愛しの距離ナシ君(全年齢版)13



13 俺が守るよ




ごぼり。
泡が俺の口を離れて上へ浮かんでいく。
深い暗闇の中で、俺は体育座りをしている。

(あ、ここにいると息ができなくなるんだっけ……)

俺は他人事のように考えている。

(別にいいや、このままで)

このまま沈んでいけばいい。
俺はゆらゆらと波に揺られながら、目を閉じる。
そのとき、何かが俺の腕を掴んだ。
ゆっくりと俺の身体が光の方へ引き上げられていく。

(手……)

俺はその手を握り返した。

(杉沢の、手……)

手に導かれるように、夢の奥から俺の意識が浮上する。
俺は瞼を開けた。

――目の前に、杉沢がいた。

「なっ!?」

俺は飛び起きた。

「よーくんうるさい……まだ寝かして……」

杉沢が俺の手を引っ張ってマットレスに強制送還する。
夢の中の杉沢ではなく、正真正銘、実体を持った杉沢である。

(どうしてこうなることが予想できなかった)

杉沢に抱きこまれながら、俺は自分の浅はかさを呪った。
月曜には帰ってくると言っていたが、日曜の晩に帰ってくるという意味だとは思っていなかった。
腕をなんとか伸ばして俺のスマホを手にする。

(五時……)

たしかにまだ起きるには早いが、もう目は覚めてしまった。
そして朝というものは、男なら誰しもちょっとはエッチな気分になるものである。
杉沢の起床まであと一時間あまり。
つらい。
俺はスマホの画面をにらんで、なんとか杉沢が起きるまでの時間をやり過ごした。

「いやさー、実家だと全然眠れなくて。お父さんに言って早めに帰してもらった」

目覚めた杉沢は眠い目をこすりながら、そう事情を説明した。

「べ、ベッド勝手に使ってごめん……布団出すの面倒で」

俺はもごもごと言い訳した。

「ほらー、やっぱよーくんもベッドがいいんじゃん」

そういうわけではないのだが、そういうことにしておく。

「また明日から一緒に寝てもいいよ?」
「遠慮しとく……」

この日は一限から授業だった。杉沢と一緒に大教室に入ると、ちょうど団藤と鉢合わせる。
俺は表情筋がこわばるのを感じた。
昨夜も杉沢に抱き枕にされてました、なんて絶対に言えない。

「あれ駿、手袋買った?」

横から杉沢が言った。
団藤の手を見ると、確かに見慣れない黒い手袋をしている。

「これ? ほら、田中っているじゃん、弟のダチの。そいつからもらった。誕生日プレゼントらしいよ」
「へえー、いいじゃん」

杉沢は俺の方を見てにやにやしている。

「妙に律儀だよなあいつ」

手袋をかばんにしまいながら団藤はつぶやいた。
この様子だと、団藤は何も気づいていないらしい。
がんばれ田中君。

(いや、田中君を応援したいと思うのは、田中君のためじゃなくて俺のためじゃないのか?)

俺は悩み始めた。
団藤が田中君と良い仲になってくれれば、俺は団藤に勝つことなく、杉沢を独占できる。
そんな計算で、俺は田中君に肩入れしているだけなのではないか?
なんて醜いんだろう。俺は自己嫌悪に陥った。
その一方で、焼肉屋で団藤を見つめていた田中君の横顔は忘れられない。
あの瞬間、俺と田中君は同じ気持ちを共有していた。

「たぶんだけど、あの子、駿のこと追いかけたくてこの大学受けるんだよ」

杉沢は机に頬を乗せながら、楽しそうに言った。

「んなわけ」
「ほら、高校んときもあの子、テニス部で駿と一緒だったし。怪我したとき駿におんぶしてもらったこともあったでしょ」
「あー、あったっけなそんなことも」
「憧れてんだね、きっと」

杉沢はふたたび俺に目配せをした。
俺は杉沢の視線から逃げるように俯いた。
杉沢は俺に同意してほしかったのかもしれない。だがそれをしてしまったら、俺は卑怯者になる。
ごめん、田中君。応援できなくて。
卑怯者になりきる勇気すら、俺にはない。

(……どうしてみんな、自分に向けられた好意には気づけないんだろうな)

杉沢にしても、団藤にしても、だ。
自分で気づいてくれたなら、団藤も田中君も、苦しむことはなかったかもしれないのに。
困ったものだ。


午後の授業が早く終わった杉沢から、友人たちと遊んでくるという連絡があった。
俺は先に飯を済ませた。
ひとりで過ごす午後八時。俺はいつにも増してだらけている。まあ、杉沢がいるときも同じようなものではあるが。
ゲームをするでもなく、ましてや教科書やパソコンを開くでもなく、俺の指はスマホの画面をなぞり、あてどなくネットの海を泳ぎ始める。
少し笑える投稿、義憤を煽るような投稿、一見ためになる投稿。
読んだ瞬間は満足するものの、時間が経てばすぐに忘れてしまうような、どうでもいい言葉の数々が画面を通り過ぎていく。
こうして脳みそをざるにしているのは奇妙に心地いい。だからダメになる。
こんなことでは杉沢の友人失格なのに。

「ただいまー」

杉沢はふらりと部屋に戻ってくる。

「あ、おかえり」
「ごはんにしよっと」
「あれ、食ってこなかったの」
「愛しのよーくんに一刻も早く会いたかったから」

新婚の夫のようなことをいう。
ぶ、ぶ。
そのとき、手の中の端末が震えた。

「誰から?」

杉沢は後ろから抱きつきながら、画面を覗いてきた。
俺のプライバシーは華麗に無視されているが、もう慣れてしまって何とも思わない。
俺は画面の上部に浮かんだメッセージを何気なく見て、背筋を凍らせた。

『お父さんが居場所を教えろって就職先で暴れたって 警備員さんが止めてくれたみたいだけど』

姉からだった。
すぐにアプリを開いて返信する。

『警察は?』
『そこまではいかなかった』

ほっとしたのと同時に、このまま父が野放しのままで大丈夫か、不安になってくる。
ここまでくると、きっともう誰も父を救えない。
だが目下の問題は父より、姉だ。

『内定どうなるの』
『わかんない 平謝りしたけど 会社に悪いから辞退するかも』

俺は唇を噛んだ。
どうして姉は父から逃げられないんだろう。

『早まっちゃいけないし様子見てからにしたら?』
『うん。でもあの人、職場変えないかぎりまた来ると思う。光の方はまだ就職先が割れてないから、多分押しかけてこれないけど』

俺は泣きたい気分になる。

『姉さんには幸せになってほしいのに』
『大丈夫だよ 最悪私には光がいるもん』

心の中で、俺は光さんに感謝した。
姉と出会ってくれてよかった。
それに引き換え、俺は。

『俺にできることがあったら言って』

自分の無力さを感じながら、俺は空虚な言葉を送った。

『今はないよ 心配させそうだし連絡するかも迷ったけど、陽介のところにも迷惑かけてくるかもしれないから一応連絡した そっちも気をつけて』
『そうする』

やりとりが終わると、杉沢は気まずそうに腕をほどいた。

「ごめん、見ちゃった。お姉さん大変そうだね」
「うん……」
「お姉さん、どこの会社が決まってたの」

俺は会社の名前を教えた。

「小さめの日用品メーカーなんだけど、総合職でとってもらったって喜んでたんだ……」
「そうだったんだ」

相槌を打ったきり、杉沢は何か考えている。

「父さん、また大学に来るかも……何も言わずに引っ越したから」
「大丈夫。俺が守るよ」

杉沢は真面目くさった顔で言った。

「……あんまりお前のこと、巻き込みたくない……俺たちなら慣れてるし」

冗談として受け流すべきだったのか、迷いながら俺は言った。

「水臭いって。俺とよーくんの仲でしょー」

いつもの調子に戻って、杉沢が言った。
なんだ、冗談だったか。
急に照れくさくなって、俺は少し笑った。

「いいから飯、食べたら」


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