塩味アルファが甘くなるまで⑭
十四 思い出のベンチで
卒業式の余韻はまだ残っていた。オメガたちはよく泣いた。ミチルが好きだと言っていた彼は、卒業後すぐ見合いをするのだという。彼もまた静かに肩を震わせていた。
どうしても外せない会議がなぜか必ず湧いて出るため、ミチルの両親が学校の催しに来ることはほぼない。今回もそうだった。卒業証書を手に、ミチルはひとりアパートまでの道をゆっくりと歩く。ブレザーを着るのもこの日が最後だ。三年前、同じ道をユキトめがけて走っていったっけ。あのときからずいぶん遠いところへ来たような、何も変わっていないような変な感じだった。
ふと顔を上げると、ミチルは息を飲んだ。
三年前には散り始めだった桜はまだ五分咲きで、頼りなく揺れている。その下に彼はいた。きれいな横顔の青年は、スマートフォンを眺めながらベンチで脚を組んでいる。
見開いていたオメガの目に涙がこみ上げた。
待っていてくれた。そうだ、こいつはいろいろ言ったって、いつだって俺のことを待ってくれていた――
「ユキ、ト」
ようやくミチルが声をかけると、青年は照れくさそうに顔を上げた。
「お帰り、おめでとう」
「うん……えっとさ、言うことはそれだけ?」
「頑張ったな」
ミチルが隣に腰を下ろすと、ユキトは三年前と同じようにミチルの頭を優しく撫でた。ミチルはぐすぐすと鼻を鳴らして、手のぬくもりに肌を震わせている。
「やっぱ、いたじゃん。昔の優しいユキト。ずっと会いたかった」
ユキトは笑った。
「昔の俺? そんなのとっくにいないって」
「でも、こうやって昔みたいに待っててくれたし」
「ああもう、なんでそんなに鈍いんだよ、ミチルは」
ユキトはわざとらしくため息をつくと、端末をポケットにしまった。
「外堀を埋められまくってんのも、わかんなかったの?」
「何それ」
「ん? わかんなきゃいいや。じゃ、行こうか」
諦めたように肩をすくめると、ユキトはゆらりと立ち上がった。
「あ、どこへ、とか聞くなよ。俺んち以外ねえからな。そうそう、未来の嫁さんが入学してくるって周りに自慢して回っといたからよろしく」
ミチルはぽかんと口を開けた。理解が追い付いていない。寝耳に水の縁談話だって、ミチルはまだ何かの冗談だと思っていた。
「いい匂いになったじゃん」
ユキトは含み笑いをして顔を近づけた。
「ユ、ユキト……んっ」
開いた唇はユキトの唇で覆われた。くらくらするような痺れが、熱が、ミチルの身体から力を奪っていく。
「んー! んー!!」
「うるさい」
叱る言葉とは裏腹に、指が優しくミチルの頬を撫で、唇をめくる。歯の間からぬるりと舌が潜り込む。ユキトの匂い、味。想像もできなかった現実がミチルを襲っていた。まぶたの裏で無数の色が氾濫している。空いていた胸の空洞にユキトの存在が流れ込んで、容量を超えて溢れ出す。
そっと舌を絡めたあと、薄い唇は離れた。ミチルは肩で息をした。いくら呼吸しても足りない。
「ここからは」
ユキトは声を落として言った。
「子ども扱い、してやれねえから。悪いけど」
乾いたアルファの声に、ミチルはごくりと唾を飲む。どっどっどっと心臓が猛烈に稼働している。立っていられるのが不思議なぐらいだった。
「まあ三年もあったんだ、お前だってもう覚悟決まってんだろ……って、おーい、ミチルー」
呆然としているミチルの前で、ユキトは手をひらひらさせた。それから苦笑した。
「お前に退学の汚名を着せたくなくて、三年も我慢したんだ。約束通り、ちゃんと俺のもんになりに来なきゃ、ダメだろ、ん?」
大きな手に引かれ、ミチルは耳まで真っ赤になって後をついていく。
三年間焦がれつづけた、グレープフルーツに似たアルファの匂いがミチルの足取りを不確かにしていた。甘い甘いオメガの匂いがそれに混じり、春風に乗った。
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