塩味アルファが甘くなるまで⑥




六 ひとりぼっちの発情期




 ミチルは思わずチュウヤの方を見た。

「し、知らない、ぼくじゃない」

 ふざけんな、ほかに誰が告げ口したって言うんだ。そう怒鳴りたくなったがぐっと堪える。今はそれどころではない。谷中がカラーボックスを開けるのを見守ることしかできない。
 谷中は口元を覆った。

「アルファのハンカチ……それもこんなに大量に。誰のですか。加藤さんのご家族にアルファはいないはずですが」

 ミチルははぐらかすように目を逸らした。

「誰のですかと訊いています。……おや、ここに封筒がありますね。宛先は深山(みやま)ユキトさん」

 あっ、と声を上げてしまって、ミチルはあわてて口を押さえた。陰気なオメガはじっとミチルを見た。

「もしかしてこの方ですか、ハンカチの出所は」
「や、えーっとぉ」

 うまい言い訳を探していると谷中が睨んだ。

「神がご覧になっています。うそはいけませんよ」

 ミチルは何も言えなかった。神についてはよくわからないが、自分が逃げられそうにないことはわかった。
 谷中はため息をついた。

「やはりそうなのですね。この封筒、中身をあらためても?」
「え、ダメ!」

 顔を赤くしてあわてるミチルに、谷中は首を振った。

「加藤さん。隠すのはあなたのためにならない。ご自分で開けて見せるなら、処分は一段軽くします。退学にはしません」

 ミチルを試すように谷中は封筒を差し出した。ミチルはしぶしぶ封筒を受け取り、開けた。ラブレターを生活指導に見せるなんて、どんな罰ゲームだ。
 谷中は険しい顔で文章を読んだ。

「なるほど。今日は遅いので明日の放課後、訓戒処分とします。これは仮の処分です。学校長のご判断で追加処分もありうると思っていてください。木下さんも」
「はい」

 メガネの少年はかすかに返事をした。

「別室で事情を伺います。ではこれらは没収とさせていただきます。いいですね」
「……はい」

 谷中はカラーボックスを抱えて出て行った。

「信じてくれなくてもいいけど、ほんとにぼくじゃないから」

 お通夜のようになった部屋で、チュウヤの小声はやけに大きく聞こえた。

「知らねえ! もうなんっもわかんねえ!」

 ミチルはやけくそになって叫んだ。密告者がチュウヤであろうがなかろうが、最悪の状況には変わりない。
 ミチルの怒鳴り声のせいで、部屋の隅で小さくなっていた同室のお坊ちゃまふたりが怯えたように首をすくめた。ミチルはさすがにかわいそうになった。

「ごめん、巻き込んで……おやすみ!」

 ミチルは一段目にある自分のベッドに飛び込み、布団をかぶった。怒りとも絶望とも悲しみともつかない涙が枕にじわっと広がった。
 これまでたいていの寂しさは眠れば治ったのに、この日は違った。朝、ベッドから身体を起こしても鉛のような悲しみが背中に乗っている。もうこの学園に味方はいない。ユキトの存在も学園に知られてしまった。ハンカチもない。これから自分はどうなってしまうんだろう。
 横を見ると、チュウヤも起きていた。目の下に隈を作っている。とても気まずい「おはよう」を言い合ったあと、おたがいに黙りこくる。
 放課後、予告通りミチルは懲罰用の小さな部屋に呼び出された。ミチルがこの部屋に通されるのはこれで二度目、スマートフォン没収事件以来だ。ブラインドから強い西日が入って床に縞模様を描いている。正面には白いマリア像がたたずんでいる。谷中は少し遅れてやってきた。

「木下さんからのヒアリングは終わりました」
「なんて言ってましたか」

 ミチルは思わず訊いた。チュウヤがうそをついて自分を追いつめるのではないかと疑心暗鬼になっていた。
 谷中はミチルの向かいに座り、バインダーを机に置いた。

「あなたからハンカチをもらったのは事実だ。ハンカチの対価としての金銭の授受はなかった。症状が重い自分を純粋に心配して渡してくれたものだ。あなたはハンカチを、よく効く抑制剤か何かだと無邪気に思っていたようだ、と」

 ミチルはほっと息をついた。同時に後ろめたくなって、チュウヤ、疑ってごめんと心の中で謝った。

「あなたをかばっている可能性もありますが、木下さんが言っていることが事実だとすれば、あなたは本当に無知です」
「でもほんとに効いたんですよ!」

 ミチルはつい言い張った。
 谷中はため息をついた。

「それはそうでしょう。私たちオメガはそのようにできているのです。ですがアルファの匂い――フェロモンはあなたが思うような、便利なお薬ではありません。あれは浅ましい欲をかきたてるものです。弱い私たちが避けなければならないものです。まだアルファを知らない木下さんがあてられてしまったのも無理はありません。罪深いことをしましたね」
「欲……?」

 ミチルは首をかしげた。さっぱり身に覚えがない。
   谷中は憐れむような目をした。

「わからないのですね。そんな状態でアルファにあのような求愛の手紙を送っていたなど……未然にわかって本当によかった。これも神の思し召しでしょう」

 意地悪な神様だな、とミチルは思った。

「深山ユキトさんはどういう方ですか。答えなさい」

 ミチルはユキトが隣人であること、勉強を教えてもらっていたこと、会うときはベランダ越しだったことを話した。谷中はバインダーに内容を書き留めていく。

「ハンカチだってお守り代わりで……だからユキトは悪くないんです」

 ミチルはせいいっぱい言った。

「お隣の方ならご両親に聞けば知っていますね。のちほどご両親にもヒアリングしましょう」

 谷中はミチルの目を探るように見たが、うそをついていないとわかったのか、また書類に視線を戻した。

「事情はだいたいわかりました。そのアルファが兄代わりとして、比較的良識的に振舞ってくれたのも、あなたが年齢に比べてあまりに幼いからでしょう。かえって救いとなりましたね」

 ミチルは悔しくなった。

「ちょっと、先生までユキトと同じこと言って」

 谷中は遮った。

「だから幼いというのです。いいですか。アルファのフェロモンはオメガを迷わせ、堕落の道へといざないます。その先に待っているのは恥ずかしく、不幸な人生です。どんなに後悔しても一度結ばれたつがいの契りを破ることはできません。神の意思に背くことになります」

 意地悪なだけでなく、ずいぶん融通の利かない神様だなとミチルは思った。
 だが実際、つがいの離婚は難航しがちだというのはミチルでも知っていた。たがいへの執着がベータ同士よりはるかに強いせいだ。

「オメガのフェロモンもまた、アルファの理性を奪います。オメガの私たちには想像もできませんが、日頃どんな紳士であってもこらえきれないような、力づくでも手に入れたくなるほどの衝動だそうです」
「衝動」
「性衝動です。彼らのそれは慈愛の情よりはるかに強いのです。オメガを辱め、みじめにし、人生を棒に振らせてでも、自身の肉欲を晴らす方を優先させます」
「ユキトも?」
「もちろん、深山さんもです」

 ミチルは目を白黒させた。ためしにユキトが「がおー」とオメガに襲い掛かる図を想像しようとしたが、うまく行かなかった。あの涼しい目に無関心以外の表情が浮かぶことなんてあるのだろうか。

「でもユキト、普通に共学の高校行ってますけど」
「オメガたちがよほど気を付けて暮らしているのでしょう」
「街歩いてても治安がアルマゲドンってことはないし」
「夜になると一変するのですよ。だから門限があるのです」

 ミチルは釈然としなかったが、アルファ観が十八世紀で止まっている教師は咳ばらいをして続けた。

「彼らを犯罪者にしないためにも、私たちには彼らを誘惑しない責任があります」
「いや、さーすがにユキトは」

 笑いながらミチルが首をひねると、谷中はバインダーをぴしゃりと机に下ろした。ミチルは肩をすくめた。

「真面目にお聞きなさい。私たちオメガは不用意にアルファを誘惑してしまうために差別を受けてきたのです。アルファと対等な地位を得た今、我々は正しく生きなくてはなりません」

 それは差別する方が悪いんじゃ、とミチルは思ったが黙っていた。今余計なことを言うのはよくない。

「何より、望まれない子どもをこの世に産み出してはならないのです。すべての子どもは神と両親の祝福を受けなくてはなりません。いいですね」
「あの、俺は真剣にユキトと結婚したいです。子どもだってちゃんと祝福? します、大丈夫です」
「あなたの文面を見るかぎり、深山さんは同じ考えではないのでしょう。ならば誘惑するのは罪です」
「誘惑しちゃダメならどうやってオメガは結婚するんですか?」
「あなた方は高校生です。そのような心配は卒業後にすればよろしい」
「あと二年、半……ぐえ」

 ミチルは呻いた。

「先生、オメガに生まれるってもしかして罰ゲームですか」
「神の思し召しです。神のなさることは常に正しいと心に銘じなさい」

 谷中はにこりともせず答えた。

「この件に最終決定が下るまで、帰宅を禁止します。ご両親には今後一切、あなたを深山さんに近づけないよう忠告しますので、そのつもりで」

 これで話は終わりだと言いたげな様子で、谷中はペンをバインダーに挟んだ。

「そんな!」

 今後、一切。ミチルの顔から血の気が引いた。入学式のときにミチルを襲ったパニックがふたたび首筋を掴んでいた。

「これはあなたの学業のためです。私たちにはあなた方生徒を卒業まで守る使命があるのです」
「だから、ユキトはそんなやつじゃ」
「ヒアリングは以上です」

 谷中は有無を言わさなかった。
 ミチルはどうやって部屋を出たのかわからなかった。ふらふらとした足取りで自室に戻った。扉が閉まると同時に、袋が破れたかのように涙が溢れだした。ミチルはベッドに顔を埋め、わっと声をあげて泣いた。

「ミチル、大丈夫?」

 先に戻っていたチュウヤがおずおずと声をかけた。チュウヤの声など聞きたくもなかった。

「黙ってろ!」

 ミチルは涙声で怒鳴った。

「うん」

 チュウヤは俯いた。
 消灯後、ミチルは眠れずに秒針の音を聞いている。正しすぎる音の間隔がミチルの心細さを募らせていく。ミチルの上にかぶさっている二段ベッドの骨組みはひんやりと無機質で、まるで鉄格子のようだ。

(ユキト)

 ハンカチも取り上げられてしまった。両親は学校の言うことを聞くに決まっている。ユキトの両親はミチルを嫌っていると、ユキトから聞いた。ユキトとはベランダ越しでも会えなくなるだろう。世界中がユキトを自分から遠ざけていく。

(ユキトも寂しがってくれるかな。それとも俺を忘れて、知らないオメガと)

 「がおー」とユキトが知らないオメガにかぶさる姿を想像して、あるわけないと笑い飛ばそうとした。今度は失敗だった。
 ミチルだって、コウノトリが赤ちゃんを連れてくるとまではさすがに思っていなかった。インターネットでは子どもの手の届くところにとんでもない刺激物が転がっている。ただミチルの好みは青年誌より少年誌、それも小学校低学年向けギャグ漫画だったため、そういった刺激に深く興味を抱くこともなく過ごしてきた。それに、それらとユキトを結びつけるには、ユキトはあまりに清潔でそっけなかった。性的な情報は断片のまま、別世界の話としてミチルの脳にふわふわと漂っていた。
 だが谷中の話を聞いてから断片は少しずつつながって、アルファの本性をおぼろげに描き出していた。自分が知らないユキトがいるのかもしれない。もしかしたらすでにユキトは。
 単純な線で描かれていたミチルの世界が奥行きを増し、あやしく歪んでいた。何を信じればいいんだ。ミチルの目に涙がせりあがって止まらなくなる。目が、頬が、喉が熱い。

(先生の言ってたことなんもわかんねえけど、それでも……俺はユキトが好きだ)

 しゃくりあげるとともに呼吸が荒くなっていく。身体のなかで熱が暴れまわっている。どうすれば楽になるのかもわからない。ただ、ここにユキトがいてほしい。
 不安が胸を締めつける。パジャマや下着が汗で湿っていく。しゃくりあげる音は喘鳴に変わった。ミチルは目をつぶり、もがいた。
 固い蕾がはじけたかのようだった。花というよりは動物的な、甘い香りがじとりと部屋に広がった。


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