塩味アルファが甘くなるまで⑬
十三 季節はめぐって
ひと月、ふた月と時間が過ぎていく。ミチルは見回りや手荷物検査のたびにどきどきしていたが、匂いがしないせいか見つかることはなかった。
もちろんチュウヤだけは気づいているようだった。が、彼は目を逸らすだけで、それがほしいとも何も言わなかった。
(恋って自己中だな)
ミチルは罪悪感でいっぱいになる。チュウヤの症状はミチルより重いと知っているのに、今のミチルはハンカチをけっして渡すことができなかった。
(でも、ユキトは渡せねえ)
自分でどんなに否定したくても、チュウヤの存在が心に影を落としている。受験で勝つのはひとりではないとチュウヤは言ったが、募集人数枠を奪い合う現実は動かない。枠から弾き飛ばされ、ひとりで落ちていく自分が見える。手の先でチュウヤとユキトが笑いあっている。
そんなの、ダメだ。ミチルはハンカチを抱きしめる。そこに俺もいなくちゃ。チュウヤが大切なのは揺るがないが、ユキトだけは譲れない。
香りを頼りに、長い寮生活の寂しさをやり過ごす。まぶたの裏に浮かぶ色は、暗くて長いトンネルの先にぼうっと見えた光に似ていた。その先にユキトがいる――はず。いてほしい。人参のやりとりを思い出すたび、ミチルの胸はぎゅっと切なくなる。
灰色をした、地味な日々の繰り返しがミチルを少しずつ目標に近づけていった。有り余った体力は部活で発散し、それでも足りない部分はやけくそで歌った。身体の中心に大きく開いた空洞に、知識と、自分の声と、ユキトとの思い出を詰め込む。それでも寂しさが埋まることはなかった。友だちといくら表面的にじゃれあっても、ダメだった。
深夜に感じる強烈な寂しさは飢餓に似ていた。本当はいつだって逃げ出したい。が、積み重ねた日々の重みがミチルの退路を断った。ここまで来て泣き言なんて言えるか。
ユキトから母親へは約束通り、何度か近況報告があった。父親の協力で新居に移ったこと、家庭教師のアルバイトを始めたこと。
「出会い? ないない、学校にオメガがそもそもほとんどいないんですよ。受け持ちの子もニキビ面のアルファですから、ミチルのやつに安心するように言っておいてください。だってさ」
へたくそな声真似で母親から伝言されて、ミチルはかえってやきもきする。
「ほとんどってことはゼロではないよな、どうしよ」
ユキトは自由な世界を生きている。牢屋に放置したまま、ミチルを忘れることなんて簡単だ。ミチルはどうしようもなくこわくなった。
「当たり前でしょ。あんただってこれから目指す学校なんだし、オメガがゼロじゃ困るじゃない」
「そりゃそうだけど! ここまで来て物理の距離で負けんのやだ……くそー、どうせ負けるなら諦めた方がましじゃねえか」
ミチルは頭を掻きむしった。今まで自信満々で積み上げた自分の努力が一気に色あせて見えた。どうせ人参だと最初からわかっていたのに。頑張ればいつかユキトが振り向いてくれるという幻想でおかしくなっていた。
電話の向こうで母親はくすくすと笑いをこらえている。
「ふうん、やめちゃうの、そう。お母さんはいいけど、こんだけあんたの頑張りを聞かされてれば、ユキトくんにも相当心理的圧力がかかってると思うけどなぁ?」
「え」
「なんだかんだ言って、コンスタントに連絡してきてくれてるじゃない。あんたのこと忘れてない証拠。でもそっか、やめちゃうのか。もったいないなー」
「そっか、なら、やめない!」
ミチルはぱっと顔をあげた。現金なほどあっさりと、自分の頑張りにふたたび色がついた。母親は大笑いした。
「ほんとユキトくんってミチルの扱いが上手。実は今の全部ユキトくん直伝でさ」
「はあ!?」
「すごいよねぇ。あの子がもらってくれるなら私も安心だ」
母親はぽろりと漏らした。だがミチルはすねるのに忙しく、母親の声が真面目だったことに気づかなかった。
「どうせ人参だけどな、ふん」
「え? うん、そうそう、人参、人参。ふふふ」
母親はごまかすように笑った。
バスケ部の気のいい先輩が卒業していき、三年生になる。ハンカチの匂いはとっくに抜け落ち、ただユキトが遠い昔使っていたことがある、というだけの安全な物体となった。もう谷中の目もこわくない。そういえば成績が良くなってから、谷中のミチルを見る目はずいぶん優しくなった気もする。教師ってそういうものなのかな、とミチルは不思議に思う。
ミチルは自分のものだというふりをして、ハンカチを堂々と肌身離さず持つようになった。期末試験でも、休み中の講習でも、くたくたになった柔らかな感触はミチルを支えた。増していく重圧も閉塞感も、ユキトだって味わったのだと思えば耐えられた。
「ここからが大変だぞ、せいぜい頑張れー」というユキトからの伝言もあった。が、そちらは本気で応援しているのかよくわからなかった。なんだよ、本人よりハンカチの方がずっと優しいじゃねえか。 試験の直前、母親から合格祈願のお守りが送られてきた。「これをユキトくんだと思いなさい」という謎の応援メッセージがついていた。手紙にはユキトからの伝言もあった。
『お前ならどうせ大丈夫だろ 気楽に行け』
お守りはリュックに提げた。ミチルはハンカチを胸ポケットにしのばせ、試験会場に立った。あれから丸二年。会場こそ違うが、似た景色をユキトも見たのだと思うと肌が震えた。ハンカチをポケットの上から握ってみても、心臓が口から飛び出そうだ。せめて神頼み、あるいはユキト頼みしようとお守りを手に取ったとき、ミチルは何か手に違和感をおぼえた。
「ん?」
ゆっくりと袋の口を開くと、中に折りたたまれたコピー用紙が入っている。
広げると、それはプリントアウトされたミチルとユキトの写真だった。なんで、これがここに。ミチルは目を見開いて、皺だらけの写真を見た。三年前のミチルはひどく幼い。ユキトだけは記憶とあまり変わらない。当然だった。もう二年顔を合わせていない。ミチルは今のユキトを知らない。
いたずらっぽい母親が応援のつもりでここに写真を入れたのか。だとしてもどうやって画像データを入手したのか。
何もわからないまま、ミチルの目にぶわりと涙がこみ上げてくる。
「ひぐ、っう、ユキト……」
ミチルは肩を揺すってしゃくりあげた。安っぽい紙の上にいくつも涙が滲む。
待ってろ、勝ってくるから。絶対、会いに行くから。
少し離れたところで、チュウヤはミチルをじっと見つめている。
ミチルは固唾を飲んでホームページにアクセスする。マウスを握る手に汗がにじんだ。二秒、三秒、数字の並んだ画面をにらんで、
「あったああああ!!!」
ミチルはこの二年間でいちばんの大声を出した。うしろにのけぞったせいで椅子が転覆し、視聴覚室のカーペットに着地する。同日に合格発表だった生徒数人が次々に画面を覗き、思い思いの反応をする中、ミチルはひとり床に転がっている。
「やった、受かった、受かったよ」
涙を手で拭い、ミチルは胸からハンカチと写真を取り出した。今まで我慢しぬいたぶんの苦労と寂しさが胸に迫る。報われた。世界に色がぶわりと広がった。ユキトのいる世界に、俺も行ける。
ミチルは写真のユキトに大げさなキスをして、抱きしめる。
「覚えてるからな、ユキト! もらって、もらうからな……人参だなんて、言わせるか……」
そこでミチルは号泣した。
チュウヤもあとから部屋に来た。
「どうだった?」
ミチルは立ち上がって訊いた。
画面を覗くと、チュウヤはどこか寂しそうに微笑んだ。
「受かってた」
ミチルは思い切りチュウヤに飛びついた。
「おめでとう! 頑張ったな、俺たち! いっしょに通えるな、これで!」
「うん。……うん、そうだね」
チュウヤは少し困った顔をして、ミチルの背中を撫でた。
「いい将来、いい友だち。それだけで充分だ、ほんとは」
チュウヤはそっとつぶやいた。
「そう、充分」
「チュウヤ?」
「なんでもないよ。行こ、親に電話しないと」
チュウヤは吹っ切れた顔で笑った。
「わあ、だいぶかかりそうだな、これ」
玄関の電話台には視聴覚室にいた全員が列を作った。不合格だったらしい生徒が受話器を持ってすすり泣いている。後期試験で受かるといいな、とミチルは居心地悪く生徒を眺めた。
まだ寒さは残っている。ミチルとチュウヤは列の最後で足踏みしながら待っている。
「おめでとうございます、加藤さん、木下さん」
谷中がぬっとうしろに立っていた。
「木下さんのことはあまり心配しませんでしたが、加藤さんには驚かされました。あんなに行動が幼かったのに」
「先生、今言うことじゃないでしょー」
ミチルが小突いてもにこりともしない。
「アルファの多い学校ですから、ふるまいには充分気をつけるのですよ。ここと違って、もう私たちはあなた方を守ることはできません。特に加藤さん。あなたは昔の私と同じくらい無知です」
ミチルは谷中をまじまじと見た。この陰鬱なおじさんに若いころがあったこと自体、想像したこともなかった。それに谷中を若くしたところで、ミチルには絶対ならない。
「電話、空いたようですよ」
「はい」
ミチルはあわてて受話器を取り上げた。両親とも留守だったから、ミチルの電話は短かった。ミチルは谷中とチュウヤを気にして声を落とすと、絶対に約束を守るようにユキトに伝えて、と言って録音メッセージを締めくくった。
そわそわしながら週末までをやり過ごし、ミチルは実家に戻った。珍しく両親とも在宅でミチルを出迎えた。よくやったぞ、わが子と叫ぶと母親はわしわしとミチルを撫でまわした。
「ねえ、それより、ユキトにちゃんと伝えた?」
ミチルは不安を隠さずに訊いた。母親は自慢げにスマートフォンを突き出した。返事を見たミチルの心臓がどくんと跳ねた。
『俺もついに年貢の納め時ってことですね おめでとう、荷物をまとめておけと言っておいてください』
母親は白い歯を見せた。
「そこそこ本気、だったみたいね」
ミチルは奇声をあげた。
「なあ、これ、夢? ユキトなんか変なもん食った?」
「ふふん、種明かししようか」
「うん」
ミチルの喜びは吹き飛んだ。種明かし。ということはこれは何かのいたずらか。やっぱりそうか、ユキトのやつがこんなやすやすと俺になびくわけ、なかった――
「なんと、ユキトくんは二年前から本気でした。はー、ようやく言えてすっきりした」
母親はけらけらと笑っている。ミチルはぽかんとした顔で母親を見つめた。
「うちにもご挨拶に来て、なかなか時間とれなかったけどうちのお父さんとも話せて。将来的にはミチルをもらいたいって」
父親は真面目な顔で頷いた。
「うちの方からは縁談に文句ないって言っておいたから」
「もらいたい……縁、談……」
ミチルは呆然と繰り返した。何かものすごいことを言っている気がするが頭がついていかない。
「ユキトくんちの方がちょっと揉めそうとは言ってたけど、なんとかするって。うち、お隣さんに嫌われてたんだなぁ、気のせいじゃなかった」
母親はぼやくように言ったが、ミチルは聞いていなかった。あまりのことに言葉を失っていたのである。
「あ、そうそう、お守りの中、見た? あれもね、ユキトくんが送ってくれたの。ミチルの写真、三年間ずっと大事にしてくれてたって」
ミチルは口をぱくぱくさせ、やがて叫んだ。
「それがマジなら、どうしてそれを直接俺に言わねえんだよ、バカユキト!!」
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