愛しの距離ナシ君(全年齢版)6




6 急展開


父が戻ってきたんだろうか。
固まっていると、足音は玄関先で止まった。ピンポーン、とチャイムが鳴る。
苛立ったようなノック、なし。
苛立った男の声、なし。
俺はこわごわ声を出した。

「えっと……どなた、ですか」
「……陽介?そこ、お父さんいないよね?」

聞きなれた声がドアを通して聞こえる。

「姉さん。……父さんなら、今行ったばっかりだよ。早く入って」

急いで鍵を開けると、姉と見知らぬ男がそこに立っていた。

「お邪魔します。このたびはご迷惑をおかけします」

知らない男はそう言って肩を小さくし、中に入った。

「……何があったの」
「えっと、とりあえず紹介するね。こちら、千葉光さん。私の夫」
「夫!?」
「はじめまして」

姉と同じぐらいの年齢に見えるから、まだ大学生だろうか。真面目そうな人だ。

「順番がめちゃくちゃになってしまい、申し訳ありません」
「なんでまた急に結婚なんて」
「そうでもしないとあの家出られなさそうだったから。要は駆け落ち」

あっけらかんと姉は言った。

「ふたりとも就職決まったし、もういいでしょ。私も好きに生きたい。大学の学費は、生活がちゃんとしたら耳をそろえて返すつもり」

毎日のように恩を売られているのだと、姉がぼやいていたことを思い出す。そのくせバイトは禁止、もうどうしろっていうの、と姉は連絡をとるたび膨れていた。
面倒を見てやっているのだからと言っては、姉の行動を管理したがっていたようだ。
家族の中で、父は姉だけには手をあげたことがない。だから離婚の話し合いで、父は姉と同居することになった。
今にして思えば、父は姉に依存していたのだろう。

「本当はお義父さんのご理解が得られたらよかったんですが……」
「もう全然ダメ。話もできない」
「様子を見て、千夏のためには早く家から出た方がいいと思いました。それで少し強引ですが、入籍を」

俺は頷いた。姉のことを考えてくれる人でよかった。

「お父さんが変なのは光のご両親にも伝わっちゃってて、あんまり私、歓迎してもらってないんだよね。まあ、結婚しちゃったなら仕方ないってスタンス。だから頼るわけにもいかなくて」
「ごめん。千夏のせいじゃないのにな」
「それこそ光が謝ることじゃないでしょ」

新婚夫婦が会話し終わったころ、俺はおずおずと口を開いた。

「……これからどうするの」
「それがね、前もって新居を用意してたんだけど、前の住人の退去が遅れたらしくて、一週間入居を待ってくれって言われて。連絡してきたの当日だよ。ひどくない? だから今は車中泊。ホテルとりたいけど今日明日は予約で埋まってて」
「大変だ」

姉は顔をしかめた。

「じゃ、俺の部屋使います?俺んちならここと違って、お父さんに見つかる心配もないでしょう」

壁と同化していた杉沢が突然立体化した、ように見えた。
胡坐をかいた白い足の下で、夕暮れの赤い陽射しが畳を焼いている。
姉と千葉さんは驚いている。
対する俺は、杉沢が壁に擬態できることに驚いていた。

お前、存在感を消せたのか。てっきり俺の専売特許だと思っていた。

「えっと、こちらの方は」

姉は俺に聞いた。

「あー。杉沢って言って、俺の……友達……たぶん……」
「そこは言い切ってよ」

杉沢は口をとがらせる。

「でも姉さんたち泊めてあげてる間、杉沢はどうするの」
「俺?ここに泊まるに決まってるでしょ」
「えっ」

それはまずい。あんな夢を見たばかりだというのに。
杉沢は俺の動揺に気づいていないらしい。

「どうします?」

杉沢の問いに、夫婦は顔を見合わせる。

「いいんですか?」
「どうぞどうぞ。志摩くんの大事なご家族ですもん、何もしないわけにはいかないですよ」
「すみません、じゃあお言葉に甘えて……」

杉沢は千葉さんと姉をすでに丸めこんでいる。
……俺の意見は聞いてくれないか。そうか。
たしかに杉沢はそういう奴だ。
とはいえ、俺も姉には負い目がある。
あのときの俺にはどうしようもなかったが、結果的に父の面倒を姉一人に押し付ける形で、うちの家族問題は決着した。

「幸せになってよ、姉さん」

俺がぼそっと言うと、姉は俺の頭をくしゃくしゃにした。

「当たり前じゃない」

こうして杉沢との同居生活が始まったわけである。

――どうしよう。

俺のパーソナルスペースに、パーソナルスペースという概念のない男が入ってくる。
どんな生活が待っているのだろう。俺は耐えられるのだろうか。
なにより、また変な夢を見てしまわないだろうか。
そんな懸念をよそに、杉沢は大きなリュックを背負って俺の部屋に戻ってきた。
思ったより荷物をまとめるのは早かったが、それでももうすっかり夜だ。

「姉さんたちは」
「大丈夫。鍵渡してきた」
「ごめん、迷惑かけて……」
「いーのいーの。よーくんと暮らせるなんて、こんなチャンスねえもん」
「はは……」

俺は乾いた笑い声をあげた。
杉沢はどこまでも通常運転だが、俺が気を使わないようにわざとそうしている気がした。
杉沢はいいやつだ。
杉沢と暮らしたくない理由は百パーセント俺のせいであって、杉沢のせいではない。
あんな夢さえ見なければ。

「あ、俺があげたペンギン。ちゃんと飾ってくれてるんだ」

床に荷物を置きながら杉沢が言う。

「え?あ……そうだっけ」

本棚の上に放置していただけだが、たしかに飾っているように見えなくもない。

「この子が見ててくれたら安心だねー」

杉沢は近寄って、マスコットをぽんぽんと撫でる。

「ペンギンってさー、孤独の象徴?らしいよ」
「何それ」

初耳だ。

「いや、夢占いってあるでしょ。ペンギンが出てくる夢って、孤独なときに見るんだって」

ペンギンが出てくる夢、のところで、俺は当然挙動不審になった。

「そ、そうなんだ……へえ……」
「あ、よーくん見たんだこの子の夢」

____たしかに俺はそのペンギンの夢を見ましたが、同じ夢の中で俺はお前とエッチなことをしていました。

「みみ見てない」
「そんな必死にならんでも」

珍しく杉沢が呆れる側に回っている。
杉沢はひとわたり部屋を探索し(といっても六畳間なので、覗くところといったら風呂とトイレ、それから押し入れぐらいだ)、最後に冷蔵庫を開けた。

「へえ、ちゃんと自炊するんだ」
「しないこともあるけど」
「うどんあるね。焼うどんにしよっか」

杉沢は家主に断りなく冷蔵庫からちくわともやし、人参、ねぎ、ゆでうどんを取り出すと、狭すぎる独身者用の台所で手際よく調理を始めた。

「慣れてるね」
「子どものころから料理は俺の担当だったんで」
「お母さんは?」

聞いてはいけないことだったのか、杉沢は答えない。
やがてジャー、とフライパンの中で具が踊り、食べ物のにおいが心地よく台所を満たした。

「できたよ、食べよっか」

三人前のうどんをふたりで食べる。
俺が作るのとは違って、ねぎも揉み海苔も散らしてある、ちゃんとした焼うどんだ。
生卵がつやつやと電灯の光を跳ね返している。

「もうちょい味薄くてもよかったかな」
「うまいよ」

褒めると杉沢はへらっと笑った。
俺が皿の後片付けをしている間、杉沢は荷物をごそごそと探っていた。
何をしているんだろう、と横目で見ていると、杉沢はピルケースから薬を出して飲んでいる。
睡眠薬だろう。
なんとなく見てはいけないものを見た気分だ。
俺は流しの方へ視線を落とし、黙々と皿を洗った。
風呂のあと教科書を広げると、杉沢が覗き込んでくる。

「そういえばそんなものもありましたねぇ。荷物に入れるのすっかり忘れてた」

授業どうするんだよ。

「もう遅いから明日取りに帰れば?姉さんには一言言っておくから」
「ん。そうするわ」

一目で眠気を誘う文章を無理やり目で追う。杉沢も横から同じページを読んでいる。
やはり杉沢の頭が近い。
洗いたての髪のにおいがする。
心拍数が上がっていく。

――ダメだ、きっと今夜も変な夢を見る。

――いや決めつけるな。大丈夫な方に賭けろ。

俺どうしが内心で言い合いをしている横で、杉沢がひとつ、大きなあくびをする。

「俺、寝るね」

俺は顔を上げた。

「お前、不眠症だったんじゃ」
「わかんない。今日は特別っぽい。ごめんもう無理」

杉沢は俺の布団に倒れこんだ。
まだ部屋は明るいのに、すぐに静かな寝息の音が聞こえ始める。
俺はぽかんとして杉沢を見下ろした。

(不眠症だっていうのも冗談だったんだろうか)

それとも、教科書のきわめて強力な睡眠導入作用のせいか。
いやいや、そんなわけもない。

(睡眠薬が効いたんだろう)

杉沢の寝顔を覗き込む。
普段はしげしげと見つめることがないから気づかなかったが、目の下には濃い隈が見える。
睡眠時間が足りていなかったのはきっと本当だと思った。
俺はしばらく杉沢の顔をぼんやりと見つめていた。
こうやって眠っている顔は張りぼての作り物のようで、手で触れたらぐしゃりと壊れてしまいそうに見えた。
きっと誰もがこの男のことを放っておけない気持ちになる。
哀れな三人の恋人たちもかつてそうだったんだろう。

(って、何してんだ俺)

普通の友人は友人の寝顔に見入りはしないことに、俺はようやく気づいた。

(俺も寝るか)

同じ布団で寝るわけにもいかない。
仕方なく、客用布団を押し入れから引っ張り出した。
母が以前、絶対に必要になるからと言って送ってきたものだ。
友人がいない俺には無用の長物で、今の今まで出番もなく押し入れを狭くしていただけだったが、本当に使うことになるとは。
電気を消し、布団の中で横になる。
いつもより天井が遠い。
規則正しい杉沢の寝息が、時計の針が進む音と重なる。
その夜はさいわい、妙な夢は見ないで済んだ。
なぜなら杉沢が気になってろくに眠れなかったからである。
少しうとうととしたところで、朝になる。

(まだ寝てる)

カーテンの隙間から差した光が、杉沢の肌をひとすじ照らしている。
俺はまた見惚れないように、いそいでカーテンを全開にした。
杉沢は唸って布団をかぶった。

「……起きろよ」
「やだ。こんなに寝られたの久しぶりだもん」

布団から目だけ出して杉沢が答える。

「久しぶりって」
「大学入ってから?」
「そんなに」

もう半年以上も経っている。

「よーくんの安眠効果、すごいねー」

アロマオイルじゃあるまいし、俺にそんな効果があるとは思えない。
それとも俺という存在が教科書並みにつまらないのだろうか。自覚はある。
だが同時に、もう少し信憑性のある説を俺は思いついた。

「杉沢が独り暮らし始めたのってそのころ……?」
「うん」
「なら、それだよ」
「それ?」
「たぶんお前、ひとりで寝られないタイプ」

ほぼ赤ちゃんである。
ダウナー系の赤ちゃんは口をとがらせた。

「えー、そう? 俺彼女いたよ最初は」

ひとりでは寝ていなかったという趣旨のことを言う。ああなんと憎きモテ男。

「三人……だったっけ……?」

杉沢を含めて四人がぎゅうぎゅうになってベッドに入っているさまを想像してしまう。
そしておそらく全員が裸だ。
なんと破廉恥な。モザイクをかけておこう。

「いや、だからいっぺんじゃねーって。うわ、まだよーくんに誤解されてる。これも全部駿のせいだ。ふて寝しよ」

どさくさに紛れてまた寝ようとしている。

「遅れるって。置いてくよ」
「ってことは起きたらよーくんと一緒に登校できる?」
「……まあ」

杉沢は素直に起きた。
今更だがなぜこの男はこんなに俺に懐いているんだろう。




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