塩味アルファが甘くなるまで④
四 ふたりの間の壁
ユキトがベランダに出てしばらく待つと、ガラス戸がカラカラと開く音がした。
「ミチル?」
「ん……」
防火壁の向こうから鼻をすする音がした。
「お前、泣いてんの」
「うっさい。ユキトが待っててくれたの見たら、なんか止まんなくなっちゃって」
とぎれとぎれのだみ声が聞こえた。
「なんかあった」
「木曜にスマホ見つかって、取り上げられて……今日も午前中いっぱい神父の先生にお説教されてた。罰として門限が五時に早まったから、すぐ帰らねえと」
「そっか」
「寮の電話は家族以外に掛けちゃダメだって……だから連絡したかったけどできなかった」
ミチルの声が震える。
「なあ、なんで俺あんなとこにいなきゃなんないんだよ、ユキト」
「そんなこと言うな。せっかくお前が頑張った結果だろ」
少し後ろめたい気持ちになって、壁の向こうになるべく柔らかい声をかける。俺のせいでミチルが泣いている。広い世界からミチルを隔離したのは、本当にミチルのためだったのか?
「写真」
ミチルはぼそりと言った。
「ユキトと最後に撮った写真もスマホの中なんだ。お守りみたいにしてたのにさ」
この寂しそうな声に、ユキトは弱い。
「待ってろ」
ユキトは家の中へいそいで入った。何か渡せるもの。少し迷って、ユキトはハンカチを引き出しから出した。
ベランダに戻ると、オメガは不安そうな声をしている。
「ユキト? どうしたの?」
「もうちょっと気の利いたのがあればよかったけどな。こういうの、これから必要になるんだろ、オメガは」
そう言いながら、手すりの向こうに手を伸ばした。手に持った水色のハンカチが風になびいた。
「いいの?」
防火壁の向こうで、柔らかい手がユキトの手をぎゅっと握った。すがるようだった。不覚にもユキトの心臓が跳ねた。
ゆっくりと手を引くと、ミチルが一瞬黙った。
「ユキトの匂いがする。ありがとう、ちょっと頑張れそうだわ」
「うん。俺も踏ん張るから」
なぜかそんな言葉が口から出た。
「帰りさ、いっぱい便箋と切手買ってく。そんで毎日手紙送る」
ミチルはすっかり元気を取り戻した声で言った。ユキトは呆れた。
「そんなにアルファとやりとりしたらまた学校に怒られそうだけどな」
「そっかー、くそー、じゃあ二日にいっぺん!」
「いや、俺と交渉したって意味ないから……そういや、もう三時すぎだけど時間は大丈夫か」
「あ! ダメ! じゃあね!」
ぴしゃんとガラス戸が締まる音がした。ユキトはふふっと苦笑して、自分も部屋に戻った。まだ手の熱が残っている気がした。不思議な高揚感に背中を押されていた。耳にヘッドホンをかぶせると、ユキトは机に向かった。
日曜日はたしか午前中に礼拝があるはずだ。来るならまた午後だろう。そう考えたユキトは次の日も同じ時間に公園へ下りた。
だがその日、ミチルは帰ってこなかった。
バカな俺。ユキトはひとり肩をすくめ、すっかり温まったベンチから立ち上がった。ミチルだってきっと新しい生活が始まって、暇ではない。
ミチルから手紙が届いたのは火曜だった。
『ユキトへ
チュウヤの熱がひどくて日曜は帰れませんでした。ハンカチはチュウヤにあげちゃったので、次に帰ったときにもう一枚ください。
あとバスケ部の先輩に聞いたら文通は目立つからやめた方がいいそうです。生徒あての手紙は差出人を見られちゃうそうです。なので返事はいりません。
加藤ミチル』
ユキトは長々とため息をついた。
「バカだねぇ……」
言いたいことだけを言って終わる子どもっぽい文面も問題だが、それよりも、あのハンカチをあげてしまったなんて。しかもこんなにあっけらかんと。
たしかにチュウヤの症状は重いのだろう。アルファの匂いがオメガの苦痛を軽減することも知っている。だが顔も知らないアルファの持ち物を嗅がされたって、そのオメガだって気持ち悪いだろうに。
それに、ユキトはミチルが泣いていたから渡したのだ。熱を出した友だちを心配するあまり、あのハンカチを気前よくあげてしまったのはたしかに優しい。だが裏返せば、それぐらいユキトの持ち物に執着がなかったということだ。成熟したオメガなら巣作りの本能があり、好きなアルファの持ち物に執着する。そう簡単に他人に渡しはしない。
(やっぱりミチルはガキだ)
そうユキトは結論した。彼がユキトに言う「好き」「結婚して」は口癖のようなもので、恋愛感情ではない。恋などという複雑な感情を、あの単純なミチルが本当にわかっているわけがなかった。
その気づきは思ったよりも苦くユキトの胸に広がった。ユキトは手紙を封筒に戻し、引き出しに投げ入れた。
次の土曜日、ミチルが帰ってきた物音がしても、ユキトは知らないふりをして勉強をつづけた。が、右の部屋からばんばんと壁を叩く音がすると、さすがに無視しきれなくなってユキトはベランダに出た。
「うっさいわ。休憩時間まで待て」
「意地悪言うなよ。それよりハンカチ」
「あー、はいはい」
別にこれでいいか、とユキトはポケットの中でくしゃくしゃになっていた布切れを引きずり出した。
「二、三枚くれる? なんか症状重い奴、ほかにもいるっぽくてぇ。あ、ユキトのハンカチすげー効いたわ、ほんとありがとう」
無邪気な声が無性に苛立ちをかきたてた。
「……それは何より」
ユキトは部屋に戻り、ハンカチを引き出しにあるだけ全部出した。もうやけくそだった。
「ほら、上から行くぞ」
防火壁の上からどさどさと向こうのベランダに投げ入れると、ミチルが慌てている声がした。
「わあ、乱暴すんなよ!」
「うるさい。アルファ様の貴重なハンカチだ。もらえるんだからありがたく思え」
「そりゃそうだけど! この前みたいにもっとやさーしく」
「どうせ大事にしないんだからいっしょだろ」
ユキトの皮肉は耳を素通りしているらしかった。ミチルがせっせと拾う気配がする。
「こんだけあればみんな困んないな。サンキュ」
「……もう用は済んだだろ。じゃあな」
ユキトはそれだけ言って部屋に戻った。ミチルがまだ何か騒いでいたが、ユキトは構わずヘッドホンをかぶった。ざぶん、ざばん。単調な波の音がミチルの声と、胸に広がった黒い淀みを静かに押し流していく。
あんな子どもに感情をかき乱されたことが悔しかった。
ユキトのミチルを見る目は、少なくとも意識の上では、ミチルの耳にキスする前にほとんど戻った。ミチルは週末に帰ることもあったし、寮で過ごすこともあった。どちらであってもたいして心配しなくなった。ミチルは子どもで、だからこそ安全だ。ユキトを含め、まともなアルファが欲を向ける相手ではない。
ユキトが週末、休憩時間をベランダで過ごすようになったのも、昔ベンチでミチルの子守をしていた名残であり惰性だ。それ以外にいったい何があるというのだろう。
「夏休み、ほんとはこっちに帰りたいんだけどさ、母さんはあっちにいてほしいらしい。子ども部屋も物置になっちゃったし、もう居場所はないっちゃないんだよな。どうしよ」
鬱陶しい梅雨空そっくりの声で、ミチルが壁越しに相談してくる。
「向こうにいれば? 静かになるし助かるわ」
ユキトはスマートフォンを弄りながら軽口を叩いた。
「バカユキト。でもそうだな、ユキト、今が大事な時期なんだもんな」
声があんまり寂しそうに響くものだから、ユキトは少しだけ罪悪感を覚えた。もっと駄々をこねるものだとばかり思っていた。
「そういやチュウヤは家遠いから夏休みも帰んないって言ってたな。あいつ、なんでかわかんねえけど最近塞いでるし、そばにいてやるか、仕方ねえ」
気持ちを切り替えた様子でミチルは言った。
「おうおう、それがいい」
口ではそう答えながら、ユキトは謎の敗北感に襲われていた。チュウヤという顔も知らない少年がユキトのいた場所をあっさりと埋めていた。
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