塩味アルファが甘くなるまで⑨




九 ユキトと少女




 休みの間、ミチルは二度と声をかけてくることはなかった。それでもミチルの立てる小さな物音のひとつひとつがユキトの気を散らした。椅子を引く音、控え目なテレビの音、親とぽつりぽつり話す声。とぎれとぎれに口ずさむ特撮ものの主題歌は妙に寂しげで、ユキトはたまらない気持ちになる。大人になってもミチルはやっぱりミチルで、昔のように頭を撫でてやりたいのに、それができない。今の自分では襲ってしまう。
 ミチルを大切に思う気持ちは、ミチルが育ったことで化学反応を起こして欲にすり替わった。あのなんとなく放っておけない純粋な気持ちと、こんな加害性の衝動を「愛」という雑な言葉でひとくくりに呼ぶなんて、世間はどうかしている。
 ユキトはどうしようもなくなって、参考書を一式持って、逃げるように駅前のファミリーレストランに向かうようになった。正月休みでも営業しているのはここぐらいで、店の人も受験生に寛容だった。
 ヘッドホンをかぶったところで店のドアが開くのが視界に入った。コートにマフラー姿の少女が入ってくる。

「深山、今日も来てたんだ」

 秋に告白してきたオメガはそう言って、いつものように勝手に隣に座った。ユキトは何も言わなかった。少女はマフラーを外し、髪を手で直した。オメガの匂いが洗髪料の香りに混じって広がったが、ユキトは冷めたままだった。

「邪魔しないから、今日もいっしょに勉強させて」

 注文を終えると、かばんから色とりどりの文具を取り出して少女は言った。ペンのノックや柄には動物のキャラクターがついている。趣味が子どもっぽいところは多少ミチルに似ている。鬱陶しいところも。
 最後はこいつと付き合うことになるんだろう、とユキトは諦めたように考える。ミチルに対する、あの異常な衝動をこらえ続けるよりは楽そうだった。

(先のことなんてどうでもいいや)

 少女はユキトを横目で盗み見ているが、ユキトは気にも止めない。すっと息を吸うとひとりきりの世界に入る。もうじき運命の日が来る。
 冬休みが明けた。ぴりぴりとした共通テスト直前の緊張感に混じって、クラスに何か浮ついた空気を感じた。同級生たちがユキトの方を振り返っては声を潜めている。

「ついに難攻不落の深山が陥落したらしい」
「うっそ、相手誰」

 どうやらユキトと少女が付き合っているという噂が流れているようだった。ファミリーレストランで毎日いっしょにいたのを誰かに目撃されていたようだ。
 少女を振り返ると、少し勝ち誇ったような微笑みを浮かべている。どこまで計算のうちだったんだろう、とユキトはぼんやり考える。同じ進学校に通う彼女なら、無邪気そうに見えても噂で他人をけん制する知恵はありそうだ。
 ユキトは短くため息をついて目を逸らした。誰かに操られるのは好きではない。これがミチルなら、裏表がないのはわかりきっているのに。
 少女は自信がついたのか、放課後にもう一歩距離を詰めてきた。

「深山、いっしょに帰ろ」

 ユキトの机に手をついて顔を近づけてくる。

「お前さ、外堀埋めに来てる?」
「ん、なんのこと?」

 どこまでも愛らしくオメガは微笑んだ。食えない女、とユキトは思った。

「とぼけるんだ、へえ」
「だって毎日あそこで待っててくれたでしょ。期待するなって方が無理だよ?」
「そんなんじゃない。家の事情」
「そう? 初耳だけど?」

 少女はくすくすと笑った。人前だと照れ屋なんだから、とでも言いたげだ。ほんとに違うんだってば。うんざりしてそう正面から否定したくなったが、こういう子には効かないだろうとユキトは思い直した。

「ほとんど会話してねえから当然じゃないかな。まあ、その根性に免じて、一個俺について教えてあげる」
「何?」

 至近距離で少女は首をかしげた。遠くからなら恋人に見えそうだとユキトは思った。

「俺、ぐいぐい来られるとひくタイプなんだよ」

 ユキトは意地悪く微笑んだ。うそは言っていない。ミチルが気になりだしたのも、簡単に会えなくなったあとだった。

「じゃ、また明日な」

 持ち物の整理が終わると、ゆらりと立ち上がる。

「諦めてないから」

 少女の悔しげなつぶやきを背後に、ユキトは教室を出た。
 ひとりで吸う冬の風がうまかった。帰り道を歩きながらユキトは考える。何をしてるんだろう、俺。ミチルに手を出さないためにあの子で妥協するつもりが、ついつい突き放してしまう。

(ま、いいか)

 ミチルは寮に戻った。しばらくは安全だった。
 それより大詰めだ。感情をリセットするように、ユキトは伸びをした。


 当日は交通機関の問題もなく試験会場についた。ユキトは人混みを静かに眺めた。今日と明日の結果でだいたいの未来がわかるのは、俺だけではない。
 会場までのナビゲーションに使っていたスマートフォンの電源を落とそうとして、ユキトは無意識にメッセージアプリを開いていた。ミチルがスマートフォンを没収されてから、ミチルとのメッセージは当然増えていない。すぐにアパートの前でミチルと撮った写真が現れる。桜、首を引っ張られてもがく自分、ミチル。
 ぼんやりと眺めているうちに、自分がキスした小さな耳を指で撫でている自分に気づいた。
 いや、何してんの、俺。ユキトは振り切るように電源を切った。
 顔を上げると、オメガの少女を人混みの向こうに見つけた。向こうは気づいていない様子だった。さすがに緊張した顔をしている。
 目が合ってしまう前に、ユキトはさっと身をひるがえして大教室にいそいだ。今は自分のことでせいいっぱいだった。
 始まってしまえばあっという間だった。二日目が終わり、会場を出るとユキトは長いため息をついた。さすがに体力がきつい。

「お疲れ。どこいたの、ずっと探してたんだよ?」

 誰かに肩を叩かれ、ユキトはしぶしぶ振り返った。オメガの少女がにこにこしている。試験室が別だったこともあり、うまく逃げていたが最後は捕まってしまった。

「言っとくけど二次試験あるし、まだ終わりじゃねえから」
「わかってるよ。で、感触どうだった?」
「さあな」

 ユキトはそっけなく言った。手ごたえは悪くはないが、こういう印象はあてにはならない。

「あたしも微妙。ねえ、最後の問題さぁ」
「答え合わせならよそでやって。疲れてんの。じゃあな」
「なんでよ」

 置いて行かれそうになった少女は震える声でつぶやいた。

「すごく不安だったんだよ。普通に話してくれたっていいじゃない」

 ずるいな、とユキトは思った。不安だったのはアルファのユキトだって同じだ。不安を誰かに押し付けて済む環境にいたかった。気づけば拳を固く握りしめている。
 ごめん。俺、やっぱお前のこと、好きになれそうにねえわ。そうはっきり言ってしまいたい衝動に駆られたが、思いとどまる。今ふられるのはさすがのこいつでも心が折れるだろう。

「そう、ひでえアルファ。わかっただろ、俺なんてやめときな」

 そうぽつりと言い残し、ユキトは早足で駅へ向かった。少女が声もなく泣いている気配がしたが、振り返らなかった。


 ぽたり。共通テストの開催状況を伝える新聞記事に、ミチルの涙が落ちて広がる。
 やべ、学校のやつ、濡らしちゃった。ミチルはぶよぶよになった紙をあわてて指で伸ばして、玄関の新聞受けに戻す。バレない、バレない。

(ユキト、受かるといいな。嫌われちゃったけど)

 ふたたび目の奥がつんと痛くなる。ミチルは外に向かって駆けだした。

(泣いてたって仕方ないじゃないか! 今ユキトは気が立ってるんだ、終わればきっと、もとのユキトに戻ってくれる)

「加藤くん、どこ行くの」

 土煙をあげて中庭を暴走するミチルに困惑した顔をしているのは、ハンカチ事件で告発をした生徒だった。

「わかんねー!」

 ミチルが彼と自然に話せるようになってしばらく経つ。古傷を抉ることになるからとチュウヤは忠告してくれたが、古傷を放ってぎすぎすした関係が残るのは、ミチルの方が耐えられなかった。
 ミチルが好きだと言っていた彼が今、ミチルのことをどう思っているのかはわからない。だが誰が誰を好きでも、それは仕方のないことだとミチルは思う。恋は勝手に落ちるもの、運命なんて全部事故だ。恋をするように人間を作った神様は、人を怒る前にちょっとは反省してもいいと思う。

「あの、先生が探してたよ」

 生徒はおずおずと言った。

「あ! やべ、放課後呼び出されてたんだっけ……ありがとう!」

 やらなくてはならないことはたくさんあった。部活動、宿題、寮の掃除。ミチルは以前より真面目に生活するようになっていた。ユキトが俺に苛つくのは、俺の中身がガキすぎるからかもしれない。きっとそうだ。
 ある週末、ミチルは思い出して母親に電話した。冬休み以降家には帰っていなかった。電話は玄関にあり、谷中の許可がないと使えないので、どうしても頻度は低くなる。

「ユキトの受験さ、どうなった?」

 谷中の方を気にしながら、ミチルはこっそり聞いた。母親に電話したのはもちろんこれが目的だった。

「そっか、あんたは知りたいよね。忘れてた。志望大学の一次、点足りたって」
「よっし、まずは一勝!!」

 ミチルは思い切り声を張り上げた。母親は苦笑した。

「すっごい音割れ。この分で行けばもう来年はあの子も大学生、早いよねえ」
「うん。大学行ったら今よりもっと会えなくなっちゃうかな」

 声の大きさがしゅん、と落ちた。

「あんたは今でも会っちゃダメ」
「わかってるけどさあ」
「あの子だってあんたに構ってる暇はないの」

 母親は説教くさい口調で言った。

「最近は決まったオメガの子が週末、おうちに来るみたいだし。すっごくきれいな子だったよ。まあ、ユキトくんのおうちが厳しいのか、部屋に上げてはいないみたいだけどねー」

 ミチルは呼吸の仕方を忘れた。

「それも合格したら違ってくるだろうしね、むふふ、楽しみー!」

 受話器を握るミチルの手のひらに冷たい汗がにじんでいた。
 そんな。あのユキトが、そんな。いつか思い描いた、知らないオメガに覆いかぶさるユキトの姿がフラッシュバックする。

「ミチル……? あんたもしかしてまだユキトくんのこと」

 ミチルの母親はおろおろしている。

「バカだねえ、兄弟みたいなもんだったじゃない、あの子がまともにあんたのこと取り合ってくれるわけないのに」
「――母さんの、バカ!!」

 ミチルはがなって、がしゃんと受話器を置いた。

「加藤さん、親御さんにそんな口を聞いてはなりません」

 谷中に睨まれながら、ミチルは部屋に戻って乱暴にドアを閉めた。

「どうしたの」

 チュウヤが心配そうにミチルを見ている。

「俺は信じねえぞ!! 信じ、ねえぞ」

 ミチルは声を震わせて顔を覆った。


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