愛しの距離ナシ君(全年齢版)19




19 ペンギンとナイフ



「杉沢!」

駅の雑踏で俺は杉沢を探している。どこかではぐれてしまったらしい。
改札までは一緒だったから、ホームにはいるはずなのだが。
しばらく探し回ると、やがてベンチに座っている杉沢を見つけた。

(なんだ、こんなところにいたのか)

俺はほっとした。
父がまだ捕まっていないのに、ひとりで行動するのは不用心だ。

「団藤、杉沢いたよ」

俺は振り返って団藤を呼んだ。
だが団藤には聞こえていないようだ。電車を待つ田中君と偶然鉢合わせたようで、照れながら何かを話している。
ホームは混んでいて、団藤との間には何人もの人がいる。
とにかく杉沢をひとりにしていてはいけない。
俺は団藤を連れてくるのを諦め、杉沢のもとへ急いだ。
いざとなったら、俺がひとりで杉沢を守らなくては。
突貫とはいえ、俺には鍛え上げたこの筋肉がある。ないか。

「杉沢? 」

呼びかけたが、杉沢は頭を深く下げたまま、顔を上げない。
ベンチに座っているうちに、眠ってしまったんだろうか。
昼も突発的に眠くなってしまうのなら、そろそろ本気で過眠の心配をしなくてはいけない。
いろいろと落ち着いたら、杉沢を睡眠外来に連れて行くべきかもしれない。
そこで杉沢専用の安眠グッズである俺が、過眠の原因と診断されたらどうする。
『精神的なものでしょう。志摩君ののっぺりした顔面を視界に入れなければすぐに治ります』なんて言われたらどうする。
そんなの絶対いやだ。
だが医者がいうなら、俺は杉沢の家を出ていくしかない。
すべては杉沢の健康と幸せのため。
すでにそう診断された気になって、俺は悲しくなってくる。

「杉沢、起きろよ」

悲しみながら、いつもの朝のように、俺は杉沢を揺り動かした。
ほら、やっぱり過眠だ。全然起きない。
家に帰ったら部屋の荷物をまとめるべきだろうか。いくらなんでも早いか。
考え事をしながら、俺はひときわ大きく杉沢を揺さぶった。

――ゆらり

杉沢の頭が前方に揺れて、まるで糸の切れた操り人形のように、身体がコンクリートの床に崩れ落ちた。
俺はあっけにとられた。
ひたひたと床に血だまりが広がっていく。
杉沢の腹には包丁が深々と刺さっている――

「うわああああああああ!!!!」

――俺は自分の叫び声で跳ね起きた。

ここは俺の布団。俺はパジャマ姿。
右には騒音にもめげずに気持ちよさそうな寝息を立てる杉沢、左には半分目が覚めて不機嫌なたらこ。

(なんだ、夢か)

俺は死ぬほどほっとした。
心臓がバクバクと鳴っている。

「るせえよ」
「ごめん……」

それにしてもリアルな夢だった。まだ杉沢を揺り起こしたときの手の感触が残っている気がした。
冷や汗で下着が身体じゅうに貼り付いている。昨日の夕方のマラソンに匹敵する量の汗だ。

(とにかく杉沢を起こそう……)

「すー……ぷすー……」

ちゃんと呑気な寝息の音が聞こえてくるので、正夢ということはなさそうだ。
それに冷静に考えれば、ミステリー作品に登場する犯人ならともかく、少なくとも俺の知っている父にはオートロックのかかった部屋での密室殺人などできない。それは断言できる。

「杉沢、起きろ」

杉沢は目をこすった。

「んー。なんかよーくんの叫び声がした気がするけど、気のせい……? 」
「……お前が寝ぼすけだから変な夢を見たんだ。ほんと心配した……」
「俺が寝てると思って起こしたら、死んでた的な?」

杉沢は眠そうな目をしながらも、にやっと笑う。

「……そうだよ」

言い当てられて、俺はやけくそになって答えた。

「大丈夫だって。俺は死なないから」

杉沢は優しく目を細め、俺の頭をぽんと撫でた。
そうやって自分からフラグを立てていくスタイルはやめてほしい。縁起でもない。
このフラグだけは何があっても、絶対に、バキバキにへし折ることを俺は心に誓った。

朝食のマヨネーズ醤油掛けごはんで食料の備蓄は尽きた。

「タンパク質が恋しい……」

団藤がぼそりとつぶやいた。

なるべく地味な格好に着替え(俺は常に地味だが普段の杉沢はお洒落だ)、まわりを用心しながら駅へ向かう。団藤や杉沢がやるとSPのようで格好いいが、俺がやるとただおどおどした人だ。
駅につくと夢の中で見たのとそっくりな人混みで、俺は思わず身震いした。

(杉沢んちは知られてないから、こっちの駅は大丈夫なはずだろ)

俺は自分に言い聞かせた。
それでも夢の後味は打ち消せなかった。杉沢を一瞬たりとも見逃さないように凝視しつつ、電車に乗り込む。
目を離した隙に正夢にされては困るのである。

(心配なのは大学の最寄りの方だな)

ぴりぴりしながら下車する。
ただ、大学の最寄り駅はたくさんの学生であふれていて、この中から杉沢や俺を見つけ出すのは父には難しいだろうとも思う。
制服姿の警察官も数人立っているのが見える。父を警戒しているのかもしれない。

(狙ってくるなら人の少ない午後かも……まあ、ほんとに襲いにくるのかわかんないけど)

父が執着しているのは俺ではなく姉だ。
こんな警戒態勢の中、俺だけのために、わざわざ一度事件を起こしたところにもう一度来るようなリスクを侵すとは思えなかった。
エスカレーター前はいつも通り大混雑だった。
列に並んでいると、どん、と誰かのリュックが俺を押した。

「っ……」

この混雑では将棋倒しの恐れもある。
俺はなんとか踏ん張った。筋トレの効果が出たのかもしれない。
あわてて杉沢の方を見ると、俺たちの間に数人、人が入ってしまっている。
杉沢は俺とあまり背丈が変わらないせいもあって、すぐに杉沢の頭は背の高い学生の陰に隠れて見えなくなってしまう。
俺は既視感をおぼえて、背筋を凍らせる。
夢でもこうして杉沢を見失った。
もし今、この人混みの中に父がいたら。俺は顔を青くした。

「すみません」

人波をかきわけて、杉沢がいた方へ必死に歩いていく。

(いない)

混雑が引いてきたホームにはもう、杉沢の姿も、団藤の姿も見えなかった。先に改札階へのぼったのかもしれない。
俺はいそいで来た道を引き返し、脇の階段を一段飛ばしして、上へのぼった。
上へ行くと、杉沢と団藤が壁際で俺を待っているのが見える。
ふたりともまだ俺には気づいていない。一緒にいる誰かと楽しそうに話している。どこかで知り合いと合流したんだろう。
なんだ、取り越し苦労だったか。
俺はほっとして、人混みごしに手を振ろうとした。
だが小さな違和感があった。
俺は挙げようとした手を途中で止め、三人の様子を眺めた。
しばらく首をひねっているうちに、俺はようやく違和感の正体に気づいて、ぞっとした。

――杉沢や団藤が会話している相手が、田中君だった。

(夢のまんますぎる)

オカルトかぶれやスピリチュアルかぶれだと笑われるかもしれない。
普段なら、俺だって予知夢などという非科学的なものを信じはしない。
だが理屈ではなかった。
そのときの俺は、夢が正夢になってしまうのではないかという、言いようのない恐怖に駆られていた。
必死に父の姿を探した。
それが功を奏したのだから、世の中は不思議だ。

(……!!)

俺は目を見開いた。
トイレから様子をうかがう男がいる。髭だらけで、どこかで拾ったようなジャンパーを着ている。
それが父だとわかるまで、少し時間がかかった。
別人のようだった。赤い目を宙にさまよわせ、何かぶつぶつとひとりで喋っている。
たった数日で、もう戻れないところまで父の様相は変わってしまっていた。
父はジャンパーのあわせに手をいれて、杉沢の方へ歩いていく。

(まずい)

助けを呼ぼうかと警察の人を探したが、俺からは遠い。
父はどんどん歩みを速めて、杉沢へ一直線に向かっていく。
ジャンパーの中から何かが覗いた。
考えるより先に、勝手に身体が動いていた。
人波を縫って父の背後に迫る。
突貫で鍛えた筋肉がちゃんと役目を果たしたのか。父が俺にまったく気づいていなかったからか。
そのどちらでもあったんだろう。
俺がくらわせた体当たりで、ちゃんと父の身体が吹っ飛んだ。

――からん

銀色の何かが床に落ちる。
倒れた父と俺の横に、包丁が転がっている。

「包丁を遠ざけて!! 警察!!」

何かぶつぶつ言っている父の上にのしかかって、俺は叫んだ。
周りの人たちは驚いて俺たちから距離をとった。
包丁は誰かが蹴とばしてくれたおかげで、父の手の届かない場所に転がっていった。だが警察を呼んでくれそうな人は見当たらない。
助けてくれる人はいないのか。暴れる父を押さえ込もうとしながら、俺は少し絶望する。
だが、よそ見をしていたのがまずかった。

「……!!」

ぐるん。天井が急に回る。
俺の貧弱な体はいとも簡単にひっくり返された。
父が俺の身体に脚をかけ、体勢を逆転させたらしい。
人の変わったような髭面が、俺を無表情に見下ろしている。

(殴られる)

だが伸びてきた手はげんこつではなく、大きく開いていた。
ずっと俺が恐れていた、骨ばって大きな手。

「……ッ!!」

父の震える両手が俺の喉を締めた。
なんて力だ。
目の前が赤く染まっていく。
ただでさえ人より細い気管が締まる。首の骨がみしみしと鳴る。舌が出る。
父を引き離そうとする俺の手から力が抜けていく。

(しぬのかな)

視界が霞み始めて、俺はぼうっと考えた。

(でも、俺、友だちできたもんな)

団藤、それに……杉沢。
杉沢の綺麗な顔を最後に思い浮かべて終わるとは、なかなか良い人生じゃないか。
俺は少し幸せな気持ちになりながら、意識を薄暗くさせていった――

――いや、結局死にはしなかったのだが。

急に喉を押さえていた手が首から離れた。
真っ暗になりかけていた視界が急激に開けていく。

「がはッ、ッが、は、ごほっ」

俺は涙を浮かべながら咳き込んだ。うまい呼吸の仕方がわからない。
誰かが俺を抱き起して、俺の背中を必死にさすっている。
誰のものかはわからないが、その薄い手のひらは信じられた。
手の動きに合わせて、なんとか呼吸していく。
ようやく落ち着いてくると、警官がふたりがかりで父を羽交い絞めにしているのが見えた。

「最初に親父さんを止めたのは俺と朔だからな。警官を呼んできたのはこいつ」

団藤が親指で隣を指している。

「どうも」

田中君が心配そうな表情をしてこちらを見ている。
ということは。

「よーくん……あんな紫になっちゃって、死んじゃったかと思った……よかった……」

薄い胸。さらさらした髪の感触。
俺を抱きしめ、俺の背中をさすっていたのは杉沢だった。
杉沢は泣いていた。

(安眠グッズのために泣いてくれるのか)

いいやつだ。
俺はまだ酸欠でぼうっとしながら、杉沢の頭を撫でた。


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