塩味アルファが甘くなるまで⑪




十一 好きな人がいるんだ




 木下くんがいっしょにいてくれてよかった。ユキトはゆっくりとインターホンから離れ、部屋に戻った。
 ミチルと口喧嘩したときのユキトは、すっかり頭に血がのぼっていた。かなりまずいところまで本心を口に出していた。あのときミチルとふたりきりだったら、行動に移すのは時間の問題だった。
 自己嫌悪しながらノートパソコンのスリープを解除すると、ふたたびチャイムが鳴った。ユキトはマウスを持ったままびくりと固まる。ミチルの奴、また戻ってきたんだろうか。

「はい」

 ユキトはしぶしぶ応答した。

「ユキト?」

 スピーカーから聞こえてきた声はミチルのものではなかった。

「お母さんよ。悪いけど、鍵を忘れちゃったから開けてくれる?」

 なんだ、親が買い物から戻っただけか。ユキトの肩から緊張が抜けた。俺の邪魔をしない人間ってこの世にいないのかな。内心ぼやきながら、仕方なしにドアを開ける。
 ユキトは固まった。そこには母親のほかにもうひとりいた。

「え、なんで」

 同級生のオメガが両手に買い物バッグを提げ、さわやかに微笑んでいる。

「帰りに偶然会って、荷物を持ってくれたの。よく気がつくいい子ね」

 くそ面倒くせえ。ユキトは呻いた。

「こんにちは!」
「はいこんにちは、ありがとう、ではさようなら」

 少女から荷物を受け取りながらユキトは早口で言った。

「ユキト、そんな固いこと言わなくていいじゃない。私のお客さんよ。お茶、飲んでいくでしょう?」

 ミチルに対する態度とずいぶん違うじゃないか、とユキトは母親に呆れる。
 オメガだからではなく、「あの非常識な加藤さんの息子」だからミチルにいい顔をしていなかったらしい。加藤さんは部屋が汚くてだらしない、と母親が悪口を言うのを、子どものころから何度も聞いた。当の「非常識な加藤さん」からユキトが小遣いをもらい、ミチルの子守りをしていたのが気に障ったのもありそうだ。

「ありがとうございます、おかまいなく」

 と言いつつ少女は家にあがってくる。またひとつ外堀を埋めにきたな、とユキトは苦々しく思う。
 共通テストのあと、泣かせたせいでかえって少女は意固地になってしまったようだった。身に覚えのない他人のものを「落とし物」と称して家に届けにきたり、部屋でいっしょに勉強しようと誘ってきたりと、何かしら理由をつけては家にあがろうとする。

(必死なのはわかるけど)

 ミチルにも約束したし、早く断って清算したい気持ちはある。だがさすがに母親がいる前でふるのはまずい。

「母さんの客なら、はていいな。じゃ」
「もう、ユキトったら。ごめんなさいね、しつけがなってなくて」
「そんなこと!」

 ユキトは女性たちの声を遮るようにドアを閉めた。
 三十分ほど母親と談笑して、少女は礼儀正しく帰っていった。その夜の母親は機嫌がよく、料理をいつもより何品か多く作った。

「すっごくいい子なの。ユキトの同級生だけあって頭がいいのね。お育ちもいいわ。あんな子がいるなら早く紹介しなさいよね」
「マジでそんなんじゃねえから」

(内堀まで埋まってんじゃん)

 ユキトはげんなりしながら思った。

「もう、照れなくたっていいのに。お父さんそっくり」

 食の細い父親はあまり興味のなさそうな顔で、義務的に箸を動かしている。

(早く動いた方がいいな、これは)

 ユキトは腹を決めた。
 父親は野球中継を観ている。テレビが好きなのではなく、身体が思うように動かないのだとユキトは知っている。母親は風呂の準備をしていた。話すなら今だった。

「ねえ、父さん」

 皿を洗いながら、少し改まった調子で切り出した。父親は振り返りもしない。やっぱいいわ、という言葉を無理やり飲み込んで、ユキトは続けた。

「あのさ、もし合格したら、何個かわがまま聞いてもらっていい?」 
「内容による」

 父親はぶっきらぼうに答えた。ちゃんと聞こえてはいたらしい。

「まず、ひとり暮らしがしたい」
「家から通った方が何かと便利だろう」
「だからわがままだって言ってんの」
「で、残りは」

 それを言葉にするには、もっと勇気が必要だった。喉がからからに乾く。言い出せないまま、皿の重なる音ばかりが響く。

「どうした。早く言いなさい」

 背中を押すように、桜とミチルの写真が頭をよぎる。
 あんなガキ。だが、あんな奴を、俺は――
 昼間に感じた、どうしようもない昂りがユキトの身体に戻った。ユキトは吐き出すように言った。

「好きな奴がいる。……母さんが言ってた奴じゃねえ。隣の……」

 父親は遮った。

「俺はいいとも悪いとも言わない、興味がない」
「……うん」

 テレビから歓声がわっとあがる。

「だが、うん。お前には俺の病気で苦労をかけた。だから多少いいことがあってもいいとは思ってる」

 画面の方を見たまま、ぼそりと父親は言った。

「うん、ありがとう」
「礼は受かってからでいい」
「うん。頑張る」



 次の日、ユキトは少女を呼び出した。

「人に聞かせたくねえ話がある。あとで教室に残って」

 同級生たちが浮足立ったのがわかった。視線が集まる中、はにかんだような笑顔で少女は頷いた。ユキトは彼女を少しかわいそうに思った。
 わざとらしく人のいなくなった教室で、ユキトは少女の机の前に立った。逃げ続けた代償を清算するのは気が重いが、仕方がない。

「何、話って」

 どうやって切り出そうか、少し迷った。

「幼馴染にミチルって奴がいてさ。ずっと俺のこと好きってうるさくて」

 ユキトはぼそりと言った。

「えっと、隣に住んでる子、だったよね? 深山のお母さんが言ってた」

 きっと悪口だったな、とユキトは思った。

「鬱陶しくてたまんなかった。ガキだと思ってたんだ。今だって中身はかなりガキ」

 少女は困惑した顔をしている。

「でもそいつとなかなか会えなくなって、いつの間にか大人になってて……そいつ、聖フィアナ通ってて、手なんか出しちゃいけねえ奴なのに。俺ってほんとクソ」
「待って、聞きたくない」

 ユキトは畳みかけた。

「お前にはさ、悪いことしたよ。あいつの代わりにお前にしとくかって思ったこと、正直あったから。ね、ひどいアルファでしょ、だから」
「妥協でいいよ」

 少女は必死の表情で遮った。

「聖フィアナの子じゃ、見つかったときのリスクが大きすぎるでしょ? 深山のお母さん、あたしのこと気に入ってるよ? あたしなら安全だよ?」

 小さな頬に涙が溢れるのを直視しないように、ユキトは俯いた。

「ねえ、そのミチルって子が卒業するまででもいい。都合のいいオメガでもいい。あたしそれでも」

 蚊の鳴くような声で彼女は続けた。

「それでも深山が、好き」
「悪い。それするとさ、ミチルが泣くんだ」

 お前なら泣かせてもかまわない、と言っているに等しかった。

「その子ともう、そういうこと、したの……?」
「するわけないだろ、あそこは厳しいから退学だぞ」

 ユキトは苦笑いした。少女は唇を噛み、ゆっくりと立ち上がった。

「だったら諦めない」

 少女はゆっくりとセーラー服のスカーフを抜き取り始めた。オメガの匂いが誘うように甘ったるく広がった。

「あと一年? 二年? 知らないけど。そんなの、アルファの男子が待てるわけない。アルファの恋って性欲なんでしょ。我慢することないよ、あたしが満たしてあげる」

 少女に感じていた罪悪感がこの瞬間、一気に怒りに変わった。
 ミチルを思う気持ちに性欲が混ざってしまったのは本当だ。加害したくない、守りたい。だがどうしようもなくほしい。純粋な気持ちと性欲との間で俺がどれほど葛藤しているかも知らないで、この女はずけずけといちばん痛い場所を突いた。

「ごめん、お前のそういうところ、すげえ嫌い。お前に何がわかんの。お前でいったい俺の何が満たせんの」

 ミチルのあのひたむきさ、明るさ、優しさ、純真さがほしい。無垢だから守りたいと思うのに、無垢であることがどうしようもなく憎い。いつか無垢でなくなるのなら、ほかの誰でもなく自分の手で汚したい。そう渇望させるきれいなものが、目の前のオメガには一切ない。

「お前が本性を見せてくれたおかげでわかった。俺にはあいつしかいらない。あいつじゃないと意味ないって」
「やめてよ」
「あ、そうそう。今のやり取り全部スマホで録音してんの」

 思いついて、ユキトはさらりと付け加えた。スカーフを持ったまま、少女の顔がこわばる。

「まさかそんなことするつもりはないと思うけど、俺のことは嵌められないよ、悪いね」

 少女は青ざめていく。ブラフだったが正解だったな、とユキトは直感した。

「お前にはいろいろ教わったわ。オメガとふたりになるのはやっぱ危ないとか……外堀の埋め方とか?」

 振り向きざまに言って、ユキトは足早に教室を去っていく。


 少女がユキトにつきまとうことはなくなった。ちらりと振り返ると恨みがましい顔で唇を噛むから、ユキトも無視を決め込むことにした。ふたりは破局したらしいと噂が出回り、どちらが原因だったか探ってくる人間も現れた。が、放っているうちにそれも収まった。
 数日経つと、今度はミチルの母親からメッセージが来た。あの、俺の将来のこと、もう少しみなさん気遣ってくれないでしょうか。ユキトはため息をつきながら画面を見る。

『ユキトくんどうしよ(汗をかく顔文字) ミチルがユキトくんの行く大学を目指すって言って聞かない』

 ユキトは眉を上げた。ミチル、根性あるじゃん。

『俺まだ受かってないですけど』
『ユキトくんは大丈夫でしょ』

 軽く一蹴され、ユキトは真顔になる。二次試験は来週だっての。

『それよりミチル!! オメガで高学歴って今でも結婚大変なんでしょ!?』

 案外古臭いな、とユキトは呆れる。

『うちの学校からはオメガでも結構進学してますし大丈夫ですよ たしか加藤さんも高学歴ですよね』
『私はベータ!!』
『結婚に支障はないという意味です』
『でも私、家事全般ダメじゃない?? ミチルはおしとやかに育てたかったんだけどな(泣) 遺伝子には逆らえぬ』
『それは諦めましょう ミチルに伝言お願いできますか』

 目を閉じて少し迷ったあと、ま、いいか、とそのままの言葉を打ち込んだ。

『万が一受かったら嫁に貰ってやるからがんばれー 以上です』

 すぐにありとあらゆる怒りの絵文字が飛んできた。

『ユキトくん!! 絶対受からないと思って!! ミチルの純情を弄んじゃダメ!!』

 やはり親子だ。人参だけぶら下げておいて、なかったことにするんだろ。そう膨れていた、中学卒業直後のミチルが真っ赤な絵文字に重なる。ユキトはにやにやと笑った。

『そこそこ本気です でもそれ言うとミチル怠けるんで内緒で』

 ムンクの叫びに似た絵文字が大量に送られてきた。


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