塩味アルファが甘くなるまで⑩
十 共同戦線
「俺にあんなに冷たくしたのに……! ユキトがオメガと付き合ってるなんて、そんなのあるわけ……あるわけ……」
ミチルは涙を飲み込んだ。ここで泣いたら敗北を認めてしまう気がした。
「学校なんて知るか! 俺、明日ユキトに会いに行く! ユキトが大丈夫だって、確かめに行く!」
ミチルは衝動的に決意した。このどうしようもない苦しさをなんとかするには、それしかないと思った。
「ミチル」
「止めんな! 俺は絶対行く!」
「しーっ、ミチル、声大きい。……ねえ、ぼくも行ったらダメ、かな」
チュウヤがささやいた。ミチルはきょとんとした。
「え」
「校則ってさ、アルファとふたりきりで会っちゃダメ、だったよね?」
ミチルの目がみるみる大きく開いていく。
「ぼくがいたら、三人だ。あの匂いをさせるひとに、一目でいいから会ってみたいんだ……」
夢見るような瞳でチュウヤは言った。
ミチルはしばらく呆気にとられていたが、やがてにかっと笑った。
「ナイスアイディアじゃん、採用」
「いいの?」
小さな期待と、ほんのりとしたエゴの色がチュウヤの瞳によぎっていた。だがミチルは気づかない。
「俺だけユキトを知ってんのって、たしかにフェアじゃないもんな。でも負けねえ。同じフィールドで正々堂々勝負だ」
チュウヤはくすりと笑った。
「ミチルが言うとなんかのゲームみたい。でも、ありがとう」
頷きながら、ミチルはきゅっと唇を結んだ。俺たちと違って制限なくユキトに会えるのだから、例のきれいなオメガはフェアじゃない。いざとなったらチュウヤと共同戦線だ。
その夜はもちろん眠れなかった。ユキトに会うのは久しぶりだ。
もう大好きだったユキトの匂いも忘れかけてしまった。あのグレープフルーツに似た匂いで肺をいっぱいにするのを想像して、ミチルの胸はどきどきと脈打った。だが次の瞬間には不安が胸を締め付ける。
約束を破って会いに行ったら、ユキトはどんな顔をするだろう。受験前の大事なときに、と怒るだろうか。また「二度と来るな」と冷たく拒絶するんだろうか。思い出すと痛みが胸を走った。俺はもう一度あれに耐えられるんだろうか。
いや、あのときはドア越しだった。ユキトは案外優しいから、俺の顔を見たらきっと違う風に答えてくれるはずだ。いくら受験が控えていても、ちょっとぐらいなら話す時間もあるだろう。大丈夫、大丈夫。そう自分に言い聞かせながら、ミチルはベッドでもぞもぞと寝返りを打ち続ける。
次の日は午前中から外出許可をとって出かけた。電車に揺られるミチルは不安を隠そうと、いつにも増して口数が多くなっていた。
「知ってる? 谷中先生さ、怒ると手の血管が漫画みたいに浮くんだよ。アルファベットのYみたいな? なんせ俺常連だからさ、すげえ詳しくなっちゃって。今度見てみ? あ、怒られるって言えばさ、体育館の天井におとといからボールがはまってるじゃん、あれ俺がやったんだ。わざとじゃねえんだけど、また叱られるかな? どう思う? なんかさ、俺って俺なだけで余計にペナルティつく気がするんだよね、気のせいじゃねえよな?」
チュウヤは黙っている。握りしめた手は膝の上で小さく震えている。チュウヤはおとなしい性格で自分から校則を破ることはめったにない。今日はきっと初めての大冒険だ。
アパートにつく。中学までユキトと過ごしたベンチが視界に入る。あのころはあんなに幸せだったのに。ミチルは泣きそうになったが、ぐっとこらえて大股でアパートへ入っていく。
自宅には寄らず、まっすぐユキトの部屋に向かう。インターホンを鳴らす指が少し震えた。
「大丈夫?」
ミチルは頷いて、本人が出てくれることを願いながらチャイムを鳴らした。ユキトの親なら言い訳が難しい。
「はい」
ユキトの声がインターホン越しに聞こえた。甘く温かなものがミチルの胸を震わせた。
「俺。ミチル。急に来てごめん。あ、待って、友だちもいるんだ」
応答を切られる前にと、ミチルはいそいで言った。
「初めまして、木下チュウヤです。ハンカチ、その、ミチルから借りて……ありがとう、ございました」
チュウヤは緊張しきった声をしている。
「ああ、君が……ミチルから聞いてる。今日はどうして」
ユキトはやや上の空な様子で訊いた。ミチルが割り込んだ。
「付き添いで来てくれたんだ。アルファとふたりきりだと学校に叱られるから。あと、えーっと、言っとく? あ、言っちゃダメ?」
顔を真っ赤にして首を横に振るチュウヤとごにょごにょと話していると、ユキトは遮った。
「ミチル、来ちゃダメだって言っただろ。どうしたんだ。話があるならここで聞くけど」
「えっと……ユキトんちにオメガが来てるって。もうすぐ付き合うって聞いてさ。なあ、うそだよな、そんなの」
ユキトは黙っている。ミチルは焦りだした。
「う、うそに決まってるよな。だって俺が卒業したらつがいにするの考えてくれるって、約束だったもんな。ユキトが約束、破るわけないもんな……」
ベンチで過ごした幸せな日々がぐしゃりと砕けて、手から零れ落ちていく錯覚をする。性別の鑑定書を見せびらかしに行ったときの、あの胸の高鳴り。ユキトの匂い。まぶたの裏ではじける色。耳にキスされた瞬間の熱。
「俺、今は結構真面目にやってんだ、ユキトにガキだって言われないように、だから、だから」
最後は涙声になっていた。
やがてユキトは長いため息をついた。吐息がスピーカーにぼうと反響している。
「わかってるよ、お前がもうガキじゃないってことは。だからこそ困ってんじゃないか……」
弱り切った声だった。
「あの同級生なら勝手に押しかけてくるだけだ。お前が不安ならこの際、はっきり断ってもいい」
「なんだ、よかったぁ」
ミチルがほっとしたのも束の間だった。
「わかったらもう帰ってくれ、悪いけど」
冷たく突き放され、ミチルは困惑する。
「なんで? チュウヤもいるし、校則なら大丈夫だよ」
「ダメなものはダメ」
寂しさと不満が入り混じったものが一気に噴き出した。ミチルは声を張り上げた。
「おかしいじゃん、そんなの。だってそのオメガとは毎日顔を合わせてるんだろ。なんで俺だけ」
「あーそうだよ、世界中でただひとり、お前だけがダメ。それがわかんないなら、お前の脳みそはまだガキだ」
ユキトの声がだんだん苛立ってくる。つられてミチルも怒鳴った。
「わかるかよ! 俺だって寂しくてたまんねえよ! ほんのちょっとだけ、なあ、ダメ!?」
「それでもだ。これがお前の望んだ大人扱いだ。俺とお前はもう昔通りじゃいらんないんだよ、わかれよ」
ユキトは唸るように言った。
「ガキだからダメ、大人だからダメ! 俺はいったい何になりゃいいんだ! どうすれば」
「じゃあ訊くが、お前は俺にどうされたいんだよ。どうせわかってねえだろ、なんにも」
「俺はユキトに会いたい! それだけのことがなんでわかんねえ!」
「それで俺がどうなるのか、知ってて言ってんの? そうやって駄々を捏ねれば、お前にご都合のいい、昔の優しい俺が出てくるとでも? 悪いけどそんな奴、もういないんだよ。受験でノイローゼになって、もとのユキトはいなくなっちゃった。ここには危ない俺しか残ってない。だから帰って」
「なんでだよ!」
「傷つけられなきゃわかんねえのか? それならさ、わからせてやろうか。後戻りできなくなりゃ多少は理解できるだろ、お前も」
「ミチル、もういいにしよう」
チュウヤはそっと割り込んだ。泣きそうな顔で微笑んでいる。
「ユキトさんはたぶん、ミチルを守るために言ってくれてる……ミチルはもう、心配しなくて大丈夫じゃないかな」
「……木下くん、サンキュ」
ユキトは呼吸を整え、ぼそりと言った。まるでその声に押し出されたように、チュウヤの頬に涙が零れた。
「じゃあな、ミチル。……アルファには気をつけろ」
ぷつりとインターホンが切れた。チュウヤに手を引かれ、すすり泣きながらミチルはドアから離れた。まだ納得はしていない。チュウヤとユキトが何を理解しあったのかもわからない。
「うち、来る?」
ミチルはぶっきらぼうに訊いた。
「よしとく。ふたりで泣いてたら、お前のお母さんが心配する」
「かもな」
帰り道をふたりでとぼとぼと歩く。
「同級生っていいよな。いつだって会えるし」
チュウヤは何も言わない。青ざめた唇をして前をじっと見ている。
「よし、決めた。俺、ユキトの行く大学に行く。そしたらいっしょにいられるもん」
ミチルは袖口で涙を拭って、わざと明るく言った。
「うちの学園から国立大って、年に数人だよ」
チュウヤはぼんやりと言った。
「俺って実は、やればできる奴なんだよ。中学のとき全然勉強できなくて、聖フィアナなんて絶対届かねえはずだったけど、一年でなんとかなったし。今からなら二年もあるから大丈夫だって……っておい、聞いてる?」
「ああ、ごめん、そうだね」
立ち止まったチュウヤの足元に、雨のように涙がぽつぽつと落ちていく。
「ダメだ。頑張ったけど、ダメ。しばらく、ユキトさんの話、聞けない……」
「え、なんで?」
ミチルは慌てた。チュウヤは肩を震わせる。
「恋って、ひとりしか勝てないんだよ……お前はいっぱい勝ってるから、いいでしょ」
「あのさ、俺、別に勝ってなくない? 何があっても会いたくねえって言われたんだぞ」
チュウヤはふう、と長いため息をついた。疲れた声だった。
「そんなの、黙ってちょっと考えたらわかるよ。ぼくに説明させんの、いくらミチルでも残酷すぎるよ」
ミチルはわけがわからないまま、黙った。チュウヤも涙を飲み込んで、黙々と歩いている。人の少ない構内に入り、空席ばかりの午後の電車に乗り込む。ミチルは隣に座るチュウヤの顔を伺い、おずおずと口を開いた。
「あのさ、ユキトの顔が見らんなかったのがまずかったんだよな、たぶん……つい俺の話ばっかになっちゃったし、その……」
チュウヤは乾いた笑い声を立てた。
「ほんとにわかんないんだね」
「ごめん。俺、がさつだし人の気持ちあんまわかんねえし、気づかないうちにいっぱいチュウヤのこと傷つけてると思う……でも、お前のこと、友だちとして大事には思ってんだ」
ミチルはせいいっぱい心をこめて言った。チュウヤの顔が歪んだ。
「わかってるよ、そんなの。ぼくだってお前のことは大事にしたいんだ。でも……ね、この話、やめよう? また泣きそうだ」
「……うん」
ふたりのオメガは電車に揺られていく。
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