愛しの距離ナシ君(全年齢版)20
20 ハローグッバイ
その日は大学を欠席して、病院で頸椎や気管、脳の検査をしてもらった。体感よりも絞められていた時間は短かったようで、おそらく後遺症は残らないだろうと言われた。
今のところ、首にはくっきりと手の痕が残ってしまったが。
その手の持ち主である父は、当然逮捕された。
病院まで事情を聞きに来た警察の人によれば、父はやはりぶつぶつと何かわけのわからないことを話しているそうだ。精神鑑定されるだろうとも。
「ただ、店で包丁を購入したなど犯行に計画性があることから、刑事責任は大方免れられないと思っててください。決まったことじゃなくて、あくまで私個人の見解ですが」
俺はなんとも言えず、そうですか、と答えた。
杉沢も団藤も、目撃者として警察に話を聞かれていた。父の裁判のときは、ふたりも証言台に立つことになりそうだ。
「助けてくれてありがとう。ごめん、思いっきり巻き込んじゃって……」
帰りのタクシーで、俺は杉沢と団藤に謝った。
「何言ってんの。よーくんがいなかったら今頃俺、天国で寝不足になってる頃だから」
「いや寝不足になるの早えよ。まだ一日も経ってねえぞ」
助手席の団藤がぼそっと突っ込む。
「……この世で寝不足になってたらもっと嫌だった。死んじゃうぐらい嫌だった」
普段から距離感が間違っている男は、距離感が間違っているまま俺の首を撫でて、じっと俺の目を見つめた。
杉沢の手は相変わらず乾いていて、少し温かい。
(この手にだったら殺されたっていいのに)
この薄いてのひらは、絶対そんなことはしないのだろうが。
「くすぐったいよ……」
杉沢の瞳から目をそらしながら、俺は笑った。変な気分になりそうで困る。
「世話になったな」
団藤は部屋に着くと、さっさと荷物をまとめてしまった。
たらこの皮も綺麗に畳まれてリュックの中だ。
「そんなすぐ帰んなくてもいいのに」
「家族に心配かけてるし。……あんまここに長居すっと、あいつが妬くしな」
団藤はもごもごと言った。
俺と杉沢は顔を見合わせて、くすっと笑った。
「じゃあな。志摩はトレーニングサボるなよ」
「えっ」
「えじゃねえ。お前の義務は別に終わってねえぞ。また暇なとき見てやっから」
団藤は杉沢と俺に手を挙げて、去っていった。
杉沢はなぜか勝ち誇っている。
「言ったでしょ。駿はいいやつだって」
「うん」
それは間違いなかった。
団藤の荷物がない分、少し部屋は寂しくなった。
「そういや、飯なんもなかったよねー。ピザとろっか」
「うん」
正直いろいろなことがありすぎて食事の気分ではなかったが、杉沢が食べたいならそれでいい。
「そうだ。今度もう一度、杉沢のお父さんに会えないかな。姉さんと一緒に」
めちゃくちゃにされた姉の人生を、少しでも早く立て直してあげたかった。
「いいよ。いつにする?」
数日後、指定されたカフェの最寄り駅で、姉と待ち合わせた。
薄くはなったものの、まだ手の形は首に残っている。
しっかりとマフラーを巻いて、物騒な痕が人目につかないようにしておいた。痕とは関係ないが、念のためマスクも着用した。
誰が撮影していたのかは知らないが、父に首を絞められる俺の動画はインターネット上に出回ってしまっている。
ニュースで使われた方にはモザイク加工がかかっていたが、SNSに流れた方はそんな配慮もない。
かくして、麗しいわけでもない俺の容姿は有名になってしまった。
大学でも非常に人目を引いてしまい、首が見たいという趣味の悪い連中に囲まれるなどして、この数日間は俺にとって大変な試練となった。
「お待たせ陽介。思ったより元気そうでよかった」
姉は時間通りに来た。
フレッシャーズスーツを着ている姉は見慣れないが、本人はすっかり板についている様子だ。
「お久しぶりです。引っ越しの際は本当にお世話になりました。あのあと、まさか父のせいでこんなことになるなんて……お怪我の具合はいかがですか」
杉沢と社交辞令を交わす姉は、知らない人のようだった。
もう姉は俺よりずっと大人だ。結婚して、これから働きに出て。
少し寂しくなったあと、これでいいんだと思い直した。
俺もいつまでも子どもではいられない。
予定時刻の五分前にカフェに入る。
注文したコーヒーがテーブルに運ばれたころ、杉沢のお父さんがあわただしく店内に入ってきた。
姉が席を立ったので、俺も姉に習って立ち上がった。
「ごめんなさい、出がけに急に案件が入って」
あわただしくても髪の毛は一糸乱れず美しく撫でつけてある。
杉沢と同じで、もとが綺麗な髪をしているんだろうな、と俺は思った。
「こんにちは。えっと……」
「こちらが千夏さんですね?はじめまして」
「はじめまして、千葉千夏と申します」
俺から紹介しなくてもふたりで話を始めてくれて、俺はほっとした。
ひとしきり挨拶が終わったころ、杉沢のお父さんは改まった様子で身を乗り出した。
「お話を始める前に、今回の事件についてのおふたりのスタンスについて、お聞きしたいなと思うんです」
杉沢のお父さんは『事件』という単語で特に声を潜めた。
俺と姉は顔をこわばらせた。
「非常に言いにくいんですが、お父様はこれから刑事的、あるいは社会的制裁を受けることになると思うんです。それについて、ご家族である皆さんは、ほっとした、とか、あるいは悲しいとか、いろんな感情をお持ちだと思います。その正直な気持ちをお聞かせいただければな、と。あ、もちろん、無理はしなくていいんですよ」
杉沢のお父さんは気遣うように付け加えた。
答えによっては姉の未来が変わってしまうんだろうか。俺はひどく緊張した。
先に話し始めたのは姉だ。
「……父は私が家を出たことをきっかけに事件を起こしました。私が軽率な行動をとらなければ……私が夫との人生を諦めていれば、父は以前と同じように暮らしていたはずです。自分を責める気持ちはあります」
「姉さん……」
それを諦めてはいけないだろう、と俺は叫びたくなる。
「しかし父が朔さんや、警備の方や、弟にしたことは、きっかけが何であれ許されません。法にのっとって罪を償ってほしいと思っています」
姉はゆっくりと言葉を選びながら言った。
少しの沈黙があって、ついに俺が話す番が来たんだと悟った。
俺は父の現状を話した。まとまりのない話を、杉沢のお父さんは辛抱強く聞いた。
「何が言いたいかと申しますと……僕も、父は刑を受けるべきだと思っています。悪いことをしたというのも、そうですし……父は姉のいない人生に慣れないといけません。姉のためだけでなく、父のためにも」
俺はそう言って締めくくった。俺の素直な気持ちだった。
杉沢は横でじっと俺の話を聞いている。
(ああ、俺も父さんと同じだ)
話し終えたとき、突然、胸がずきりと痛んだ。
(杉沢には好きな人がいる)
姉に千葉さんという人がいたように、杉沢にも、一緒に人生を過ごすべき相手がいる。
俺にとっては幸いなことに、まだ杉沢の恋が叶っていないだけ。
(俺もいつか、杉沢のいない人生に耐えなくちゃいけなくなる)
杉沢の恋が叶ったとき、俺はあの部屋を出なくてはならない。
(そのとき、俺はどうするんだろう)
父のようになってしまったらと想像して、俺はぞっとした。
「……しっかりした考えで安心しました」
真剣な顔をして聞いていた杉沢のお父さんは、やがて杉沢そっくりの表情で笑った。
そのあとは姉の進路に関しての希望に話が移った。
姉も俺も、そろってほっとした顔になった。
それ以降、一切事件の話は出なかった。
杉沢のお父さんと姉が話している間、杉沢はほとんど話すことなく、何かを考えていた。
「ねえ、よーくん」
姉や杉沢のお父さんと別れたあと、ふたりを見送りながら杉沢はつぶやいた。
やけに澄んだ空の下で、杉沢はとても寂しそうに見えた。
「やっぱさ。一緒に暮らすの、やめた方がいいのかな」
一番聞きたくなかった言葉だった。
俺は苦しくなった。
「なんで」
父が捕まった以上、もう俺と一緒に住むことにリスクはないはずだった。
どうして。
俺が何か間違ったことをしてしまったんだろうか。
「俺も、よーくんのいない人生に慣れないといけないかなって……」
俺の使った言い回しで杉沢は答えた。
そのことに、また胸が痛んだ。
友達としての信用はまだまだでも、安眠グッズとしての利用価値はあるんだとばかり思っていた。
____俺は安眠グッズとしても用済みだった。
(はは、そりゃそうだよな……)
一緒に住んでいるせいで忘れかけてしまうが、杉沢に出会ったのはつい三か月前のことだ。
俺と杉沢は本来、ほとんど他人だ。
(それを友達とか……勘違いして……)
杉沢にとって特別な存在なんだと、自意識過剰になっていた。
恥ずかしすぎて笑ってしまいそうだ。
杉沢朔は、ただ距離感がおかしくて、ひどく思わせぶりなことをいう男だった。それだけだ。
そんなことは、初めから知っていたはずなのに。
「……それは、好きな人がいるから? 」
俺は未練がましく聞いた。
杉沢はもっと寂しそうな顔になった。
「うん。そうだよ……好きな人のため」
俺は俯いた。
杉沢のいない人生に慣れるときが来たのだと、杉沢自身に宣告されている。
「……杉沢がそれでいいんなら」
俺は小さな声で言った。
それ以外に選択肢はなかった。
俺たちは黙ったまま家に着いた。
玄関に立って、俺たちは部屋を眺めた。
壁際にはまだ俺の段ボールが無造作に積まれたままだ。
「また駿に荷物、頼まなきゃ……」
「……うん」
「よーくんがいないとまた寝られなくなっちゃうかも」
「……うん」
泣かないように気を付けていたら、俺は頷くことしかできなくなった。
「どこに住むの」
「実家……」
「居心地、悪いんだったよね……? 大丈夫? 」
「大丈夫……だから……」
泣くのは下手なはずだったのに、数日前に一度塩水を通したせいか、涙腺が脆くなっている。
ああ、ダメだ、もう汁が目の縁にせりあがってきた。
「心配しなくて……大丈夫、だから……」
耐えろ汁。流れ出るな、そこで持ちこたえていろ、お前には表面張力があるだろう、踏ん張れ、あ、馬鹿、ダメだ。
モヤシマンは表面張力すら貧弱だったらしい。
重力の通りに、俺の目からぽろっと涙が落ちた。
杉沢は俺の顔を覗き込んだ。
「よーくん、泣いてるの」
「泣いて゛、な゛い」
汚い声で俺は答えた。泣いているのをまったく隠せていない。
杉沢はなぜか嬉しそうに微笑んだ。
「……ふふ、ダメだよねー。俺、さっきからよーくんを離さなくて済む理由ばっか考えちゃう」
どういう意味だろう。
「でも、好きな、人、が、いるんだろ。俺がここにいたら、お前は」
「だから。よーくんがいいなら、いいんだってば」
「意味、わかん、ね゛え」
杉沢は長いため息をついた。
「ねえ。田中君や団藤のこと、気持ち悪い? 」
呆気にとられた俺は泣くのも忘れた。
「そんなわけ」
「じゃあ、俺のことも嫌いにならないで。約束」
意味がわからないままに、俺はゆっくりと頷いた。
杉沢は俺の手を引いてベッドに座った。
「俺がよーくんを手放さなきゃいけないと思ったのは、俺がよーくんにすっげえ依存してるから」
「安眠グッズとして……?」
それは存じ上げておりますが。
「だから、そんなのもう口実。てか何グッズって」
杉沢が珍しく呆れている。
「もしよーくんのお姉さんがしたみたいにさ、よーくんが俺を置いて誰かとどこかに行ったら……俺、よーくんのお父さんと同じになってたかもしれない。そう言ったら、わかるでしょ」
俺は首を傾げた。
その懸念はどちらかというと、俺が杉沢に対して持っていたものだ。
それも、俺と父が親子だからという、自分を疑うには明確な根拠がある。
杉沢と父は血がつながっているわけでもないし、どうしてそんな風に思ってしまったんだろう。
俺が悩んでいると、杉沢は下を向いて、ぽつりとつぶやいた。
「俺、よーくんが好き。壊れちゃいそうなくらい。だからよーくんのお父さんの気持ちがわかっちゃった。それがこわかった」
俺は信じられない気持ちで杉沢の言葉を聞いている。
たぶん杉沢の言う『好き』は、俺が杉沢に対して抱いている感情とは別物だ。
安眠グッズに対する愛着を、杉沢は『好き』と勘違いしているだけ。杉沢が団藤を振ってしまったのは、自分の感情が勘違いだと気づいていなかっただけ。そうに違いない。
そう思おうとするのに、杉沢の言葉はそうさせてくれない。
妙な具合に、俺が杉沢に対して抱いていた感情とシンクロしている。
「よーくんのお父さんがどんどん壊れていくのを見て、あれが俺の末路なのかなって。思うじゃん。そしたらよーくんが、『父は姉のいない人生に慣れないといけない』って言ったから、ハッとしてさ。このままじゃいけないと思った。俺もよーくんがいない世界に慣れなきゃダメだって。いつか来るサヨナラに耐えられなくなっちゃうって」
杉沢はつないだままの俺の手をぎゅっと握ってくる。
「俺はずっと、俺だけのためによーくんを独占してた。今もこうやって、してる。よーくんのお父さんとおんなじ」
「全然違うよ……だって杉沢は俺のためにたくさん」
「優しいね、よーくん。全部俺のためだよ。前にも言ったよね? 捨てられないように、よーくんにたくさん恩を売っておいただけ。よーくんのお父さんと、少しやり方が違うだけ」
「そんなこと言ったら、普通の友情なんて、この世になくなっちゃうよ……」
「友情?そんな綺麗なもんじゃないよ。もっとずっとどろどろしてて、気持ち悪いやつ」
俺が言っているのかと思うほど、俺が思ってきたことと同じことを杉沢は言う。
杉沢は自虐的に笑った。
「たとえばさ、俺、よーくんとセックスだってできるよ。引いたでしょ」
さすがの俺も、これにはぽかんとした。もちろん、引いたわけではない。
「よーくん?」
ゆっくりと首を横に振る俺を、杉沢は不思議そうな顔で見ている。
「だって……だって俺もできるから……」
できるというか、したいというか。
いや頻繁にエッチな夢に悩まされていただけで、実際に、現実に杉沢とエッチしたかったわけではなかった、はず。いやそれは現実になりっこないから諦めていただけか?
もう自分でもわからなくなっている。
「っていうか、今杉沢が言ってたこと、全部俺がずっと思ってたことだから……」
杉沢は目を見開いている。
俺は言葉が止まらなくなる。
「っていうか、俺の方がずっと気持ち悪いから……杉沢のこと、全部知りたかった。杉沢が隠してること、何もかも全部。お母さんのことも、団藤にだけ打ち明けてるの知ってたよ。なんで俺は教えてもらえないんだろって、俺が信用してもらってないからだろって、だからもっと杉沢の友達としてふさわしくなんなきゃって、それで頑張って」
「知ってたんだ」
俺は俯いた。言ってはいけないことまで話してしまった。
「ごめん、ほんと最低だよな……そりゃ杉沢にだって言えないことぐらいあるし、お母さんのことなんてデリケートな話だし……」
「そうじゃない」
杉沢は困ったように言って、俺の癖毛を撫でた。
「弱いとこ全部見せたら、依存しちゃいそうじゃない。今よりもっと。離してあげらんなくなりそうで」
それで言わなかったのか。
俺が信頼されていなかったのではなく、依存してしまいそうだったから?
_____それを俺が望んでいるとも知らないで?
「俺はそれでよかった……」
杉沢はじっと俺を見つめた。
杉沢の瞳はひどく無表情だ。
だが、不思議とこわくはなかった。
杉沢の綺麗な顔が、ゆっくりと俺の顔に近づいてくる。
俺もまた杉沢の唇を見つめながら、ゆっくりと顔を近づけていく。
いつもの俺だったら、考えもつかなかったことをしようとしている。
まるで魔法にかけられたようだった。
顎にガーゼを貼った男と、首を紫色にしたままの男。傷だらけの俺たちは、ベッドに座ったまま唇を重ねた。
初めてのキスは、軽くて優しい感触だった。
杉沢の唇が離れていく。
「ふふ、ほんとよーくん、押しに弱いんだから」
杉沢の親指がそっと俺の頬を拭った。
頬が熱いせいで、涙だったものはすぐに指の下で蒸発した。
「じゃあ、今度、会いに行こ。俺のお母さんに」
「うん」
「そしたらもう、引き返させてあげないから」
「うん」
「気が変わったとか、飽きたとか、そういうのは受け付けないんで。ずーっと俺と一緒。いいね? 」
ペンギンのマスコットを押し付けてきたときと言い回しが似ている。
やっぱりあのペンギンは杉沢だったか。思わず俺は笑った。
「必死じゃん」
「決まってるでしょー」
「お前こそ、彼女もうふたり作るとか、なしだよ」
「よーくんの意地悪」
俺と杉沢は同時に噴き出した。
部屋の隅でペンギンが俺たちを見つめている。
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