友達アルファが匂い立つまで⑤




五 



 兄がセイに電話をしてきたのは、その晩のことだった。
「コウキがいなくなった。お前が連れ出したんじゃないのか」
 あまりな言いように、セイは呆れた笑い声をあげた。
「開口一番ご挨拶だな。なんで俺がそんなことしなきゃなんないの」
「……未練がなかったってことはないだろ」
 セイの兄はどこか後ろめたそうに唸った。
「未練なんてさらさらないよ。妙に隠しても変だから言うけど、あいつならここには来た。自分の方から、思いっきり浮気するつもりで。もちろん追い返したけどね」
「あいつからそんな真似をするはずがないだろう、なんのメリットがある」
「そんなの本人に聞いてくれ。大方喧嘩でもして兄さんに幻滅して、前の彼氏が惜しくなったんだろ」
 セイは皮肉たっぷりに言った。兄は苛立った様子だった。
「お前は俺に腹いせがしたいのか? あいつと寄りを戻して、俺に恥をかかせたいんだろう」
「信じる信じないは兄さんの自由だけど、まあ、一応弟として忠告はしておいたから。あいつがなんて言っても俺は無関係だ。俺にはほかに好きな人がいる」
「好きな人?」
「木下チュウヤくん。飲み会で出会った子。言っとくけど、コウキよりずっとかわいいから。じゃあな」
「おい、セイ」
 セイはさっさと電話を切った。
 ほかに好きな人がいると兄に言ったとき、心の何かが晴れた気がした。もう同じものを狙って競い合う仲ではない。俺と兄さんは今、違う人生で違うゲームをしている。兄さんがコウキとどうなろうが、俺をひとり悪者にしようが、もうどうでもいい。
 ふう、と長いため息をついて、セイはチュウヤに電話を掛けた。
「どうしたの」
 スピーカー越しの声が鼓膜を撫でると、また身体に熱が灯った。頭が一気に軽くなる。
「いや、ちょっと声が聞きたくなっただけ。時間大丈夫?」
「うん」
 さっきの電話に比べて、なんて楽しいんだろう。セイはいつも以上に饒舌になった。大学にいる変わり者の先生、夜景に見惚れているうちに噴水に頭からはまったこと、この前友だちと行った定食屋が大外れで、すべてのコップに謎の白いもやもやが浮いていたこと。ありとあらゆるどうでもいいことが口から出てくる。チュウヤは何が面白いのか、どれもこれも熱心に相槌を打ってくるから、セイは止まるタイミングを失った。
 ふと時計を見てセイは驚いた。もう午前一時を過ぎている。
「うそ、こんな時間。ごめんね、夜更かしさせちゃって。しかもまた俺ばっかり喋っちゃって」
「ぼくは聞いてる方が好きだから」
「俺の話ならいつでも止めてくれていいんだからね? というか積極的に止めてくれないと止まらないよ?」
「気を付けるね」
 チュウヤは眠そうに笑って答えた。
「ねえ、チュウヤくん。俺まだ話し足りないんだけどさ。暇だったら明日も会おうよ」
  「うん、どこ行く?」
 何も考えてはいなかった。チュウヤさえいればどこでもよかった。
「十時ごろチュウヤくんちの前まで迎えに行くからさ、明日考えよう」
「わかった」
 おやすみなさい、とやわらかな声を残して電話は切れた。
 次の朝、まだ浮き立った心でセイは自宅に鍵をかけた。アパートを出たところで、セイは顔をひきつらせた。
 アパートに向かってまっすぐ歩いてくる人影は、どう見てもセイの元恋人だった。
「用があるなら日を改めてくれ」
 セイは苦い顔で言った。
「お兄さんに俺のこと告げ口したよね」
 コウキは怒りで目を光らせている。セイは肩をすくめた。
「口止めはされてなかったはずだけど」
「なんで余計なことすんの? お兄さんに勝ちたいんじゃなかったの? それとも告げ口程度で勝ったつもりなの?」
 コウキは畳みかけるように言った。
「俺と兄さんの仲がよかろうが悪かろうが、お前には関係ないだろ。お前を取りあって喧嘩しろ? 兄さんとお前の別れ話に当事者として巻き込まれろ? 冗談じゃないよ」
 コウキは唇をわななかせている。
「俺はこれからデートなんだ、悪いね」
 セイは振り返りもせず立ち去った。淀んだ過去を置いてチュウヤに会いにいくのは気分がよかった。
 コウキはしばらくセイを睨みつけていた。セイが道を曲がったところで、彼は何か思いついた様子でゆっくりと笑みを浮かべ、静かにセイの後を追った。
 セイがチュウヤのアパートにつくと、メガネの青年は先に玄関まで降りてきて待っていた。植え込みの山茶花が鮮やかな花びらを散らして、スニーカーの足元を彩っている。
「お待たせ」
 こちらに気づくとチュウヤはうれしそうに顔をほころばせた。甘い香りがいっぱいに広がっていく。俺が恋人だったら確実にキスしていたな、とセイはふわふわした頭で考えた。
「ううん、ぼくも今出てきたところ。どこ行く?」
「うーん、そのへんぶらぶら? 本屋冷やかしたりお茶した――り――」
 歩き出したところでセイは立ち尽くした。鮮やかな色をした幸福が一瞬で蒸発した。代わりに黒い憤りが湧きあがっていた。
「尾行とは趣味が悪いぞ、コウキ」
「こんにちは!」
 コウキはにっこりとチュウヤに笑いかけた。値踏みするような目だとセイは思った。やめろ、チュウヤくんが汚れる。
「こんにちは、えっと、セイくんのお知り合いですか」
「高校時代の元カレです」
 チュウヤは困惑した顔をしてセイとコウキを見比べた。
「もうなんでもない人だよ」
 セイは吐き捨てるように言った。
「なんで邪魔しに来た」
「邪魔だなんて。さっき言いそびれたことがあってねえ、それが終わったらすぐ退散するから」
「聞く義理はない。チュウヤくん、行こう」
 セイはチュウヤの背中を押して、足早に立ち去ろうとした。
「お兄さんに、セイに襲われたって言っておいたから」
 セイの背中に向かって、コウキは勝ち誇ったように言い放った。セイは青ざめて振り返った。
「なんでそんなうそを!」
 よりにもよってチュウヤくんの前で。
「しらばっくれるの?」
 コウキは澄ました顔で言った。
「やめろよ、俺は何もしてないだろ!」
「あの、何かの間違い、ですよね」
 チュウヤは唇を震わせている。セイは血の気が引いた。こんな与太話、チュウヤくんが信じてしまったら。
「どうして?」
 コウキは首を傾げてみせた。
「だってセイくんがそんなことするわけ」
「君はセイの何を知ってるの? 少なくとも君より俺の方がセイには詳しいよ」
 チュウヤは少しひるんだが、意を決したように続けた。
「それっていつのことですか」
「昨日の晩だけど?」
「昨日の晩なら、セイくんはぼくと遅くまで電話していました」
 息をひそめていたセイの胸に安堵が広がった。長電話しておいてよかった。
 コウキは一瞬きれいな顔をゆがめた。が、すぐに平静を取り戻してセイに向き直った。
「とにかく、お兄さんは俺を信じたよ。やっぱりうそつきは弟の方だった、俺のオメガが俺を裏切るわけなかったってね。まだ俺の好感度もまあまあだったってことだ」
「なるほど、兄さんに詰め寄られて、口から出まかせ言ってその場をしのいだってか。この俺に濡れ衣を着せて」
 セイは一度でもこの男に心を動かされた過去の自分を呪った。
「頑張ってね、セイ。それじゃあ」
 オメガはにこやかにチュウヤに会釈すると、立ち去った。
「あのね、ほんとに何もしてないから」
 セイは気まずく言った。
 チュウヤは微笑んだ。
「わかってる。セイくんは無理やり何かする人じゃない」
 セイはほっとした。
「ありがとう、信じてくれて」
  「でも、お兄さんが誤解したままだね」
 チュウヤは顔を曇らせた。セイは苦笑した。
「いいんだよ、あんな人ほっとけば」
 チュウヤの顔が晴れないので、セイは首のうしろを撫でた。
「コウキの話しないと、わかんないか。あんまり聞いてて楽しい話じゃないと思うけど」
「ぼくが聞いていい話なら」
 チュウヤは真剣な目をしていた。セイは困ってため息をついた。
「ここじゃちょっとな。たしか、駅前に喫茶店あったよね?」
 チェーンの喫茶店に入ると、セイはぽつぽつと昔の話をした。実家が地元では大きなホテルで、兄が家業を継ぐことになっていること。コウキが自分と付き合っている途中で兄に乗り換えたこと。そのせいで地元に居づらくなって、東京の大学を目指したこと。
 聞き終えたチュウヤは俯いた。
「最初はすごくきれいな人だ、セイくんとお似合いだなって思ったんだけど、コウキさんはそういう人だったんだ」
 セイの胸に痛みが走った。そうか、お似合いだと思ったのか。俺とあいつが。
 チュウヤくんが嫉妬してくれたら。そう心のどこかで願っていたことに気づいて、セイは苦しくなる。チュウヤくんの好意が友情以上のものに変わる可能性は、やっぱりゼロなのか。
「このままじゃセイくんが可哀想だ。ぼくが話して誤解が解けるなら」
 チュウヤは一生懸命な様子で言った。セイは悲しく微笑んだ。
「正直、君を巻き込みたくない。君も見ただろ? したたかなんだよ、コウキは。君が悪者にされて終わりさ」
「でも」
「これで丸く収まるならそれでいいんだ。大丈夫、もともと捨てるつもりの家だったから。だからこの話はおしまい」
「セイくん」
「可哀想なセイくんを慰めると思って、今日もたくさん楽しいことをしよう。その方がずっといい。お昼、どこに行く? ここで済ましちゃってもいいけど、まだ早いし」 
 心配顔のチュウヤをよそに、セイはスマートフォンを取り出して検索を始めた。

 ふたりは夕方まで街を散策した。チュウヤはまだ心を痛めていたが、セイは笑って取り合わなかった。
「見て、ほぼゾンビ」
 駅前の薬局を通り過ぎたとき、セイは言った。セイが指し示した先には塗装の剥げた、おそろしく古そうな蛙の像が立っていた。今まで気にも留めなかったが、言われてみればたしかにひどく不気味で、チュウヤも思わず笑ってしまった。本屋に行っても、セイはいつもチュウヤが読まない奇妙な本ばかり広げて見せた。妖怪を料理する空想レシピ本、マンホールの写真集、子どもが泣きそうな絵柄の絵本、などなど。
「君のおかげで俺、すっかり可哀想じゃなくなっちゃったな、はは」
 買ったばかりのエッセイ集を手に、セイはおどけている。
「でもこの週末には、また俺、すっごく可哀想になってるかも。だからまた会おう? ね?」
 セイくんはすごいな、とチュウヤは素直に思った。自分の不運を笑い飛ばせるなんて、本当に強いんだ。
 来週の約束をしてセイとは駅で別れ、チュウヤはひとり自宅に向かった。
 なんだか知らない街みたいに楽しかった。セイくんはぼくを心配させたくなくて、わざと明るくしてくれていたんだろうけど。山茶花の植え込みを通り過ぎながら、チュウヤは考える。
『君より俺の方がセイには詳しいよ』
 そう言って笑うコウキの顔がちらついた。チュウヤは立ち止まった。
  (そういえば、あの人にはセイくんの匂い、わかるんだよな)
 劣等感が胸をちくちくと刺した。コウキがセイとお似合いだとはもう思わない。それでも匂いがわかる時点で自分より優れたオメガだ。
 楽しかった午後の余韻が痛みに変わっていく。
(セイくんは優しいからああ言ってくれたけど、ぼくは実際、何もしてない)
 セイを慰めるどころか、楽しませてもらっただけ。これでは友だちどころか、お客さんじゃないか。
(セイくんの冤罪を晴らしたい……でも、関わらないようにはっきり釘を刺されちゃったから、余計なおせっかいするわけにも)
 無力感を抱えてチュウヤは部屋に入った。カーテンを閉めると、棚に置いた香水のボトルが目に入る。あの香りを嗅いだときの、痛みが和らぐ感覚が無性に恋しくなった。週末までセイくんとは会わないから、使っちゃおうかな。チュウヤは少し後ろめたい気持ちでベッドに香水を吹きつけた。
 優しい香りに包まれて、食事をとり、本を読む。自分とは違う匂いを嗅いでいると、ひとりであることを忘れられた。セイくんの匂いがわかる人がセイくんといっしょに暮らしたら、きっとこんな感じなんだろう。チュウヤはうらやましくてたまらなくなる。コウキは確実にそんな経験をしたのだと思い出すと、苦しさが増した。
(考えても仕方ない。お風呂入ろ)
 風呂場のドアを閉めると、とたんに部屋の香りが届かなくなった。「セイくんの匂いがわからないぼく」という現実に引き戻された気がして、身体がしんと冷えた。
 そのとき、『お風呂に使ってもいいですよ』という店員の言葉が誘うように頭の中で響いた。
(ちょっとだけ……今日だけ)
 チュウヤは部屋に戻って瓶を手にとった。風呂に湯を張り、ぽたぽたと中身を数滴たらしていく。湯気に混じって湿った香りはいつになく官能的に思えて、チュウヤは息を飲んだ。やっぱりこれ、まずかったかも。
 だが張ってしまった湯を捨てるのは忍びなかった。足をそろりと入れ、全身を湯に沈めていく。ぬくもりが身体に染み込んで、チュウヤは鳥肌を立てた。セイくんの匂いがわかる人がセイくんに抱きしめられたなら、きっとこんな感じなんだろう――
(何考えてんだ、ぼくは)
 チュウヤは深く赤面して、湯からざばりと上がった。恥ずかしい気持ちを洗い流すように、念入りに身体を洗って出る。身体を拭いて、おそるおそる腕を嗅いだ。ボディソープの香りを押しのけるように、ベルガモットの香りが主張していた。
(やっちゃった)
 チュウヤは頭を抱えた。服を着ても、髪を乾かしても香りが染みついているのがわかる。どうしよう、セイくんの匂いがとれない。発情期が終わったあと、ミチルがよくユキトの匂いをさせているのをチュウヤは思い出していた。違うんだ、ちょっと試してみたかっただけなんだ、そんなアピールをしたかったわけじゃないんだ。チュウヤは軽くパニックになった。
 そのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。こんな時間に誰だろう。
(まさか、セイくん)
 チュウヤは青ざめる。ダメだ、今だけは会えない。
 おそるおそるドアスコープを覗いた。チュウヤは別の意味で恐怖に駆られた。
 知らない人だ。カジュアルな服を着た身体の大きな男で、どう見てもアルファだった。見たところ、配達の荷物を持っている様子でもない。どうしよう。
 もう一度インターホンが鳴った。チュウヤは意を決して応答することにした。ドアを開けなければいいし、最悪、警察を呼べばいい。
「はい」
「夜分すみません。陣野セイの兄と言えばわかりますか」
 彼の声はセイの声に少し似ていた。チュウヤははっとした。
「今開けます」
 ドアを開けると、見上げるほど背の高い男が立っている。スモーキーで強いアルファの香りがした。
「こ、こんばんは」
 アルファはチュウヤを見て困惑の表情を浮かべた。
「思った感じの人じゃなかったな……コウキからここの住所を聞きました。ああ、あいつの匂いですか」
 会釈して椅子に座りながら、セイの兄はあたりを見回した。チュウヤは赤面した。実の兄に向かって「香水です」とも言えない。
「セイとはやはり付き合って?」
「あっ、いえ、そんなことは」
「遊びですか」
 ミチルと同じ勘違いをしてくる。
「そうじゃないんです、ほんとに友だちで」
 茶を出しながらチュウヤが言うと、アルファは納得いかない顔をした。
「友だち。まあそういうことにしておきましょう。なら友だちの君に言います。あいつとは縁を切るべきだ」
 向かいに座ったチュウヤは気圧された。
「あいつは俺の恋人を襲った。未遂のようですし、うちのホテルの評判に傷がつきますから、警察沙汰にはしません。だが社会的制裁は受けさせたい」
「それは」
 自分で思ったより大声が出た。アルファは少し驚いた顔をした。
「コウキさんのうそです」
 アルファは眉を寄せた。
「なんの権利があって、君は私の恋人をうそつき呼ばわりするんですか」
「その時間、セイくんはぼくと電話していました。だから絶対ありえないんです」
「何時から何時まででしたか」
「十時過ぎから一時ごろだったと思います」
「なら、事に及ぼうとしたのは、その後かもしれないでしょう」
 セイの兄は探るようにチュウヤの目を見ている。
「それに、私がその話を信じなければならない理由は? 友だちにしろなんにしろ、さっきから君はセイに肩入れしている。かばってうそをついているとしか思えない。コウキの言う通り、君もぐるなのか」
 チュウヤは一瞬答えに困ったが、勇気を振り絞って言った。
「友だちが冤罪を疑われているのに、黙っているわけにはいかないんです」
 セイの兄はじっとチュウヤを見据えた。
「君はセイに何か負い目があるのか? オメガの君が、そんなにあいつの匂いをさせて、友だちどまりと言い張るのがまずおかしい。どうせ身体の関係があるんでしょう、そんな相手が兄の恋人に手を出して怒らないんですか」
「セイくんは誰にも手を出していません。ぼくにも、もちろんコウキさんにも。これは事実です」
 何か言いたげにしたアルファを遮りたくて、チュウヤは声を上げた。
「万が一仮にぼくがセイくんの恋人で、そのとき電話をしていなかったとしても、ぼくはセイくんを信じていました」
「どうして」
「優しいから。乱暴なことする人じゃないからです」
「自分が間違っているかもしれないとは思わないんですか」
「思いません」
 熱っぽく言うと、セイの兄は少し黙った。それからため息をついて椅子に背中をもたれた。
「困っているのは、君があんまり真面目そうだからだ。もっと派手なタイプかと思っていた」
 男は机の上で手を組んだ。
「正直に言えば、私はセイの幸せを壊しにここへ来ました。君もセイと口裏を合わせているとコウキから聞かされていたから、かばうようなら厳しく問い詰めて口を割らせるつもりでいた。だがどうも気が進まない」
 チュウヤは上がっていた息を落ち着けて、微笑んだ。
「本当はお兄さんも、セイくんのことを信じたいんじゃないでしょうか」
 セイの兄は呆れた笑い声を出した。
「やめてくれ」
「セイくんから事情は多少伺ってて……ぼくも昔、親友の恋人を好きになったことがあります」
 思い切って切り出すと、アルファの表情がわずかに変わった。
「まだ子どもで、本能に振り回されちゃって。あのときのぼくなら、なんでもできたと思います。間違ったことも……あとで後悔するようなことも。結果的に何もできなかったのは幸運でした」
 痛みと恥が喉の奥を走って、チュウヤは小声で言った。
「私が君と同じだと?」
「セイくんは優しいから、謝ったら許してくれると思います」
「そんな、今さら」
 アルファは苦笑いを浮かべた。
「必要でしたら、ぼくが仲直りのお手伝いをします」
 チュウヤが必死に言うと、セイの兄は深いため息をついた。
「これで君がうそつきなら、大した役者だ、本当に」
 アルファは立ち上がった。
「少し考えさせてください。お邪魔して申し訳なかった」
「いえ。セイくんと仲直りできたら、いいですね」
 アルファは暗く笑った。
「さあ、どうでしょう。まあ、セイの奴がどうして君にこだわるのかはわかった気がします。話が聞けてよかった。そうだ、君にはまた連絡することがあるかもしれません。連絡先をうかがってもいいですか」
 セイとの橋渡しができるかもしれない。チュウヤは素直に喜んだ。
「お役に立てるなら」
 交換が済むと、アルファは部屋を去って行った。いぶしたようなアルファの香りがまだ残っている。
(話せてよかった)
 チュウヤは窓を開け、ぼんやりと星を見た。冷たい夜風が吹き込んで、知らないアルファの痕跡をそっと運び去っていく。
(余計なことだったかもしれないけど……セイくんのためになってるといいな)
 次の日、授業が終わって筆記用具の片付けをしていると、大教室の向こうからミチルがやってくるのが見えた。
「チュウヤー」
(そういえばぼく、香水のお風呂に入っちゃったんだ)
 いくら親友相手でも、アルファの匂いがする風呂に入った事実に気づかれてしまうのは恥ずかしい。いや、でも、さすがに一晩経って匂いは軽くなっているはず。チュウヤは思わず自分の腕をくんくんと嗅いだ。やっぱりまだセイくんの匂いがする気がする。どうしよう。
「寝ちゃったからノート見せてー」
「えっと、あ、うん」
 親友は勢いよく隣に座った。思わず面食らうほど強いグレープフルーツの香りが立った。ユキトの香りが「盗るなよ」と言わんばかりに主張している。
(うん、自分の匂いが強すぎてたぶんミチルは気づかないな)
 ミチルは横でふわあと大きなあくびをしている。寝不足なのだろう。つがいの仲睦まじさに微笑ましいような、うらやましいような気持ちになりながら、チュウヤはミチルにノートを差し出した。
(ぼくもこんな風に愛されてみたいな)
 身体に匂いが染みついて取れなくなるぐらい。ノートを写し取るミチルをぼんやりと眺めているうちに、ふいにチュウヤの胸に痛みが走った。ミチルみたいに、香水じゃなく本物の匂いで包まれたなら、どんなにいいだろう。そうだ、コウキさんもあのきれいな身体にセイくんの匂いを染みつけていた時代があったはず。ちゃんと愛される資格があって、愛された事実もあったのに、なんでセイくんの愛を粗末にしたんだ。なんでそれで許されてきたんだ。なんでぼくには資格がないんだ。なんで、なんで、なんで。
「ありがと、終わったよ。おーい、チュウヤ?」
 ミチルが顔の前で手を振っている。黒い感情の中で溺れかけていたチュウヤは現実に引き戻された。
「なんでもない」
 ノートを受け取りながら、チュウヤは内心ミチルに感謝した。嫉妬する資格もないくせに、さっきのぼくは真っ黒すぎた。
 その夜チュウヤが部屋でレポートを書いていると、セイの兄からメッセージがあった。
『コウキとは別れることになりました』
 チュウヤはあまり驚かなかった。ようやく辻褄が合ったのだろう、と昼間の暗い感情がささやいた。
『コウキと君とどちらを信じるべきか最後まで迷いました コウキ本人を問い詰めたところ口論になり、真実がどうあれ、今後も彼とうまくやっていくのは難しいと判断しました』
 淡々としているな、とチュウヤは思った。
『そうですか セイくんにその話はしましたか』
 返信があるまでに少し間があった。
『話す義理があるでしょうか』
『はい コウキさんがまたセイくんのところへ行くと思うので』
『君はそれを望まない?』
『知ったうえで、コウキさんをどうするかはセイくんが決めることだと思います ぼくから伝えましょうか』
『いや 自分から言おう 君には迷惑をかけました また連絡します』
(セイくん、大丈夫かな)
 チュウヤは不安になる。コウキは怒っているだろうし、セイの兄もセイを完全に信じたわけではなさそうだ。セイが強いのは知っているが、あのふたりに関しての傷は深い。
(お兄さんの口から話すことになったから、今はダメだけど……もう少ししたら、連絡してみようか)
 書き込みの多い教科書を上の空でなぞりながら、チュウヤは考えている。



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