愛しの距離ナシ君(全年齢版)18




18 さらなる事件



次の日の午後、俺は団藤と一緒に、杉沢に付き添って病院へ行った。
本人はひとりで大丈夫だと言い張っていたが、団藤と俺でなんとか説き伏せた。
事件から三日経ったが、どこで身を潜めているのか、俺の父はまだ捕まっていない。ただの傷害事件だから、警察が少ない捜査員しか割けないせいもあるかもしれない。

「お待たせー。脳にも異常はないって。傷もよくなってきてるみたい。寝るとやっぱ回復早いね」

診察室から出てきた杉沢はのんびりと言う。

「よかった……」

俺はほっとした。
会計を済ませて帰る段になって、団藤が杉沢に何か耳打ちしているのに気づいた。

「入院棟、寄らなくていいのか」

団藤はそう言ったように見えた。
ばくん。心臓が跳ねた。
この病院は私立の総合病院で、外来棟とは別の棟に入院棟がある。
おそらく、杉沢のお母さんはそこに入院しているのだ。

「今日はいいよ……こんな顔、見せらんないし」

杉沢は俺に聞かせないようにしているらしく、そう小声で答えた。
杉沢のお母さんは昏睡状態だから、怪我をした顔を見せたくないのは、杉沢自身の気持ちの問題なのだろう。

(ああ、やっぱり俺には打ち明けてくれないんだな)

俺はひとり絶望する。
杉沢はそのあとも何か続けて団藤にささやいた。
だがちょうどそこへ、エレベーターが到着した。

『三階です。ドアが開きます』

杉沢のささやきは、アナウンスの声に機械的かつ無慈悲にかき消された。
何を話していたんだろう。無性に気になって、不安になる。
何を話していようが、俺には関係のないことなのに。

(杉沢のことだったらなんでも知りたい)

この気持ちはもう病気に近い、と俺は思った。
杉沢がたまたま俺を安眠グッズとして気に入ってくれているからまだいいが、そうでなければストーカーと言われても文句の言えない性向をしている。
親が粘着質だから、俺も粘着質なのは当たり前かもしれない、と俺は暗く思う。
何せ俺の血の半分は父由来だ。俺も父と同じで、気に入った相手に執着してしまうタイプの脳みその持ち主なのかもしれない。
優生思想と言ったか。そうやってなんでも遺伝のせいにする考え方は差別の元で、よくないということは授業で習った。
それでも自分を疑ってしまう気持ちは、理性ではどうしようもない。

暗い気持ちを顔に出さないように気を付けながら、何も聞かなかったふりをして、俺は先にエレベーターに乗り込んだ。
聞かなかったふりが成功していたかは、今回もわからない。

「朔を家まで送ったら、飯の前にランニングしようぜ」

帰りの地下鉄で、急に団藤が俺に言った。
思いっきり落ち込んでいた俺は反応が何拍か遅れた。

「え?あ、うん」

団藤は呆れている。

「お前のトレーニングに付き合ってやるって言ってんの」
「そ、そう、ありがとう」

俺はあわてて礼を言った。
もしかしたら団藤は、俺が落ち込んでいるのを見て、元気づけようとしてくれたのかもしれない。

(いいやつだ)

胸がじんとした。
精神構造がストーカーな陰キャにはもったいない友人だ。

「何? よーくん鍛えてんの」
「え? あ、まあ、うん。強くなりたくて……」
「別によーくんはそのまんまでいいのに」
「あ、はは……」

俺は乾いた笑い声をあげた。
もしかしなくても、全然頼ってもらえていない。
この貧弱な肩幅では当然だが。


家でスウェットに着替えてから、俺は団藤とマンションの周りを走り始めた。
俺は必死に、団藤は楽々と走っている。
なのに団藤はあっという間に遠ざかっていく。
しばらくすると二周目に入った団藤が俺を追い越した。
俺は走っているつもりなのだが。
三回俺を追い越した団藤は立ち止まって俺を待つと、並んで歩き始めた。
いや、だから俺は走っているつもりなのだが。

「ごほっ……ごめ……も、無理……」

三周を回りきる前に、俺の脆弱な呼吸器は限界を迎えた。
膝に手をつき、ぜえぜえひゅうひゅうと肩で息をする。
肺に吸い込む空気が変な風味になるのはなぜだろう。

「お前、体育んときどうしてんだよ」
「いつも死にかけてる……」

団藤は呆れている。以前は不機嫌な顔ばかりだったが、最近の団藤は呆れ顔がデフォルトになっている。

「まあ、無理したっていきなり体力がつくわけでもねえしな。気長にやれよ」

団藤は俺にスポーツドリンクを渡してくれる。優しい。
息が切れすぎて今は飲めそうにないが、俺はボトルをありがたく受け取った。

「いつか団藤みたくなれるかな……」

団藤はいかにもテニスをしていましたという、独特に無駄のない体つきをしている。
日に焼けた肌は俺や杉沢と正反対の健康さだ。
こういう男だったら、ちゃんと杉沢に友達として頼ってもらえるのに。

「だったらうちのサークル、空いてるけど。別に大会行く感じでもねえ緩い同好会だし、一度見てみれば」

テニスサークル。
社交的で輝かしい学生たちしか集まらないイメージのあのサークルに、内向的で真っ暗な俺。

(無理無理無理無理)

俺は俺にできる最速で首を横に振った。

「まあ、お前、向いてそうにないしな……」

団藤にさっそく諦められている。
よろよろと杉沢のマンションに戻る。まだ肺が痛い。

「お帰りー。よーくん生きてる? 」
「ほとんど死んでる」

俺の代わりに団藤が答えた。

「駿、しごきすぎじゃね? 」
「軽いウォーミングアップしかしてねえって」

団藤の名誉のために、俺は今の身体で可能な限り力強く頷いた。
そのとき、俺のスマホが鳴った。

「はい、志摩です」

警察からだった。

――父がまた事件を起こした。

姉が勤めるはずだった会社に、刃物を持って乱入したのだという。

「もしもしー、聞こえてますかー」

感情のこもらない声で捜査員さんは言った。
こういう事件が日常茶飯事な人なのだな、と俺はぼんやりと思う。

「あ……はい、すみません。ちょっとショックで。……あの、怪我した人は」
「警備員が手を切りつけられましたが、傷は浅く、命に別状はありません」
「そうですか……」

俺はほっと胸をなでおろした。不幸中の幸いだ。
きっともう姉はその会社に勤めることはできないだろうが。
いや、それよりも怪我をした警備員さんのことだ。

「父が本当に申し訳ないことを……怪我をした方、に、本当に……」
「はい、はい。えー被疑者は刃物を持ったまま逃走しています」

しどろもどろに謝る俺を、捜査員さんはクールに遮った。
『今忙しいんでそういうの勘弁して』という気持ちが声にありありと現れている。
要領を得なくて申し訳ない。

「現在警察官を大幅に増員して捜索しています」

今回は警察も大ごとだと思ってくれたようだ。

「動機が家庭の問題ということで、そちらに向かうことも充分考えられますので、何かあったらすぐに警察にご連絡を。被疑者は刃物を持っていて非常に危険ですから、くれぐれもご自分で対処しようとしないように」
「……はい。それはもちろん」

会話が終わって、俺はすぐ電話の内容を杉沢と団藤に伝えた。

「ほんと、ごめん……父さんがいろんな人に迷惑を」
「話し合いで激昂させた前回はまあ謝る気持ちもわからなくもねえが、今回は明らかに志摩のせいじゃねえだろ。親父さんが勝手にトチ狂ったせいだ」
「団藤……」

団藤にはてっきり責められると思っていた。俺は感動した。

「駿、いいこと言うじゃん。……あれ、俺の方にも電話来た」

けたたましく固定電話が鳴る。
杉沢は受話器を耳に当てた。
同じ捜査員さんの声が機械から漏れて聞こえた。

「で、切りつけ事件ですよね。今志摩君から聞きました。はい、はい。注意事項も志摩君から聞いてますんで大丈夫です、はい、気を付けます、どうもどうもー」

話の早い相手で捜査員さんがほっとしているのが見えるようだ。
杉沢はさっさと電話を切った。

気分は落ち着かないが、こんなときでも日常生活は送らないといけない。

(もうあんまり食料残ってないんだよな)

俺はかぎりなく空に近づきつつある冷蔵庫や棚を開けた。

(でも買い物なんか行って、父さんに尾けられたら危ないか)

俺は急に不安になってきた。
ここが比較的安全なのは、オートロックや防犯カメラのおかげももちろんあるが、父に場所が知られていないからだ。
不用意に出かけて父に見つかったら杉沢に迷惑がかかる。

(今日はありあわせでいいや。明日は団藤に買ってきてもらうか、ウーバーでも頼もう)

冷蔵庫にあったものを全部(コーラやアイスは除く)放り込んで鍋にする。
正直あまり食欲はなかったが、ごった煮は意外といけた。
少々塩からかったものの、味噌を入れたのが団藤ということで誰からも文句は出なかった。

「……明日から授業、欠席した方がいいかな。また父さんに待ち伏せされたら……」

箸の先で油揚げを冷ましながら、俺はぼそぼそとつぶやく。
杉沢は取り箸でちくわとソーセージを確保している。

「学内なら、いくらなんでも警備の人に見つかるでしょ。駅とかはわかんないけど、人も多いし大丈夫じゃね?」
「杉沢は行くの」
「そのつもりだったけど」
「……なら、俺も行く」

杉沢が行くというのなら、ほかの選択肢はない。

「心配すんな。俺もついてる」
「うん。団藤がいてくれてほんとに心強いよ……」
「……だからお前のためじゃねえけどな? 」

杉沢が笑った。

「駿、照れてる」
「ちげえから」

団藤も苦笑した。
俺は一瞬、不安な気持ちを忘れてふたりを眺めた。

――ふたりの間にぎすぎすしたものが残らなくて本当によかった。

杉沢が風呂に入っている間に、俺は団藤監修のもと筋トレを行った。
いつものように風呂に入ったあとトレーニングすると、筋肉が伸びきって効果が悪くなるらしい。

「あと普通に汗くさくなるだろ」

団藤はぼそっと付け加えた。
それはその通りである。
スポーツマンが汗くさいのはいいが、モヤシマンのくせに汗くさいなんて、いいとこなしだ。
プランク、スクワット、その場でダッシュ。

「俺がついてるとは言ったが、相手は刃物持ってる。朔ひとりだって守れるか、ほんとのところはわからねえ」

俊敏さと正反対の動きを見せる俺を眺めながら、団藤は真剣な顔をして言った。

「うん……」
「お前までは無理だと思っててくれ。いざとなったら自分で身を守れ」
「わか、ってる……」

俺はなんとか頷いた。
こんな付け焼刃ではどうにもならないことはわかっている。きっと団藤も承知だろう。
それでも何もしないより良いと思った。
こうして何かしていれば、父のことを考えないで済む。
杉沢に心を開いてもらっていない現実のことも、忘れていられる。
いつかはなんでも話してもらえるかもしれないという、甘い幻想に浸っていられる。


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