友達アルファが匂い立つまで③




三 



 次の日は土曜で授業がなかった。チュウヤは決心してもう一度あの専門店に向かった。
(セイくんの香りを忘れたくない)
 セイ本人の匂いがわからない以上、あの香水がなければきっと香りを忘れてしまうだろう。カードの支払いが増えてしまうが、記憶をとどめておくためには、どうしてもセイと同じ香りのする香水がほしかった。
 戻した場所にスプレーのボトルが並んでいるのを見て、チュウヤはほっとした。よかった、まだ売れてなかった。
「お客様ご自身の香りが強めなので、首もとにお使いの場合はワンプッシュからお試しください。空中に吹いてくぐるのもいいと思います。身の回りのものやお風呂に使うのもいいですよ」
 チュウヤは店員の説明を真面目に聞いていたが、最後の部分で赤面した。それはよくない気がする。裸のときにセイの香りに包まれるのは、ちょっとダメな気がする。
 大切にかばんに入れて、チュウヤは家に戻る。迷ったがチュウヤはシーツに使った。紅茶に似た匂いが部屋に広がった。
(すごく落ち着く)
 チュウヤはベッドに座った。香りを楽しんでいるうちに、自然にまぶたが重くなる。  休日だし、ちょっとお昼寝しちゃおうかな。チュウヤはメガネを外し、シーツに顔を埋める。優しい香りが全身を包む。すうと息を吸い込むと、目の前が暗くなった。
 起きたころには夜になっていた。あまりもので夕飯を簡単に済ませる。あとは風呂だ。着替えを出すと、ベッドの脇に放置した香水のボトルが目に入る。お風呂に使うのもいいですよ。店員のアドバイスを思い出して、チュウヤは赤くなる。
 いや、ダメだ。そんなの恥ずかしい。チュウヤは風呂場に逃げ込んだ。
 風呂からあがるとスマートフォンに通知が来ていた。セイくんであってほしいような、そうだったら気まずいような気持ちになる。チュウヤは恐る恐る画面を見た。
 メッセージはミチルからだった。
『大変!!!! ユキトのお母さんをうちに呼んでごちそうすることになった!!!! 調理実習とか家政学とかお作法とか全部忘れちゃったからパニックになってる そしたらチュウヤに相談してみろってユキトが 明日家行っていい? 返事待ってる!』
 久しぶりに親友が頼りにしてくれた。チュウヤは胸がいっぱいになった。
『もちろん 何時でもいいよ』
 既読マークはすぐについた。
『ありがとう、チュウヤ優しい! いやもう心配で心配でたまんなくてさ 食材持って朝八時に行くわ 早すぎ? 大丈夫?』
 チュウヤは笑いながら、大丈夫だと返事をした。 
 翌朝、八時前にチャイムが鳴った。ドアを開けるとミチルはにゅっと隙間から顔を出した。
「おはよう、ミチル」
「チュウヤごめんな、付き合わせちゃって。お邪魔します」
 ミチルは重そうなエコバッグをチュウヤの部屋に担ぎ込んだ。
「それにしても、ずいぶんあちらのお母さんと進展したんだね」
 たしかユキトの母親は、ユキトとミチルの婚約に猛反対していたはずだ。
「それがさ、ユキトが就職先に婚約者、つまり俺だけど? へへ、照れるなぁ。とにかく婚約者がいるって伝えてるらしくて。今さら破談にしたら就職先の心証が悪くなるし世間体もよくないって、ユキトが説得したんだって。お?」
 ミチルはキッチンに荷物を置くと、すんすんと鼻を鳴らした。
「いい匂い。なにこれ、チュウヤの匂いじゃねえし……あっ、もしかして、アルファ?」
「違う」
 チュウヤは赤くなって口ごもった。セイのことは話すつもりだったが、今のミチルは確実に何か誤解している。えっと、どうやって説明したらいいんだろう。
 案の定、ミチルはチュウヤの肩を叩いた。
「隠すことないじゃん。俺、今感激してるんだ。チュウヤのことすげえ心配してたからさ……その、ユキトは結局俺が取っちゃったし」
 ミチルはだんだん小声になる。まだ気にしてくれてたんだ、とチュウヤは恥ずかしくなる。
「あれはぼくが勝手に空回りしてただけだから。あのときはごめんね。どうしようもなく子どもだったんだ」
 ミチルは手を大仰に振った。
「いいって、いいって。それより、どんな人?」
「それはほんとに違うんだ。ただの友だち」
「んー? ほんとかなぁ」
 ミチルはベッドにぽんと座った。チュウヤはぎくりとした。
「ほらほら、いい匂いしてんじゃん。水臭いよ、チュウヤ」
「それは」
 ミチルは突然ひょお、と奇声をあげると、心配そうな顔になった。
「それとも相手、チュウヤのことちゃんとした恋人にしてくれないとか!? 悪いアルファ!?」
「全然違うから! ただの香水。気分転換につけてるだけ」
 チュウヤが思わず真実を話すと、かえってミチルは深刻な顔になった。
「さっき、ただの友だちって言ってただろ? なあ、心配だよ、チュウヤ」
「えっと、ちゃんと最初から話すから……想像で突っ走るのやめて……」
 チュウヤは降参して、ミチルの隣に座った。
 話を聞いて、ミチルは腕組みした。
「匂いのしないアルファかぁ。でもチュウヤ以外の人にはこういう匂いがする?」
「そうみたい」
「でもわざわざ香水買ってみたってことはさ、チュウヤはその人のこと、好きなんだろ?」
 チュウヤは少し黙った。
「友だちとしてはすごく好き。匂いがわかんないし、恋じゃないと思うけど」
「恋じゃねえのに香水買ってベッドに振るもんなの?」
「あの匂いのこと、なんだか忘れたくなかった。身体につけるのは柄じゃないから、そのへんのものにって思って」
 自分の声がやけに言い訳がましく響いて、チュウヤは恥ずかしくなる。ミチルは自分の頬を撫でた。
「うーん。俺はユキト以外の匂いが俺のベッドからしたら吐くかも」
「それはつがいになってるからじゃない?」
「それもそうか。でもなぁ、わかんないなりに、その人の匂いに執着してるってことじゃねえのかな、それ」
「そうかな」
 チュウヤは赤面した。
「でもお風呂には使ってないよ、恥ずかしいし」
「ほら。逆に意識してるって、それは」
 ミチルはチュウヤを肘で小突いた。
「ミチル」
 チュウヤはあわててミチルを制した。
「ごめん。結論ありきで先走ってる可能性はある。チュウヤが幸せになったとこ、ちゃんと見届けたいから」
 ミチルは急に真剣になって言った。チュウヤは苦笑した。
「ぼくは幸せだよ、ここにこんないい友だちがいるから」
「そういうのだけじゃなくて。つがいがそばにいた方が、メンタル安定するらしいよ、オメガは」
「そうなのかな」 
「だから寂しいと巣作りしちゃうんじゃん。俺もたまに押し入れに籠る」
「押し入れ」
「いっぱいユキトの服あるから、わざわざ引っ張り出して積み上げるより手っ取り早くてさ」
「合理的だ」
 チュウヤはくすりと笑った。
「まあユキトは俺にメロメロだから、今んとこ、めったに寂しくはされねえんだけどな! 社会人になったら違ってくんのかなー、やだな」
 ミチルは胡坐で頬杖をついた。
「ユキトさんなら絶対大丈夫だよ。それより、料理するんじゃなかったの?」
「そうだった、忘れてた! チュウヤ、教えて」
 ミチルは勢いよく立ち上がった。
 ミチルは少しそそっかしかったが、しばらくすると実習を思い出したのか手際がよくなっていた。昼頃になると大量のごちそうができあがった。礼儀作法の復習をしながら日持ちのしないオードブルを食べたところで、オメガたちは満腹になってしまった。ミチルが持参したタッパーをいっぱいにしてもまだたっぷりと余っている。
「全部持って帰るのは無理だなぁ。残り頼んでいい?」 
「ちょうど節約しようと思ってたから、助かるよ」
「せっかくだしさ、セイさん呼んでいっしょに食べたら?」
 ミチルはタッパーをバッグに詰め、にやにやと言った。チュウヤは顔を赤くした。
「部屋に呼ぶのは……」
「あー、わかる。ドキドキしちゃって無理だよな?」
「ミチル、だからそんなんじゃ」
「ごめん、余計なお世話だった! じゃあな!」
 ミチルはエコバッグを肩に下げ、軽やかに部屋をあとにした。あんなに跳ねてタッパーは無事だろうか。
 チュウヤは鍵をそっとかけると、料理を冷凍する作業を始めた。
(万が一これが恋だったとしても、ぼくはあの人の運命じゃないんだよ、ミチル。ちゃんとセイくんの匂いで発情できるオメガじゃない)
 だからぼくは、あの人の友だちでいるしかない。

 同じころ、セイはベッドに寝転がって、陽射しに香水の瓶をかざしていた。ユニセックスデザインの透明なボトルは虹色の光を指に散らしている。
(ドン引きされるに決まってるな。チュウヤくんの匂いに似た香水、通販で買っちゃったなんて知られたら)
 セイはため息をついた。我ながら未練たらしい。
 空中に噴くと、微細な粒が白くふわりと広がった。人工的に抽出した植物の香りが本能に響くことはなかった。手に入らなかったものを思い出して、胸が苦しくなるだけ。
(あの子にはやられた)
 真面目そうな顔に官能的な香り。そのギャップに好奇心を掻き立てられて、あの日の自分は酔ったチュウヤを連れ帰ってしまった。隠された本性を見てみたくなった。チュウヤが乗り気でなければ最初から何かをするつもりはなかった。結局怯えさせてしまっただけで、何もわからなかったが。
 友だちになってみれば、チュウヤは見た目通り優しく、素直だった。本性なんて、本当は最初からそんなものはなかったのかもしれない。人見知りだという彼がおずおずと差し出してくれた友情はとてもきれいだった。話しているうちに、無邪気に懐くチュウヤがだんだんといとおしく見えた。あんまり無防備なものだから、大丈夫か、一応俺は狼だぞ、と心配な気持ちでいっぱいにもなった。
(警戒心ゼロなわけだよな。俺の匂いがわかんないんだから)
 セイの自尊心がきりきりと軋んだ。セイくんのことはアルファだと思っていない。そう宣告されたのと同じだった。そういえば、聖フィアナの同級生に似てるんだっけ、俺。チュウヤの母校はミッション系の全寮制オメガ男子校である。オメガに似ているだなんて、ますますもってアルファだと思われていない。
(チュウヤくんのせいじゃない。俺のせいなんだろうけど)
 セイは自分の首に手を当てた。匂いが薄いわけではない、と思う。少なくとも以前の恋人はちゃんと反応していたし、匂いが好きですと言われたことも多い。だがたしかに雄臭くはないかもしれない。もっとむんむんだったらこんな思いはしなかった、だからお前のせい。セイは自分の首をつねった。痛かった。何やってんのか、俺。 
 ひとり笑っていると、じわりと目に涙が浮かんだ。ほしいひとにアルファだと思われていないことに、存在を全否定されたような痛みを感じるのはなぜなんだろう。長いため息とともに、セイは手の甲を額に当てた。
 チュウヤの気持ちを尊重したいのは本当だ。だが決意とは裏腹に、アルファの本能は彼の全部がほしいと願っている。これからだってまっさらな首を見れば犬歯が疼いてしまうだろう。抱きたい。友だちとしての信用も、建前も、何もかも全部かなぐり捨てて、俺がアルファだとその身体に思い知らせたい。
 セイは耐えるように目を閉じた。いけない。あのきれいな信頼をこの手でずたずたにしたくない。あの子は俺に会いたいと願ってくれている。それで充分なはずだろう。
 そのとき、スマートフォンが振動した。セイは腕を伸ばしてそれを手に取り、顔の上にかざした。高校時代の元恋人からだった。
『結局忘れられなくて 今度は咬んでいいから 返事して』
 遠い過去になったはずの傷が再び開いていた。チュウヤくんと出会ってからは思い出すこともなかったのに。コウキの奴、今さら一体なんだ。
 俺と兄さんを天秤にかけて兄さんをとったような奴が。
 数年前の修羅場が脳裏にちらついた。こうして連絡してきたということは結局兄さんとはうまく行かなかったんだろうが、だからといって、どうして寄りを戻す義理がある。
 東京に出てきた以上、もう他人だ。こいつも、俺の元恋人だと知りながらこいつと平然と付き合った兄も。兄さんがいるんだからお前はアルファに生まれなくてよかったのにと、冗談めかした本音を繰り返した親も。
 無言で相手をブロックすると、セイは端末を遠くへ押しやった。
 その夕方、ふたたびスマートフォンが振動した。嫌々画面を見ると、今度はチュウヤからだった。セイはがばりと身体を起こした。
『今度の週末、晴れたら公園でピクニックしない? 友だちといっしょに料理を作りすぎちゃって、冷凍庫がいっぱいで この前奢ってもらったお礼とまではいかないけど』 
 嫌な過去にとらわれていたセイの心を、チュウヤの言葉は救済のように優しく現在に引き戻した。またこの子に会える。会いたい。セイは胸がいっぱいになった。
『サッカーボールででっかいてるてる坊主作って吊っとくね』
 小さな間が開いて、頬を染めた笑顔のスタンプが流れてくる。メガネをかけたらチュウヤくんそっくり。濁っていた感情が穏やかな温かさに変わっていた。



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