愛しの距離ナシ君(全年齢版)9
9 ラプンツェルと王子
寝不足の身体を引きずりながら、俺は階段状になった大きな教室を後にする。
上るのがしんどい。
杉沢の独特にゆらゆらとした身のこなしは、実は睡眠不足が原因だったのかもしれない。俺がやってもさまにならないどころか、ただの病人感が漂うが。
この単元は杉沢が選択しなかった科目だったらしく、姿は見えない。
つまり誰かに声をかけられることはない。そう油断していたところだった。
「おい」
教室から出たとたんに、不機嫌な声に呼び止められた。
「団藤」
人が行き交う廊下の真ん中に、団藤が堂々とそびえている。
「志摩、話があんだけど」
「えっと……じゃあ学食……」
「いいからついてこい」
ぶっきらぼうに遮られた。
やはりしっかりと嫌われてしまったようだ。
内心さめざめと泣きながら、団藤の後ろについて、建物の裏へ回る。
このあたりは人が少ない。
「で、話って……」
「お前、朔の何なんだよ」
どういう意味かわからず、俺は返事に困った。
団藤は余計に苛立って、続ける。
「布団も持たずに引っ越しとか何考えてんだよ」
「あ、あ、あれは、ほんとに杉沢が言わなくて……」
早く言い訳しなくては。
このままでは永久に団藤の中で、ベッドのひとつしかない部屋に布団を持たずに引っ越そうとした非常識な男として名をとどめてしまう。
しどろもどろになった俺を杉沢が遮る。
「あいつのことどう思ってる」
「……どう?」
俺は馬鹿のようにオウム返しした。 オウム返しは得意なのである。
「なんとも思ってない、ってか? クソだな。思ってたってクソだが」
俺の答えを待っていない様子で、団藤は吐き捨てた。
「俺が何年もかけてやっと手に入れた地位なんだ。それを簡単にお前は」
「団藤?」
「あいつと少し似てるってだけで。 そんなのお前の努力じゃねえのに。俺んちが荒れてないから。本当の意味であいつのつらさをわかってやれねえから」
「団、藤」
話が見えない。
ただ、団藤が苦しんでいることだけはわかる。
「俺は朔が好きだ」
唐突に団藤は言い切った。 俺は少し驚いた。
「俺、ゲイなんだよ。初めて会ったときから好きだった。だが知っての通り、あいつはノンケだ。ああやってべたべたしてくるくせにな。俺とあいつがそういう関係にはなれないことも、すぐに悟った」
ノンケ。
女の子が好きな男という意味だったか、と俺はぼんやりと思い出す。
「だからそのかわり、あいつのダチの中で、俺は特別になろうとした。多少成功してたはずなんだ。お前が現れるまでは」
団藤の拳が震えている。
「……なんで俺じゃなくて志摩なんだよ」
泣きそうな声だ。
「お前があいつに何をしてやった? あそこであいつと同居するだけの価値がお前にあるのか?」
俺は何も言えなかった。
団藤の言う通り、俺は杉沢に何もしてやれていない。
せいぜい昨晩、抱き枕業をしてあげたぐらいだ。たぶん団藤に言うと怒るから言えないが。
逆に、俺のためにしてもらったことならたくさんある。
「あいつの母親が自殺未遂したとき、俺はあいつのそばにいた。あいつを寂しくしないように。いや、威張って言えたもんじゃねえな……それしかできなかった」
俺ははっとして顔をあげた。
そんなの、知らない。
「もしかして聞かされてなかったのか? 一緒に住んでんのに?」
団藤の声に優越感を感じたのは錯覚だろうか。
「未遂って……大丈夫だったの?」
「今でも昏睡状態だそうだ」
俺は言葉を失った。
現在進行形で大変な思いをしているのに、杉沢は俺にはそんな素振りすら見せなかった。
「俺から聞いたって、言うんじゃねえぞ」
団藤の機嫌は少し良くなっていた。
「俺があいつのこと好きだってことも」
「言えないよ、そんなの」
俺は上の空で答えた。
帰ってから、俺は杉沢の顔を直視することができなかった。
杉沢は何も気づかないでいる。
まあ、俺が誰かとアイコンタクトをとるのが苦手なのは、今日に始まった話でもない。
「さ、若者は早寝しよ」
先に横になってマットレスをぱんぱんと叩いている。
まだ九時前だ。
俺は抵抗する気にもなれず、黙ってベッドに入ると、抱き枕業に徹した。
すぐに寝息が聞こえてくる。
安心しきったような顔をして、杉沢は俺に抱きついている。
(なんで言ってくれなかったんだよ、杉沢)
こんなにも近くにいるのに、杉沢は遠い。
(杉沢はたくさんのものを背負っているのに、俺にはそれを分けてはくれなかった)
当然か、と俺は思う。
今だって、杉沢のために痛めなければならないはずの胸を、俺は自分のために痛めている。
なんて醜いんだろう。
『お前があいつに何をしてやった?』
団藤の声がよみがえる。
『あそこであいつと同居するだけの価値がお前にあるのか?』
そんなもの、あるわけがない。
ならば、この場所を団藤に明け渡すべきだ。
それが正しいのだとわかっているのに、俺はまだこうして抱き枕になっている。
この体温を、信頼を手放したくない。
失いたくない。
それが俺のエゴだとしても。
なぜならこいつは――
覚悟を決めて、俺は目を閉じた。
――こいつは、俺の大切な友達だからだ。
次の日の夕方、日時指定していた荷物を時間通りに届けてくれた配達員さんは、制服の帽子をさわやかに触った。
「どうもー」
「どうも……」
玄関のドアが閉まる。
ビニール袋に入った布団が玄関先に置かれている。
袋の口を縛るガムテープが、またこの部屋の美意識を壊している。
「布団、届いちゃったねー。残念」
「いいんだよこれで……」
昨今の宅配業者が有能で助かった。
たった数日で、布団は俺のもとに帰ってきた。
杉沢との同居はともかく、抱き枕業を続けるのは不健全である。ただちに廃業した方がいい。
でなければ、また不純な夢を見てしまう。
それが夢で済まなくなれば、今度こそ本当に杉沢と友達でいられなくなる。
「ベッドいいよー。床寒くなくて」
「でも狭かっただろ。普通寝られないって」
杉沢が事情を教えてくれなかったのは、正直に言ってショックだった。
だが冷静になって考えると、それも当たり前だと思う。
自分でも信じられないが、杉沢が話しかけてきてから、まだ一か月ぐらいしか経っていないのだ。
団藤のような長年の友人と張り合うこと自体がナンセンスだ。
これから少しずつ、杉沢にしてもらった分を返していく。
友達というきらきらとした称号に俺が釣り合うようになるには、それしか道はない。
「じゃあさ、よーくん用のベッド、プレゼントしよっか」
「そんなことさせられないよ……家賃もタダなのに」
家庭事情を知ってしまった今なら、なおさらだ。
がさがさとビニール袋を開いて、布団を取り出す。俺が捨ててきた六畳間の匂いがする。
「杉沢のお父さん、ほんとに俺なんか住まわせていいって、言ってるの」
「もう大歓迎。父さん、俺の不眠知ってるから、よーくんのこと救世主(メシア)だって」
俺の知らないところでなぜか俺が祀り上げられている。
昔教会で見た本物のメシアが不謹慎にも俺の頭をよぎる。
十字架にかけられた憂い顔のメシア。その首から上だけが、雑なつくりをした俺の顔に頭の中ですりかわる。
「俺何もしてないのに、そんな」
「よーくんはいるだけでご利益あるから」
「ないってそんなの……でもさ、いいお父さんだね」
俺は自分の父親と比べて、思わず言ってしまった。
「俺には甘いからねー」
そう返す杉沢の笑顔には、いつか見せた嘘くささと寂しさがあった。
『自分より大変な人が身内にいると、泣き言いえなくなるでしょ』
ふいに杉沢の言葉がよみがえる。
(大変な人って、杉沢のお母さんのことだったんだな)
それか、妻が昏睡状態になっているお父さんのことかもしれない。
どちらにしろ、自分の意見を言いづらい環境だったのはすごくわかる。
杉沢に寂しい思いをさせたくなくて、お父さんは杉沢に優しくし続ける。
世間一般から見て、自分が恵まれている存在だということを、嫌でも自覚させられる毎日。
それでいっそう、杉沢は泣き言が言えなくなったんじゃないか。
(わかった気になってんじゃねえよ)
俺の俺に対するツッコミは、団藤の声で再生された。
「なんかごめん」
「気にすることないよ、ほんとのことだもん。この部屋とか見ればわかるでしょ。溺愛パパだって」
俺は部屋を見回した。
どこもかしこも、お父さんの『配慮』で満ちた部屋だということに、俺はようやく気づく。
何もかも清潔で高級感がある。
「あー……」
だがこの部屋に、杉沢の個性を感じさせるものはほとんど見当たらない。
杉沢が眠れなくなったのは、この部屋にも多少原因があったのかもしれない、と俺は思った。
整頓された白い部屋で、小さな機械を覗き込んで、ひとり寂しさと戦っていた杉沢の姿が目に浮かんだ。
(そんなの、余計寂しくなりそうだ)
ぐるりと見回しているうちに、まだ壁際に積まれたままの段ボールが異様な生活臭を放っているのが目に入る。
俺の荷物だ。
あまりに異質なため、美術館に置かれた何かの前衛芸術のようにも見える。
「片づけなきゃ」
申し訳なくなって、俺はぼそっと呟いた。
「いーのいーの。よーくんのものが転がってるとさー、寂しくないじゃん」
俺は理解した。
唯一、杉沢が自分の趣味でこの部屋に足したのが、俺と俺の家財道具だったらしい。
「……今度」
俺の声で、杉沢が俺に視線を戻す。
「バイト休んでみようかと思うんだ……一日だけ、だけど」
俺は何を言ってるんだろう。唐突すぎて、杉沢も目をぱちぱちさせている。
「だから……どっか……行こう?」
ここから杉沢を連れ出してやらなくてはならない気がした。
そんなことでは解決にもならないのに。
俺はだんだん恥ずかしくなって、行こう、のあたりは声がほとんど出ていなかった。
(脈絡もなく急に誘うなんて、杉沢より変人じゃないか……)
杉沢はやがて、にやっと笑った。
寂しそうな笑顔ではなく、出会ったころの憎たらしい笑顔の方だ。
「デートじゃん」
「いや、ちが……」
俺の心の底に溜まったままの不純物を見透かされた気がして、俺はぎくりとする。
違う、邪な気持ちで言ってるんじゃない、これは友人として、杉沢のためを思って……。
「行こ。ふたりで。俺、すげー楽しみ」
杉沢のにやけた顔を見ていたら、少し安心した。
きっと俺は間違ったことをしていない。
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