塩味アルファが甘くなるまで③
三 塩味アルファの事情
スマートフォンの向こう側でユキトは苦笑した。
「ミチル、文字までうるさい」
五分休憩に電話を弄るのは集中を削いでよくないらしいが、ミチルのメッセージを無視することは結局できなかった。長い親指がなんとなく画面を滑り、メッセージの上部へ遡る。散り始めの桜を背景に膨れ顔をする若いオメガと、首を絞められて苦しそうにしているアルファの写真が下りてきた。
ユキトの指はそこで止まった。
「頭に血がのぼるってよくねえわ……ほんと……」
顔を真っ赤にして怒るミチルに苛立って、耳に唇をつけた。色気のない声、びっくりして開いた目。花に似たオメガの匂いはまだ蕾なのか、うっすらとしか香らない。反応のすべては、ミチルがまだまだ子どもだということを証明していた。そんなミチルを笑いながらも、ユキトはどこかほっとしていた。大丈夫だ、こいつはまだ安全だ。
そこにそれ以上の感情があってはならないはずだった。
(相手はあのミチルだっての。勉強しすぎて疲れてんのかな)
ミチルはほとんど弟で、弟に性欲を感じるのは変だ。
膨れ顔に人差し指を立て、デコピンをするようにスワイプすると、ユキトはスマートフォンを机に置いた。
集中だ、集中。ユキトは自分に言い聞かせ、タイマーをふたたびセットした。ユキトの父親は病気がちで、収入が安定しない時期も長かった。学費のかさむ私立大学に進学するのは厳しい。
両親は嫌がるだろうが、国立大学に落ちたら浪人はせず、いさぎよく就職するつもりだ。母親は機嫌が悪くなるとヒステリックになる。早く家を出たかった。
だがミチルを完全に忘れることは実際問題、不可能だった。
朝昼晩、ミチルからのメッセージがやってくる。おかげでユキトはミチルの寮生活に必要以上に詳しくなってしまった。
ミチルのルームメイトは三人。そのうちふたりは付属中学出身のいわゆるお坊ちゃんであり、ミチルのことを異星人か何かだと思って怯えている。ミチルは必然的に残りのひとりと仲良くしているらしい。メガネをかけた地味な生徒で、名前は木下チュウヤ。
『今日チュウヤが大変だったんだ 初めて発情期来ちゃって熱出して保険室行き 俺もあんなんなるの?』
入学の日から三日目のメッセージは特に強烈で、あやうくスマートフォンを取り落とすところだった。ミチルが発情期を迎えた姿をうっかり想像しかけ、バカバカしいと首を横に振る。
『知るか 親友のセンシティブな情報をアルファに垂れ流すな』
『そっか チュウヤに悪いことした あとで謝っとこ』
『やめとけやめとけ ってか俺のこと話してあるのか』
『将来結婚を約束したアルファだって』
吹いたコーヒーが黒い霧のように舞い散った。
『は? 何それうそじゃん 撤回を求めます』
『三年ちゃんと通ったら考えてくれんだろ?』
『だからってその表現は多大な誤解を生むだろ』
『だってそう言わないと告白断りづらくて』
『うそつけ。誰にどうやって告白されんだよ』
ユキトは思わず険しい顔になる。あの寮はアルファ禁制のはず。ミチルの言っていることが本当だったとして、いったいどれほど無防備に暮らしたらそんな隙ができるというのだろう。
『隣のクラスの奴 なんかガチっぽくてちょっと困ってる』
『なんだ 相手はオメガか』
ユキトはほっとした。同時に相手のオメガに軽く同情した。単なる気の迷いだろうが、気持ちはわからなくもない。見た目はベータそのもので、性格もさっぱりして明るい。表情が豊かで、笑うと目がきらきらしていて――と考えかけたところで、ユキトは自分が情けなくなった。やはりミチルの耳にキスをしてからの自分はおかしい。
『ねえ妬いた?』
『バーカ』
もう休憩時間の五分はとっくに過ぎていた。やはりミチルは勉強の敵である。
ミチルが入学して四日目の朝。げんなりするほど元気なメッセージが来るのをユキトは無意識に待ってしまう。だが通知が来ることはなかった。少しだけ違和感を覚えながらユキトは登校した。
学校から帰ってからも、スマートフォンが気がかりで勉強に身が入らない。
『今日は静かじゃん』
ためしに一言送ってみたが、既読がつくことはなかった。ミチルに何かあったな、とユキトはようやく勘づいた。スマートフォンの持ち込みを学校に知られてしまったのかもしれない。
漠然とした不安が胸を満たしていた。休憩時間が来るたびにメッセージアプリを開こうとしているのに気づき、ユキトは自分に呆れる。愛読中の少年漫画『ドンパレイド』の新刊を買ったことを思い出し、ユキトはかわりに電子書籍のアプリを開いた。今回の巻頭付録はいつもの鎧姿ではなく、現代日本の衣装を着たキャラクターたちのイラストだった。ユキトはあまり興味を持てずにページをスクロールしていたが、途中で目を止めた。
主人公は高校生のブレザーを着て中央にしゃがみ、『あっはー!』と笑いながらピースサインをしていた。
その姿はミチルにそっくりだった。
一度そう思ってしまうと主人公がミチルにしか見えなくなる。肝心の本編に集中できない。ページをめくれば笑うミチル、泣くミチル、怒るミチル。
「ああ、もう」
きっと疲れているんだ。ユキトは諦めてスマートフォンを置き、顔を机に伏せた。
入学から五日目の金曜も連絡はないままで、土曜日が来た。午後になると、ユキトはため息をついて乱暴に参考書を置き、部屋を出た。向かう先はアパート前の公園の、いつものベンチだった。
ミチルそっくりの主人公が敵をなぎ倒す漫画をぼんやりと眺め、時間を過ごす。昔のように外の風に当たりたくなった、それだけ。自分に言い訳していても、ミチルの騒々しいだみ声が聞こえてくるのを無意識に待ち構えている。
小一時間、そうしていた。ユキトはなんだかバカバカしくなって立ち上がった。ミチルが帰ってくる確約があったわけでもなんでもないのに、何をやっているんだろう――
「ユキト」
だみ声がユキトを呼び止めた。振り返るとミチルが公園の入口に立っている。赤らんだ頬、思いつめたような目。いそいで来たのか、肩で息をしている。たった数日離れていただけなのに、何年も会っていなかったかのように懐かしい。どうして昔のように走ってこないのだろう。不思議に思ったが、ユキトは遅れて、厳しくなった校則のことを思い出した。
聖フィアナは郊外にあり、このアパートから片道一時間以上かかる。学校関係者に見られる心配はほとんどないだろうが、それでも万が一ということはあるか、とユキトは思い直した。苦労して勉強を教えたのに、自分のせいでミチルが退学になるのは嫌だ。
「ベランダで待ってる」
ユキトはそう言ってふらりとアパートに向かった。
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