塩味アルファが甘くなるまで⑦




七 恋はつらい




「ミチル、ミチル」

 どこからか声がした。ユキトだったらいいな、と思いながらミチルは薄目を開けた。
 おとなしそうな丸い瞳がふたつ、苦しそうにミチルを見下ろしていた。

「抑制剤、飲んで」

 差し出された薬を、ミチルは朦朧とした頭で跳ねのけた。少年の手のひらから白い粒がぱらぱらと床に散った。

「いらない! なんでお前なんだ! なんでユキトじゃないんだよ……」

 ミチルはがらがらの喉でがなった。チュウヤは黙って薬を拾った。

「いいから飲んで。自分が苦しいだけだ。ほら」

 チュウヤは抑制剤を無理にミチルの口に押し込んだ。苦い味が口に広がって、喉の奥へ転がり込んでいく。
 チュウヤはベッドの縁に座ってぼんやりとミチルの様子を見ている。夜が明けてくるとミチルの呼吸が落ち着いてくる。

「一応、ありがとう、言っとく」

 ミチルはかすれた声で言った。

「無理しなくていいよ。ぼくのことは嫌いなままでいい。お前には看病してもらったからお返し。それだけ。それに……好きな人と会えないって、つらいよね」

 最後の部分には実感がこもっている響きがあった。
 お前なんかより俺の方がずっとずっとつらいもん、とミチルは言いたくなったが、その前に副作用の眠気が襲った。
 その日は起きられず、体調不良で授業を休んだ。ミチルはゆらゆらと揺れるように、浅い夢を見ては目を覚まし、また眠った。
 夢の中のミチルは小学生だった。ユキトとの間にはベランダの防火壁があった。ミチルの甲高い声はなぜか届いていない様子だ。ユキトだけがミチルを置いてするすると背を伸ばし、大人になっていく。今の姿になったころ、ユキトは窓を開け、ミチルの方に目もくれず室内へ入る。ユキトを隠して、ガラス窓は音高く閉まった。

「待ってよ」

 ミチルは大きなだみ声で目を覚ました。自分の声だった。頬は濡れて冷たくなっていた。熱が下がったのだとわかった。
 時計を見ると朝だった。ミチルはごしごしと力いっぱい涙を拭い、まだだるい身体を起こした。
 夢から醒めたら身体は大人になっていた。最初の発情期が過ぎたのだから、もうユキトが言う「ガキ」ではない。だが実感は湧かなかった。身体が熱く、苦しくなったが、それだけ。子どもを産めるようになったからといって、すべてががらりと変わったようには思えなかった。相変わらずミチルは空っぽで、ユキトが好きな気持ちも変わらない。ユキトを思うと、前より少し心臓の鼓動が速くなるぐらい。

(大人って、何だろうな)

 苦い抑制剤を飲み込んで、ミチルはのろのろと食堂に向かう。

「よう、『ごきげんよう』。加藤、具合どう?」

 廊下ですれ違ったバスケットボール部の先輩が、学園で教わった言い回しでにやにやと挨拶してくる。ミチルは顔をあげた。いつか文通はやめておいたほうがいいと忠告してくれた、気は優しいが少しお節介な先輩だ。ミチルとは波長が合うのかよく構ってくる。

「『ごきげんよう』……なんとか。これほんとつらいっすね、ひどい風邪みたい」

 いつもの三分の一しかない声量でミチルは答えた。

「はは、発情期でも色気に行かないんだ。お前マジでオメガの才能ないなあ」
「ですね」

 ミチルが言い返さなかったので先輩は真面目な顔になった。

「ほんとに具合悪そう。無理しない方がいいよ」
「身体はもうだいぶいいんですけど」
「あ、アルファのハンカチ配ってたのバレたやつ? そっち?」

 ミチルは暗い顔で頷いた。

「だから目立つ真似はやめとけって言ったのに。とはいえ災難だったな。腹いせでしょ、あれ」
「知ってるんですか」
「うん、もう学校中の噂」
「うそぉ……あの、腹いせってことはやっぱり」

 チュウヤが密告したのか。薬を飲ませてくれたことを思い出し、ミチルは複雑な気分になる。

「そうそう、ひどいよな。お前なんかにふられたからってな」
「ふられ……え、俺に? 誰のこと……あ」

 思い当たることがあってミチルは目を見開いた。

「ほら、一年の。お前の隣のクラスのやつ。入学早々当たって粉々に砕けた」 

 先輩は名前を口にした。数か月前、ミチルに告白してきた生徒だった。ミチルはあんぐりと口を開けた。

「告発すればお前がそのアルファと会えなくなると思ったんだってさ。お前が処分になるかもしんないとか倒れたとか聞いて、今さら怖くなってげろった……じゃない、『白状した』んだって」

 言葉遣いを注意されがちな先輩は上品に言いなおした。

「やっべ、謝らなきゃ……先輩、ありがとう」
「何? おい、病み上がりに走るなよー……まあ、あんだけ元気ならいいか」

 ミチルはいてもたってもいられず、はじかれたように駆けだした。もう具合が悪いのもすっかりと忘れていた。

「こら、走ってはいけません」

 すれ違ったブラザーに当然のように注意され、ミチルはちょこまかとした早足になる。

「チュウヤー! ごめん!」

 最後はぴょんと大股で部屋に飛び込む。チュウヤは控え目な裸眼を白黒させている。

「ず、ずいぶん急に元気になったね……なにごと?」

 ミチルは無言でリュックを開けると、四角いケースを取り出しておもむろにチュウヤに差し出した。

「な、なに」
「俺が十二年にわたり育ててきたカードデッキ。お詫びのしるし」
「いらないよ、なんなの」

 チュウヤは困惑してデッキを押し返した。

「疑って悪かった! 学校にチクったのお前じゃなかった! 別のやつだった」
「ああ、なんだ、それか。なにごとかと思った。別にいいよ、気にしなくて」

 チュウヤの顔にあいまいな苦笑が浮かんだ。

「誰のせいか知ってたの」
「うん、昨日聞いた」
「言えよな……知らないでいろいろしちゃったじゃん、怒鳴ったりせっかくの薬ぶちまけたり」

 ミチルはがっくりと肩を落とした。
 チュウヤは悲しそうに微笑んだ。妙に大人びた顔だった。

「言えなかったよ。あの子の気持ちも分かっちゃうから。オメガどうしだし、焦っちゃったんだろうね」

 ミチルははっとした。学校に告げ口をした悪いやつとしか思っていなかった。あいつのせいでユキトとは会えなくなった、でも。

「今度もう一度、ちゃんと話してみようかな」

 ミチルはぼそりと言った。チュウヤは首を横に振った。

「振り向くつもりはないんでしょ。そっとしておきなよ。何度もふられるのはたぶん、つらいよ」
「そっかぁ。恋ってなんでこんなつらいんだろうなあ」

 ミチルはデッキを持ったまま、思わず天井を仰いだ。

「そうだね」

 チュウヤも柔らかくつぶやいた。


 調査の結果、ハンカチの持ち込みに関しての悪質性は低いということで、ミチルは両親ともども厳重注意を受けただけで済んだ。ミチルは前と変わらない騒々しさに戻った。一見なにも起こらなかったかのようだ。こうして寮で過ごす初めての夏休みが始まった。
 人の少なくなった寮で、ミチルはこっそりチュウヤにユキトの話をした。国立大学を目指していること。涼しくて無感動な一重の目が、笑うと優しくなること。ユキトの匂いを嗅ぐとカラフルな光がまぶたの裏にはじけて……という部分は、昔のとおりにとびきり誇張して話した。話していると寂しさを少し忘れられた。
 あぐらで一方的にしゃべり続けるミチルの横で、チュウヤは体育座りをしてじっとミチルの話を聞いていた。



コメント