塩味アルファが甘くなるまで⑧




八 すれ違い




 同じころ、ユキトはくしゃみこそしないが、スマートフォンをにらんで顔をしかめていた。

『学校から深山ユキトさんとミチルを近づけないでくれって叱られちゃった 汗汗 今まで面倒見てくれてありがとうビッグラブ!! もうベランダでも会わないでね!!』

 ミチルの母からのメッセージには色とりどりの絵文字が踊っていた。ミチルに落ち着きがないのは母親譲りなのかもしれない。
 ミチルから連絡がなくなったと思ったら、そういう事情か。納得するとともに、ミチルの母にはわけもなく苛立った。今までさんざんミチルの世話を押し付けておいて、何がもう会わないでね、汗汗だ。
 ユキトは自分に対しても腹が立っていた。ミチルひとりのことを考えれば、何も自分が感情的になることはない。今のミチルには清潔な部屋があり、チュウヤという友だちがいる。オメガとして生きるミチルの世界にユキトが立ち入る余地はなくなった。これで安心して自分自身の心配ができる。
 そう割り切れない自分が許せない。

『そうそうミチル、やっと発情期も来たの!! (吹き流しを吹く人間とくす玉、無数のダンサーの絵文字) だからちょうどよかったかも 事故でつがいとか、ユキトくんだって困るでしょ?? 大学受験だもんね』

 ああ、いらいらする。ユキトは思わず机を人差し指で叩く。
 簡単にミチルの事情を話してしまうこの軽率さ。アルファのユキトが聞いたらどう反応する可能性があるか、考えないのだろうか。こちらの自制心を疑っているのはいいが、その危ないアルファとオメガのまな息子をごく最近までふたりきりにしておいたのは、どこの誰だ。

『俺がどこで休憩したって俺の自由です』

 そう文字を打ち込んで、紙飛行機のかたちをしたアイコンの上に指をかざす。だがユキトはゆっくりと文字を消去した。
 平常心。考えるべきはミチルの将来だ。

『わかりました ミチルには勉強をさぼるなと言っておいてください』

 送信して、窓の外に目をやった。これでよかった。すでにミチルを見る自分の目は少しずつ変わってきている。発情期が来たとなれば、考えたくはないが、アルファの本能が暴走しないとは言い切れない。
 このやるせなさはきっと自分が役目を終えたからだ。ユキトは自分に言い聞かせる。守るべき雛だったミチルはユキトの巣を離れ、今は安全な鳥かごにいる。自分を含め、アルファは誰もあいつを食べることはできない。
 ユキトの口元に、無意識に笑みが忍び寄った。だみ声でぎゃあぎゃあと騒ぐ小さなオウムの姿が目に浮かんでいた。今のミチルはかわいそうに、鳥かごから出たくても出られない。そして鳥かごに誘い入れたのはほかでもない、自分だ――

(って、何考えてんだ、俺は……)

 ユキトは頬杖をついていた手を滑らせ、顔を覆った。受験のストレスでとうとうここまでおかしくなってしまったらしい。相手はあのミチルだというのに。
 ユキトはトマト型のタイマーを乱暴に叩いて、問題集を猛然と解きだした。
 卒業して鳥かごから出てきたミチルを、自分はどうするのだろう。その答えを考えなくて済むように。
 今年だけはと、冷房をめいっぱい掛けて頭を冷やす。余計なことを考えてはいけない。未来のことも、ミチルのことも。
 夜が来た。静寂は母親の甲高い声をよく通した。また父さんと揉めたな。こんなときぐらい静かにしていてくれたらいいのに。ヘッドホンさえつんざく母親の声にうんざりしながら、ユキトはいつものように籠城する。早くよそに行きてえ。机に広がっている教材はそのためのチケットだった。
 毎日はほとんど同じ顔をしてユキトの前に現れ、運命のときを一日縮めて去っていく。
 ミチルが何度か家に戻っているのは、玄関の物音でわかっていた。そのたびに全身の神経が尖るのを感じた。ガラス戸が開き、ミチルがサンダルでベランダを蹴る音に気づくと、ユキトは決まってヘッドホンの音量を上げた。約束は約束だ。
 寂しげな気配を無理にやり過ごすたび、ユキトの中で何かがふつふつと育っていく。抑え込めば抑え込むほど、不都合な熱は胸の奥に居座って、爆発を待つように膨れ上がった。
 夏休みが終わり、学校が始まるとユキトはほっとした。小さな部屋でミチルの気配とひとりで向き合うより、ずっと楽だ。面倒な人間関係を参考書と単語カードでバリアして、自分だけの世界にこもる。
 共通テストまで残すところあと三か月となった、ある日の昼休みだった。

「深山、あの。今、ちょっといい? ここでは話せないことなんだけど」

 オメガの同級生が緊張した顔で、机の前に立っている。今年に入って何人目だっけ。スカートから覗く膝がもじもじしていたが、ユキトは顔もあげなかった。

「ごめん無理。今がダメなことがわかんない時点で無理」

 淡々と告げる。いつもこれで厄介払いできるのだが、この少女は意外に粘った。

「今だからこそ、だよ。ここからみんなばらばらになってくし……今言わないと」
「じゃあ手早くここで済ませとこ。あたし深山が好き、付き合って? はい、ごめんなさい。終わり」

 ユキトは裏声と地声を交互に出した。女の子らしいオメガの匂いが広がってユキトの集中を削いでいく。これだからオメガは。

「違った?」
「ひどい、なんで」

 図星だったようで、少女は涙声で言った。

「邪魔、邪魔、そればっかり。勉強だってふたりですればいいのに」
「ひとりでするもんだろ」

 鬱陶しくごねる様子になんとなくミチルを思い出しながら、ユキトは単語カードをめくった。

「俺が落ちて進学諦めたらお前、責任とれんの」
「……じゃあ受かるまで待つ。そしたら私を選んでほしい」

 ユキトはまた冷たく突き放そうとしたが、少し迷う。志望校に運よく受かったとして、そのあとのことはあまり考えていなかった。
 受験という言い訳をなくした自分はミチルとどう距離をとっていけばいいんだろう。退学のおそれのあるミチルに危ない気持ちを抱いてしまうより、手っ取り早くこの子と付き合って欲を満足させた方が、ミチルは安全なんじゃないか。 
 ユキトは二秒ほど黙っていた。そうしているうちに、しだいに少女の表情に自信が戻っていく。

「今はいいよ、答え出さなくて。深山が迷ってくれただけでも充分収穫。待ってるから」 
「いや、おい」

 二の句を告げる間もなく、少女は立ち去った。面倒なことになったな、とユキトはため息をつき、かばんから別の参考書を取り出した。
 日に日に風が冷えていき、残り時間が少ないことを告げている。アパート前の木々がすべて葉を落としたころ、冬休みが来た。
 もう退路はなかった。ユキトは部屋に籠った。自分の実力に対する不信がユキトの肩に重くのしかかっていた。白く曇った窓がユキトを閉じ込める。座りすぎて血行が悪くなったのか、ペンを持つ指がこわばった。
 いい加減、休憩をとるか。ため息をついて肩を回す。あんなに読み込んでいた『ドンパレイド』を読むことももうなくなった。時間が惜しいし、何より主人公を見るたびにミチルを思い出してしまう。
 そのとき、ぎい、がちゃんというドアの音が静寂を破った。そういえばしばらくミチルは土日でも家に戻っていないようだった。思わず耳を澄ますと、隣の部屋から「ただいまぁ」と寂しげに言う声が聞こえた。
 たしかにミチルの声だった。だが声変わりでがらがらしていた声はいつの間にか落ち着いていた。優しい掠れを含んだ大人の声だ。
 その響きが鼓膜に届いた瞬間、ユキトは目を見開いて固まった。耳に柔らかな羽根が触れたようだった。疲れきった脳が芯まで痺れた。
 気づけばはじかれたように椅子を蹴って立ち上がり、玄関のノブを握りしめていた。
 ユキトは愕然とした。今、我に返らなかったら、俺はいったい何をしていた――
 その答えを突きつけるように、下着の中で熱が煮えたぎっている。

「はは、俺、限界なんだな、これ」

 ずるずるとしゃがみこんだ。自分を突き動かす衝動がこわかった。
 ユキトはしばらく動けずにいた。

「ユキト、そこにいるの」

 はっと顔を上げた。冷たい金属のドアに手をつく。たしかにこの向こうからオメガの声がする。いつ出てきたのだろう。

「あのさ、受験、頑張って」

 ミチルは気まずそうに言った。郵便受けの隙間からほんのわずかに、甘くて動物的な香りが忍び込む。雌が雄を呼ぶ匂い。そこにいるのはもう子どもではない。ユキトはゆっくりと喉を湿らせた。

「それだけ、どうしても言いたかったんだ……俺のときはユキトに応援してもらったのに、ユキトのときには何もできないの、しんどいよ」

 声が切なく震えている。抱いたときもこんな声になるんだろうか。

「じゃあ。邪魔しちゃ、悪いから」

 オメガがそこから立ち去ろうとするのがわかった。
 頭の冷えた部分が計算を始める。今このドアを開ければミチルを部屋に引きずり込める。誰にもバレない、いや、バレたところで何になる。学校に通えなくなったところで、ミチルを娶ってやれば済む話じゃないか。退学になったオメガならもうどこにも行けない――

「やめろ」

 ほとんど自分に向かって叫んでいた。ドアの向こうで少年がびくりと固まる気配がした。

「もう来るな、お願いだ」

 食いしばった歯の間からユキトは声を絞り出した。握りしめた手のひらに爪が食い込んだ。そうしていないと自制が効かなかった。

「ごめん! 俺、俺――」

 ミチルが叫んだ。泣いているようだった。スニーカーがコンクリートを蹴る音がする。すぐに隣の部屋のドアがばんと大きな音を立てた。
 ユキトはふらりと立ち上がり、机に戻っていく。呆然と椅子に座り込むと頭を抱えた。無邪気な弟分の笑顔がまぶたの裏にちらついていた。記憶の中の自分はミチルになんの興味もなく、ただただ鬱陶しいと思いながら適当にあしらっていた。もうあの頃には戻れないらしかった。


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