愛しの距離ナシ君(全年齢版)8
8 引っ越し
本というものはどうしてこんなに嵩張って重いんだろう。
段ボールに法学書を詰め込んで玄関先に運ぶだけで、貧弱な俺の筋肉は悲鳴をあげている。
あとは電子機器がいくつか、服が何セットか。皿や日用品が少し。
布団はいらないと聞いたので母親のもとに送り返してしまったあとだ。
俺の城だった六畳間は、それほど時間がかからずに空っぽに戻った。
仕上げに杉沢からもらったペンギンのマスコットを段ボールの一番上にあしらい、俺はガムテープで箱を封印した。
ちょうどよく、杉沢が階段を上ってくる。
「荷造りできた? 助っ人連れてきたよ」
団藤はすごく不服そうだ。
なぜ志摩のために俺が手伝わなきゃならないんだ、という表情がありありと顔に浮かんでいる。
「団藤……さん。ありがとう、ございます……?」
友達(と言い切っていいのかまだ自信がないが)の友達に対する距離感を掴みかね、俺はあいまいな敬語で挨拶をした。
団藤の眉間のしわが深くなった。
「タメでいいだろそこは……ここにあるので全部か」
「えっと、うん」
「じゃあ始めるか。下に車止めてあるから」
杉沢から車の心配はいらないと聞かされていた。
俺はますます恐縮した。
「車貸してくれるの、団藤だったんだ。ごめん、助かる」
「いいから運べよ。朔もだぞ」
俺はあわてて荷物を持って階段を下りた。
団藤が力自慢なおかげですぐに運搬は終わった。
俺はといえば、軍手をしていても手のひらが真っ赤になってしまった。
軟弱な精神は軟弱な肉体に宿る。
俺はしきりに手をこすりあわせながら、団藤の軽ワゴン車に乗り込んだ。
「で?引っ越し先どこよ」
運転席に乗り込んだ団藤は俺に振り向いた。
「あー、言ってなかったっけ。俺んちだよ」
隣の杉沢が、シートベルトをしながら何気なく言う。
「はあ!? 」
団藤が目を剥いた。杉沢がどさりと凭れるようにして、俺の肩に手を回した。
「俺よーくんと一緒だとよく眠れるからさー、頼んでルームシェアすることになった。よろしく」
団藤はしばらく呆れて物も言えない様子だったが、やがてため息をついてエンジンをかけた。
車は南西に向かって進む。
俺の家とは反対方向だと杉沢が言っていたのを、俺は思い出す。
本当に学校をはさんで反対側の地区に、杉沢の部屋はあるようだ。
団藤は黙ったままだ。
杉沢は俺を構うのにも飽きたらしく、ぼんやりと窓の外を眺めている。
(気まず)
俺は小さくなっている。
団藤の不機嫌はどう考えても俺のせいだ。
自分のせいで場が凍り付くシチュエーションには軽いトラウマがある。
父が俺や母に向かって手をあげる姿が脳裏にちらつく。
俺の左顎が、そのとき受けた痛みを思い出して痺れた。
(今は父さんは関係ないだろ)
俺はあわてて記憶を追いやった。
(それに団藤はいいやつだ。父さんとなんて重ねるやつがあるか。失礼すぎるだろ)
杉沢思いで、常識人。
杉沢には必要不可欠な友人だ。
こうやって車を使わせてくれる友人なんて俺にはいないのだから、団藤には感謝してもしきれない。
(っていうか、杉沢、団藤と一緒に住んだらよかったんじゃ?)
考えれば考えるほど、杉沢と一緒に住むのに相応しいのは団藤だという気がしてくる。
杉沢は別に俺でなくても、誰かが隣にいれば眠れるだろうし。おそらく団藤は杉沢と変なことをする夢も見ないのだろうし。
どう考えても正解は団藤だ。
――引き返すべきか。
――いやいやこうして杉沢の家に向かっている以上、今更。
居心地悪く尻をもぞもぞとさせている俺を乗せて、無言の車は問答無用で道を滑っていく。
団藤の車はまだ、目的地に着かない。
もう何十分も乗っている気がする。
気まずさによる体感時間の長さのせいもありそうだが、それを差し引いても、俺の住んでいたところからは相当離れている。
俺の部屋まで週に何度もついてきていた杉沢は、やはり暇人の感を拭えない。
____それだけ俺の家庭環境について心配をかけていた、ということなのかもしれない。
見慣れない町で、車はようやく止まった。
目の前にそびえているのは、俺が住んでいたアパートよりずっと新しい建物だ。
外壁もひび割れた白塗りなどではない。体裁よく四角いタイルが貼ってある。
「ほら、ぼーっとしてんな。運ぶぞ」
団藤はぶっきらぼうに言った。
段ボールを両手で抱いて玄関に入る。
杉沢が鍵を出してオートロックを開ける。エレベーターに乗る。
滑らかに上階へ運ばれながら、俺の頭は家賃の二文字でいっぱいになっている。
ここを割り勘したところで、前の部屋に払っていた額とそうは変わらない気がする。
気のせいだろうか。
その懸念を杉沢にこそっと告げると、杉沢は目をぱちくりさせた。
「割り勘?そんなのないよ。ここお父さんが投資用で持ってる資産だもん」
一瞬意味を掴みかねたが、借りているわけではない、ということらしい。
家賃が浮くと聞いたが、そういうことだったのか。
十個並んだボタンのうちの七のボタンが光って、エレベーターが止まった。
杉沢が鍵を開ける後ろで、俺は貧乏くさくまわりをきょろきょろしている。
当然だが、団藤は初めてではない様子だ。仏頂面のまま扉が開くのを待っている。
「どうぞー」
「お邪魔、します」
明かりがつく。
真新しい洋室だ。木目と白でできたインテリアは、何もかも几帳面に整頓された印象を与える。
大き目のベッドがひとつ、しゃれたカバーをつけてもらって壁際に横たわっている。
――そう、ひとつ。
「あのさ、杉沢……ベッド一個しかないんだけど」
「うん」
「たしか布団いらないって言ってなかった……?」
「えー言ったっけ」
「おい」
たしかにこの耳で聞きましたが。
俺はため息をついた。
あとで母に布団を送り返してもらわなければいけない。
布団は今日送ったばかりだから、ここに着くまでに数日はかかりそうである。
「仕方ないよ、一緒に寝よ」
語尾にハートマークがついていそうな甘えた声で、杉沢は言った。
「ええ……」
俺は非常に困惑した。
そうだ。杉沢朔という男は、決定的に距離感がおかしかった。
どうしてそんな初歩的な事実を忘れていたんだろう――
――どさっ
乱暴に重いものを下ろす物音がして、俺はびくりと振り向いた。
団藤は立ち上がると、何も言わず、次の荷物をとりに外へ出ていく。
団藤が纏った沈黙の質が、また一段と重くなった気がした。
俺はあわてて運搬に加わった。団藤ひとりに作業させてしまったら申し訳なさすぎる。
やがて茶色い段ボールが、白い部屋の秩序を乱すようにして、いくつか壁際に詰みあがった。
杉沢には悪いが、落ち着くまでしばらくはこのままだろう。
「こっから先は自分でできるよな」
最後の箱を詰んで、団藤は訊いた。
「う、うん」
「じゃあ俺、行くから」
部屋の玄関まで団藤を送る。
「今日は、ほんとにありがとう……」
「駿がいてくれて助かったよー。俺もよーくんもあんま戦力にならないし」
「その、ごめん……」
団藤は俺を顎で指した。
「そういや、こいつと住むの、親父さんには言ってあるのか」
「言ってある」
思ったより杉沢が用意周到だったことに、俺は驚いた。
団藤はため息をついた。
「ならいい。じゃあな」
杉沢にだけ手を広げて、団藤は帰っていく。
(完全に嫌われてる)
空気のように扱われる方には耐性があっても、こういうのはきつい。
俺が何かしたのだろうか。きっとそうだ。
ひとり反省会を開いていると、杉沢がまた肩を組んできた。
俺はびくっとして我に返った。
「ごめんねー。愛想ないねあいつ」
「……杉沢のことが心配なんだろ」
俺という異物がこの部屋に入るのが、すごく嫌だった感じだ。
「うん。ほんとはいいやつなんだよ」
するりと腕を解きながら、杉沢が遠くを見るように目を細めた。
「うん……」
俺はまたひとり反省会に入った。
悪いやつに嫌われるより、いいやつに嫌われる方が堪える。
「あのさ……俺なんかより、団藤と一緒に住めばよかったんじゃ」
車の中で抱いた疑問が、思わずぽつりと口からこぼれる。
「俺よーくんだから眠れると思うんだけど」
「やってみなきゃわかんないだろ」
「それはそうだけどさー、あいつ、実家住みだし。いいご家族だし。巻き込むの、気が引けてねー」
杉沢は寂しそうだ。
「それにさ、ここならよーくんのお父さんも来れないから」
「杉沢、お前」
俺のためだったのか。
「別によーくんのためじゃないよ」
口に出してはいないはずの内心の声を即座に否定された。
ほっとすべきなのか悲しむべきなのか、それとも気を遣われていることに感謝すべきなのか、俺はわからなくなる。
「俺は俺のために、よーくんとルームシェアしようと思ったんだから。ってことでー、抱き枕がわり、よろしく」
そんなこと、よろしくお願いされても困る。
とはいえ、布団がない以上、板の間で寝るわけにもいかないのである。
その夜は仕方なく杉沢と同じベッドに入った。
セミダブルベッドというものは、男ふたりで使う場合、狭すぎるということがよくわかった。
身体を伸ばすスペースがない。
そのうえ、宣言通り杉沢は俺に抱きついている。
微動だにできない。
俺は虚無の表情を浮かべて天井を見つめた。
体温、呼吸、肌に触れる髪、巻き付いた脚。
……眠れるわけがない。
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