちゃってすっげえ空気になっちゃって 俺頑張って耐えてたんだけどユキトがいい加減にしろって 俺の婚約者にどんだけ恥かかせば気が済むんだって』
チュウヤはミチルの気持ちを思っていたたまれなくなる。
『ごめんなチュウヤ 料理とか教えてもらったのに無駄になっちまった』
『それはお前のせいじゃないよ ぼくのことは気にしないで』
『ユキトはお母さん無視して俺と結婚するって言ってくれてる でも俺のせいでユキトんちが壊れるのは嫌だ どうすりゃいいんだ』
チュウヤは胸を痛めた。自分の家庭はそこまで大きく揉めたことはない。何かしてあげたいのに、何もいい案が思い浮かばない。
『セイくんに相談していい? 今いっしょにいるんだ』
『うん』
すぐあとにまたミチルのメッセージが続いた。
『いやごめん! デート中だったの!? 邪魔しちゃった! どうしよ!』
もう、ミチルときたら、こんなときに。観覧車にセイとふたりきりで乗っていることを自覚して、チュウヤは少し気まずくなる。
『デートじゃないって 大丈夫だから』
チュウヤはセイに事情を話した。セイは真剣な目で聞いてくれた。
「なるほどね。でも遅かれ早かれ壊れてた関係だと思うよ、それは。ミチルくんがいなくてもね。俺が深山さんの立場だったら同じことをしてたし、そのことで婚約者に悩んでほしくない」
「うん」
セイは窓の外を見た。観覧車はゆっくりと高度を下げていく。
「人間って自分のためだと思うと何もできないこともあるけど、好きな人のためだったら動けるじゃん。ミチルくんがいてくれたから、深山さんも自由になれたんだよ、きっと。だから気に病むことはないと思う」
「セイくんもそんな経験があるの」
思わず訊いてしまった。
「俺んちはたいして揉めてないけど、俺が次男だからかなんとなく居心地が悪くてさ。深山さんと違って、何かしてあげたいと思うような相手は俺にはいなかったから、俺は自分のために動いたよ。だからここにいるの」
「そっか、強いんだねセイくんは」
チュウヤが聖フィアナを受験したのは親の勧めだったし、国立大学を志望したのはユキトやミチルと同じ大学に行きたかったからだった。周りの誰かに影響されず、ひとり戦うのはすごく勇気がいることだとチュウヤは思った。
「チュウヤくんがそう言ってくれるなら、東京に出てきた甲斐があったなぁ!」
セイは朗らかに笑った。
「ミチルにはなんてアドバイスすればいいと思う?」
セイは考えている。
「法律的にはさっさと婚姻届出しちゃっていいと思うけど。親の承諾なんかほんとはいらないし」
「たぶんだけど、ユキトさんはすぐに結婚しないで、ミチルの卒業を待つと思う。ミチルの親も心配しちゃうだろうから」
「なら、今すぐできることってあんまりないかな。深山さんの母親とは変にかかわらないで、他人として過ごすほかないと思う。祝福してもらえないのは仕方ないよ、分かり合えない人はいるから」
チュウヤは頷いて、セイの話をミチルに送った。
『俺はもう結婚しちゃいたいぐらいなんだけどなー! ユキトが石頭だからなー! ありがとチュウヤ セイさんにも言っておいて』
「ミチルがありがとうって言ってる。ぼくからも、ありがとう。家庭の話までしてくれて」
セイは頬を掻いた。
「いやいや、俺こそなんかしたり顔で語っちゃって、今になって恥ずかしくなってきたところで。あ、大変だチュウヤくん、もう降りなきゃ」
「えっ? あっ」
地上の係員がもう見えてきていた。ふたりは慌ててゴンドラを降りた。
「ふう、いい空気」
チュウヤはひんやりとした秋の風を吸った。
「陽が当たってけっこう暑かったね、中」
「籠ってたしね。ミチルくんの連絡が来てくれてちょうど気が紛れ……いや、なんでもない」
セイはごまかすように笑った。
駅でチュウヤと別れ、セイはひとり帰路についた。
(観覧車の中なら、はっきりするかと思ったんだけどなあ)
結局チュウヤの匂いに混じった自分の匂いが、人工的なものか自分の身体から移ったものかはわからなかった。密閉空間でチュウヤの匂いにあてられてしまって、まだ身体が昂っている。
電車の中でチュウヤと撮った写真を見つめる。
(あの子、俺のこと強いって褒めてくれた)
セイはそっとチュウヤの輪郭に触れた。心のどこかで、ずっと誰かに言ってほしかった言葉だった。生まれついただけのアルファという性を認められるよりも、もっと深い場所が満たされていた。足掻いてきてよかったと思った。
常に兄と比較されてきた。強いのも、賢いのもいつも兄の役目で、自分はいつも負けてばかりだった。東京に出てきたのも、逃げ出してきたつもりだった。
ぎこちなく微笑む控え目な瞳を見つめているうちに、焦げるような熱が身体を駆け巡った。ダメだ、人前だ。セイはいそいで写真アプリを閉じた。
(まずいな、本気で好きだ)
セイは頭を抱えた。こんな恋は初めてだった。よりにもよって、自分の匂いが通用しないらしい子に。
(友だちでいいわけない……このままほかのアルファに負けたら)
だがあの信頼を裏切ることはできない。
(俺とおんなじ匂いの香水をつけてるかもしれない子だ、可能性はあるだろ、これ)
そうだったらいいが、思い過ごしに決まっている。
ぐるぐると考えているうちに最寄り駅についた。薄暗くなっていく街を歩いて帰る。ふと顔を上げると、アパートの前に誰かがいる。明かりに照らされ、見覚えのある横顔が見えた。セイは眉間にしわを寄せた。
「なんの用だ、コウキ」
セイの元恋人はセイを振り返った。甘いオメガの匂いが広がったが、セイは何も感じなかった。
「忘れられなかったよ、セイ」
男は長い睫毛を伏せ、寂しそうな笑みを浮かべてみせた。セイは鼻で笑った。
「そりゃあ、兄さんと付き合ってりゃ俺の顔もたまにはちらつくだろ」
勝手に終わらせたのはコウキの方だった。だからまだこちらに未練が残っていると思っているのかもしれないが、すでに終わった恋だ。コウキには天真爛漫では片づけられないしたたかさとわがままさがあって、付き合っている間も違和感が拭えなかった。たぶん付き合っている間もずっと、コウキは兄と自分とを比べ続けていたんだろう。最後は実家を継ぐことになる兄と、生活は自由だが将来の保障はどこにもない自分と、どっちが有利か。
「そういう意地悪言うときのセイって、たいてい幸せじゃないよね」
コウキは見慣れた傲慢な顔に戻り、にやついた。セイは乾いた笑い声を立てた。
「とんでもない、俺今すげえ幸せでさ。かわいい子と出会っちゃって、ちょうど今も会ってきたとこで」
「でも」
コウキは遮った。
「寝てはいないね。まだこの時間だし、セイ、欲求不満のときの匂いしてる」
相変わらず妙に鋭い奴だ。
「余計なお世話だ」
「そうかな?」
元恋人は飛び石を渡るような軽さで一歩距離を詰めた。
「俺実は、まだお兄さんと切れてないんだ」
「だからなんだっていうんだ。ますます俺は関係ないじゃないか」
コウキはセイを見上げ、声を潜めた。
「今俺を奪えば、お兄さんに勝てるよ」
セイの脳天に怒りが走った。
「ふざけるな」
拳を握りしめると、コウキはくすくすと笑った。
「俺を殴ってもお兄さんには勝てないよ。欲求不満なんでしょ? 昔みたいに俺を抱くだけでいい。セイ、バック好きだったよね。気持ちよくしてあげる」
記憶を引きずり出すように青年はささやいた。
「誰がお前なんか」
セイは唸った。
「あーあ、やせ我慢しちゃって」
「理性をなくさせようとしてるんだろうが、今の俺には通じない」
「そう? じゃあ、未来のセイなら通じるってことかな? また来るよ」
青年は楽しそうに言ってその場を離れていく。勝利を確信している様子だった。
「二度と来るな」
(昔の俺なら、確実に掛かってたな)
セイは乱暴にかばんの中を漁って鍵を出した。
(けど、もう俺はお前の知ってる俺じゃない。俺はあの子が)
チュウヤの写真が脳裏にちらつく。記憶の中で元恋人と交わした行為が勝手にチュウヤの身体に置き換わる。チュウヤくんの背中はきっと、うなじと同じぐらいまっさらだろう――
(俺ってほんとクソだ)
やり場のない熱を抱えたまま、セイは玄関のドアを音高く閉めた。
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