塩味アルファが甘くなるまで⑫
十二 さよならは言わなかった
「またユキトったらそんな口約束!!」
受話器を耳に押し当て、ミチルは叫んだ。世界中でただひとり、ミチルにだけは会いたくないとまで言っていたくせに。
「絶対守らねえつもりなの知ってんだからな! 期待させてまた騙すんだろ!!」
「でも今回は私の希望じゃなくて、あんた自身で決めたことだし。ユキトくんの約束がなくたって目指すつもりだったよね? そうでしょ?」
ミチルの母親はなだめるように言った。
「ね、応援してくれてるだけでもいいじゃない! 嫌いだったら冗談でもそんなこと言わないもん」
「え……へへ、たしかに、そうかも?」
単純なミチルはすっかり照れて鼻の下を掻いた。あの冷たい拒絶のあとでは人参だって甘い。
「まあ、ユキトくんがほんとに待っててくれるかはわかんないけどねー。期待しすぎないで、なるべく自分のためだと思って頑張んなさい」
ミチルはがっくりと肩を落とす。人参は人参だ。
「だよなー……わかってる。とにかく、この期末はなるべくいい点とるから。ん。じゃ」
受話器を置くと、ミチルはきりりと唇を結んで部屋に戻った。ユキトが今から立ち向かうゴールに、今は自分も向かっている。見てろ、ユキト。
消灯の時間は決まっていた。勉強時間を増やすなら自由時間を削るしかなかった。入学したとき、ミチルが「牢屋」だと思った寮は誘惑もなく静かで、集中するにはちょうどよかった。
教室の日めくりカレンダーが減っていく。一年弱の緩みは取り返すのに苦労したが、ユキトが教えてくれた基礎はたしかにミチルを支えていた。期末テストはどの科目でも、きれいに一割得点が上がった。
その隣で、チュウヤは学年十位以内に躍進していた。それまでも成績は悪い方ではなかったが、取りこぼしが目に見えて減っていた。
「すげー……どうしよ、俺勝てねえじゃん」
チュウヤの持つテスト用紙を覗きこみ、ミチルは床に突っ伏した。チュウヤは寂しそうに微笑んだ。
「こういうのは、ひとりだけが勝つわけじゃないから」
どこかで耳にした言い回しで、ミチルはようやく気づいた。
「なあ、もしかしてチュウヤもユキトの大学、目指してんの」
チュウヤは答えない。
ミチルは仰向けになって、ぱちんと額に手を当てた。
「よし、なら、俺だけ落ちるわけにはいかねえな!」
「そうだね。いっしょに行けたらいいね」
チュウヤは微笑んでいる。
週末、ミチルはふたたび実家に電話をした。ユキトの合格発表があったはずだ。
「どうだった!?」
受話器の向こうにいる母親に向かって、ミチルは思いきり叫んだ。
「ふっふっふ、聞いておどろくな?」
「焦らすんじゃねー!!」
母親は苦笑した。
「ごめんごめん。合格だよ。経済学部、立派だねぇ」
ミチルはひょわーと奇声を上げた。
「俺、明日おめでとう言いに行く!!」
「こら」
「あ、えーっと、家に帰るだけ、な!! 帰るだけだからぁ。別にユキトに会いに行くわけじゃねえからぁ」
母親は大げさなため息をついた。
「もう。しょうがない、今回だけは見逃してやろう」
――次の日、自宅に帰ったミチルを迎えたのは、ユキトが家を飛び出したという知らせだった。
「ユキトが、出てった……? うそでしょ」
ミチルは玄関で立ち尽くした。ぐわんぐわんと耳鳴りがする。俺を置いて、ユキトはいったいどこへ行ったんだ。少なくとも俺が受かるまで、待っていてくれるんじゃなかったのか。
「それがね」
母親は困った顔をしてミチルを家に入れた。
「昨日の夜お母さんと喧嘩したみたいで、すごい声が聞こえて。どうして誰も私の味方をしないのよ、とか、とか、あんなのをこの家に入れろっていうの、とか。めずらしくユキトくんが何か言い返して、ばーんってドアの音がして。あわてて見に行ったら、ユキトくんが出て行くところで」
「だって学校どうすんだよ」
「私も心配だったから連絡したの。そしたら、これ。ちょっと待ってて」
母親はスマートフォンを見せた。
『ご心配かけてすみません ひとり暮らしが始まるまで父方の親戚のところに身を寄せます』
ミチルはほっと息をついた。音信不通ではないらしい。
「でも、えっ、ユキト引っ越すの」
「まあ、あんなに揉めたらね。ユキトくんにとってはいい機会なのかもよ」
ミチルは呆然とした。うそ。あのインターホン越しの喧嘩が、ユキトと話せる最後のチャンスだったなんて。
「ちょっとスマホ貸して、俺もユキトと話したい」
ミチルは母親が返事をする前に通話のボタンを押した。端末を握りしめてじりじりと待つと、やがてぷつりとかすかな音がした。
「はい」
「ユキト!」
「変だな、おばさんの電話からミチルの声がする」
ユキトはとぼけてみせた。
「俺だもん! えっと、えっと」
とっさに電話したせいで、何を言っていいかわからなくなる。
「とにかく、すげえ大変なことになっちゃってるな、大丈夫かよユキト」
「だいたいお前のせいだけどな」
ユキトは自嘲するように笑った。
「へ、どういうこと?」
「なんでもねえ。それで? 見事合格したユキト様にお祝いのメッセージは?」
ユキトは話を逸らした。ミチルは素直に食いついた。
「あ、そうだった! おめでとう! ユキトの家出がショックすぎて忘れるところだった、あぶねえあぶねえ」
「ほんと、こうして遠くで話してるぶんには相変わらずだな」
ユキトはなぜか寂しそうに笑った。ミチルもつられて少し真面目になった。
「それを言うなら、ユキトも。気持ち、落ち着いたみたいでよかった。この前はすげえ殺気立ってたから」
「ま、お前の思い出の中に住んでるらしい、お優しい俺がいなくなったのは確かだけどな。今回のことでお前とも距離が取れて、いろいろちょうどよかったわ」
軽口がミチルの胸をちくちくと突き刺した。
「もう二度と俺と会わないつもりなの……?」
ユキトは少し黙った。
「ねえ、ユキト」
「二年後、お前も俺の大学に受かったら」
「ただの人参だろ、それ。今日だってどっか行っちゃって、すげえ心配してさ。口約束じゃこわいんだよ。もっとちゃんとしたのがいい」
「ごねるなよ」
ユキトは弱った声で言って、迷うようにため息をついた。
「そうだな。お前もさ、自分の部屋が物置になったとか言ってたし。寮を出たら行くとこねえだろ。お前がもし受かったら、そのときは――」
ミチルは目を見開いて、言葉の続きを待っている。
「――俺んちに来い」
ぶっきらぼうだが、いつになく優しい声がした。
「ユキト、それって」
それってつまり。言葉の意味がひどくゆっくりと脳に伝わっていく。端末に触れていたミチルの耳がじわじわと熱くなる。
甘くなった空気を破るように、ユキトはいつもの調子に戻って、言った。
「そ、新しい人参」
ミチルは叫んだ。
「やっぱり!! ちくしょー!!」
「ははは」
「でも、聞いたからな。絶対覚えてるからな!」
「お前の方こそ、ちゃんと覚悟しておくんだぞ。そのときはもう止まってやれねえ」
「え?」
ユキトはときどき、よくわからないことを言う。ユキトはごまかすように笑った。
「とにかく、まずは受かれ。言っとくけど大変だぞ」
「うーん、先は長え」
「じゃあな。元気でいろ」
ユキトは軽やかに言った。
「やめろよ、これが最後みたいに」
ミチルは急に不安になった。
「お前の頑張り次第じゃ最後かも……あー、うそうそ、おばさん経由でたまに連絡するから。だから泣くな」
ミチルが目を潤ませた瞬間、ユキトはなだめるように言った。ミチルは鼻をすすった。
「なんでわかんだ?」
「いつから面倒見てると思ってんだ。お前のことならなんでもわかるって。じゃ」
「……うん。じゃあ」
電話は切れてしまった。ミチルはしばらく動けなかった。
(さよならって言ってなかった)
だから大丈夫だ。ミチルは自分に言い聞かせた。
「あんたほんとにユキトくんが好きなんだ」
母親はスマートフォンを受け取りながらにやにや笑っている。
「当たり前だろ」
眼のふちを真っ赤にして、ミチルは答えた。
春休みが始まり、ミチルはふたたび実家に戻った。何か展開はないかと母親をせっついたが、あれからユキトから新しい連絡はないという。がっかりしたミチルは寮に戻ろうかと考えていた。やることもないし、あちらの方が勉強に集中できる。
そんなとき、ユキトからミチルに宛てて、少しふっくらとした封筒が届いた。送り主の名前だけがあり、住所は書いていない。
(ユキトのケチ。もう教えてくれたっていいのに)
膨れながらミチルは封筒を破った。
ミチルははっとした。封が開いた瞬間、グレープフルーツに似た香りがした。ぼん、とミチルの全身に、爆発するように熱が回った。
震える手で封筒の中を探ると、柔らかな布の感触があった。封筒から取り出すと匂いは濃くなった。ミチルの頭はぼんやりと霞んでいく。小学生のころ、洋酒がたっぷりしみた貰い物のケーキをこっそり平らげたときのあの感覚によく似ていた。
手の中にあるのはハンカチだった。いっしょにメッセージカードが同封されている。ミチルはふらふらした頭でカードを見た。書きなぐられた文章は短かった。
『今度はうまく隠せ あと絶対配るな』
懐かしいユキトの字だった。
ミチルはカードとハンカチを胸に抱き、物で溢れたリビングにうずくまる。膝がごんと通販の段ボールを蹴った。息が、胸が苦しい。もっとこの匂いが嗅ぎたい。呼吸とともに痺れが脳へ走る。
「……ぁ、あ……」
本能だけではなかった。ユキトとの距離がハンカチへの執着を強くした。ただの布切れが、遠く離れたユキトの一部であるかのようだ。トレーディングカードのウルトラレアを何百枚もらったって、誰にも渡したくないとミチルは思う。食べてしまいたいぐらい。
ようやくわかった。チュウヤの言う通りだった。これを誰かにあげてしまうなんてどうかしていた。あのときの自分はどうしようもなく子どもだった。
日が傾いて、やがて部屋は真っ暗になる。頬を床につけたまま、ミチルは溶けたまなざしでハンカチを握り続ける。ミチルの口元は緩んで、はあ、はあと熱い息ばかりが漏れた。
「ただいま……ちょっと、ミチル? どうしたの、やだ、すごい熱」
仕事から戻った母親が駆け寄ってくるのがぼんやりとわかった。
気づいたときには、父親に布団へ運んでもらったあとだった。ミチルは一日寝込んだ。最初の発情期で感じた、腹に熱い鉄を乗せられたような苦しさはない。そのかわり、身体がふわふわとした湯気になって消えてしまいそうだった。ユキトの声、瞳、髪を撫でる手のぬくもりが夢に現れては、色とりどりの光に混ざって溶けた。
熱が引き、夢は終わった。ミチルが身体を起こすと、ぬるくなった熱さましシートがぷるんと額から剥がれ落ちた。激しい呼吸のせいで喉が乾いていた。水を飲もうと、ミチルはふらふらとリビングに行った。
「起きた?」
母親は珍しく休みをとって看病してくれたようだった。台所では、粥のパックが鍋の中でぐらぐらと揺れている。テーブルの上を見ると薬局のビニール袋が置いたままになっている。
「病気じゃないのに、いろいろごめん」
「いいのいいの。有給とれって会社にうるさく言われてたしさ。それにしても、オメガってやっぱり大変だねぇ。あんたはちょっと寂しくても、寮のある学校にしてよかったよ。私じゃ対応しきれないもん」
「学校も大したことはしてくんねえけどな。こういうの、持ち込み禁止だし」
ミチルはハンカチを持つ手に力を込めた。これを家に置いて学校に行くなんて、できる気がしなかった。
「ユキトくんのハンカチ、あった方が楽?」
ミチルはにっと歯を見せて笑った。
「そりゃもう、全然違うわ」
母親は少し考えると、どこだったっけと言いながら家じゅうをひっくり返し始めた。
「どうしたんだ」
「あったー!」
母親は押し入れの奥から箱を引っ張り出し、戦利品を高々と宙に挙げた。色付きのビニール袋だった。
「これこれ、匂いが漏れないエチケット袋。あんたがおむつのときに使ってたやつ」
ミチルは目を輝かせた。
「それにユキトのハンカチを入れればバレない! 天才!」
「別にハンカチで妊娠しちゃうわけないもんね。でもこっそりだよ、こっそり」
似た者どうしは頷きあった。
ミチルは真面目くさった顔をして、カードデッキケースを取り出すとおもむろにカードを中から追い出した。空いたケースの中へ、袋で包んだハンカチを詰め込んでリュックに戻す。部屋に置くよりは手荷物に入れておいた方が安全だと、この一年でわかっている。
密輸犯のように挙動不審になりながら、ミチルは寮へ戻った。さいわい休み期間中で谷中の監視はなかった。ミチルはほっと息をついた。
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