塩味アルファが甘くなるまで⑤
五 友情は壊れた
チュウヤにとびきりの笑顔を向け、ミチルは寮のベッドにあぐらをかいた。
「ってことでぇ、俺も夏休み、こっちに残るから」
「うん」
メガネの少年は困ったような顔で下を向いた。
「休み中に具合悪くなったらすぐ言え、また看病してやっからさ」
「や、周期的にそんなすぐには来ないから」
「まあまあ遠慮すんなって」
ミチルは鬱陶しく肘鉄砲をした。
「ほんと大丈夫だから、ほっといて」
「だって」
ミチルは大声で言い張ろうとして、途中で声を落とした。
「だってあのハンカチないとさ、まだ具合悪いんだろ? 寝る前枕カバーに隠してるの、見たぞ」
ほかのルームメイトを気にしながら、ひそひそと耳打ちする。チュウヤはさっと赤くなった。
「えっと、もしかして返した方がいい……?」
「気にすんな、まだいっぱい預かってるから。おかわりいるならあるよ?」
「大丈夫……その、たぶん」
チュウヤは気まずそうに足先を揺らした。
「そう?」
「ミチルって……すごく変わってるよな。好きな人のハンカチなのに」
「まあ実際、今はすごく必要ってわけじゃないしなー。あの匂い嗅ぐと安心はするけど」
たぶんハンカチだと匂いが古すぎるんだよな、とミチルは思う。ユキト本人と違って、まぶたの裏が色とりどりになるあの感じはない。感覚を思い出しているうちに、グレープフルーツに似たユキトの匂いが無性に恋しくなる。壁越しだと風向きがよほどよくなければユキトの匂いはしない。
(やっぱ一枚はとっとくべきだな。あの匂いを忘れちゃったら嫌だもん)
ミチルの横で、チュウヤも何か考えている。
「ユキトさんのこと、ほんとに好きなの」
「決まってるじゃん。なんで?」
予想外の質問に、ミチルは目を丸くした。
チュウヤはゆっくりとミチルの目を見た。
「ぼくの知ってる『好き』とだいぶ違う気がする」
「チュウヤ、誰か好きな人、いるの」
チュウヤは答えなかった。
ミチルはその夜、ひさびさにユキト宛に手紙を書いた。
『ユキトへ
ユキトの匂いが嗅ぎたいです。今度帰るときまでに延長コードと扇風機を用意してください。
加藤ミチル』
次の日の放課後、ミチルは手紙を投函しに寮を出ようとしたが、生活指導の谷中が玄関に立っているのに気づいた。ミチルはあわてて下駄箱のうしろに隠れた。アルファへの手紙などを見られたらまた懲戒室行きになってしまう。息をひそめていると、谷中をチュウヤが呼び止めた。
「谷中先生」
「木下さん。どうしました」
「あの、夏休みなんですけど、寮に空き部屋は出ますか」
「出ますが、休み中でも部屋の移動はいけません」
「そうですか……」
チュウヤはあきらかに肩を落としていた。
ミチルの心臓は嫌な音を立てた。チュウヤが別の部屋に行きたがっている。どうして。せいいっぱい優しくしたつもりだったのに。
「同室の子とトラブルになっているならば詳しく事情を聴きます。いじめられたんですか」
珍しく谷中が優しい声色になった。チュウヤはあわてている様子だ。
「いえ、そんなんじゃないです」
「加藤さんが賑やかすぎるなら注意しておきますよ」
「大丈夫です。ミチルじゃなくてぼくが悪いんです。……失礼します」
困惑した様子の谷中を残し、チュウヤは走って玄関に飛び込んだ。
「あの、チュウヤ?」
我慢できずにミチルは呼び止めた。チュウヤは青ざめた顔で立ち止まった。
「聞いてたの」
「うん。今の何」
ミチルは躊躇なく尋ねた。チュウヤは黙って唇を噛んだ。
「ここじゃ話せないとか? ならいったん部屋に戻ろ、な」
ミチルは先に階段をずんずんと上がった。チュウヤはうつむいたまま、のろのろと後をついてきた。
誰もいない部屋に戻るとミチルは思い切り息を吸った。
「なんだよぉぉお、お前のことダチだと思ってたの俺だけなの!? どういうこと!?」
我慢していた声がぐわんぐわんと部屋に反響する。
「違う」
「じゃあなんで!? 俺といっしょにいたくねえんだろ!? 俺なんかした!? うるさすぎ!? ごめんね!?」
「あの、話せない」
困り切った顔でチュウヤは言った。ミチルは声を落とした。
「どうぞ」
「あのね、すごく感謝はしてるよ。ミチルのことは友だちとして好き、それはほんと。でもだからこそ、いっしょにいるの、つらくて」
「友だちはいっしょにいて楽しい人のことなんじゃないかな。やっぱなんか俺に問題があるやつだ、くそー、なんだろな」
ミチルはひとりで首をひねりだした。チュウヤはこの世の終わりのような顔をした。
「やめて、ぼくのせいだから!……だって」
声がしだいに小さくなった。
「だってぼく、ユキトさんのこと、好きなんだ」
「はい?」
ミチルはぽかんとした。
「いや、だって会ったこともねえだろ……あ、写真は見せたっけ、忘れちゃった」
「まだ見てない」
「じゃあどうやって」
「匂い」
チュウヤは赤くなって俯いた。
「弱ってるときに嗅いじゃったから……」
ミチルは頭を抱えた。
「やっぱ俺のせいじゃん! バカだ俺! どうすんの、どうすりゃいいの」
「黙ってるのつらくて、でもお前はどんどん優しくしてくるし、罪悪感すごいよ。ちゃんとぼくを嫌いになってくれた方がずっとましだよ」
「嫌い……ではない、と思うけど」
ミチルは困惑している。
「ミチルはやきもちとか妬かないの?」
「目の前でぶんどられたらそりゃあ怒るけど、今は実感わかねえわ」
「いいな。ぼくは妬いてるよ、やきもち」
チュウヤは苦しそうに言った。甘いオメガの匂いがじわじわと空気を支配していく。
「週末、お前が帰るたびにすごく嫉妬してる。顔も見たことないのにね。ねえミチル」
口元にうっすらと笑みが浮かんでいた。ミチルはぎょっとした。
「ぼくがユキトさんの運命だったら、どうする?」
ミチルは驚いて口をぱくぱくさせた。
「んなこと、あるわけねえ」
「そうかな。だって匂いだけでこんなに好きなんだ」
チュウヤはうっとりとどこかを見つめている。メガネの奥をよく見れば、おとなしそうな丸い目に大人のオメガのような色香が潜んでいた。ミチルは圧倒されてしまった。
「顔を合わせたらもう抗えない、そんな運命の存在がぼくだったら。ユキトさんはそれでもちゃんとお前を選ぶ?」
「選ぶに、決まってる、もん」
ミチルは虚勢を張ったが、小さな声だった。
チュウヤはふっと自虐的に微笑んだ。
「わかったでしょ。ぼくがどんなやつか。……ね、もう優しくしないで」
ミチルは思わず黙ってしまった。チュウヤは部屋を出た。
「ちくしょう、俺だって運命だ!」
そう叫んでも、ミチルの胸は不安でいっぱいだった。ユキトのそっけなさは運命のオメガに対する態度とは思えない。ミチルがユキトの運命だという証拠は、匂いを嗅いだときまぶたの裏に色が浮かぶことだけ。ハンカチの匂いだけで恋したチュウヤの言い分とたいして変わらない。
ミチルは収納ボックスに向かい、下の方に隠してあったハンカチの束を胸に抱き寄せる。グレープフルーツの匂いは少し抜けて、なんだかしょっぱい匂いがした。それでも顔を埋めると少し気分が落ち着いた。
「ふう」
ミチルはゆっくりとハンカチを戻し、いつの間にか床に落ちていた封筒を拾い上げた。封を剥がして手紙を取り出す。胸ポケットに差していたボールペンを構えると、余白に書き足していく。
『追伸 チュウヤもユキトが好きになっちゃいました。友だちだと思ってたのに、向こうは違うみたいです。どうすればいいのかわかりません。ユキトは俺を選んでくれますか。』
便箋を元通りに畳んで封筒に封をすると、もう門限が迫っていた。ミチルはこの封筒もカラーボックスにしまった。見回りのブラザーに見られたら大変だ。次の放課後、投函するまでここに隠しておこう。
夕食の時間となり、風呂に入り、部屋に戻ったころには、手紙のことは半分忘れていた。ドアをノックされても、消灯に来たいつものブラザーだろうと油断していた。
「はいはいはい」
ドアを開けると谷中が憂い顔をして立っていた。ミチルはぎょっとした。
「加藤さん」
「あ、はい」
「所持品を検査させてもらいます。あなたがアルファの持ち物を寮に持ち込み、同級生に配っていると匿名の報告がありました」
部屋にいた全員が凍り付いた。
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